共感について
2009年 07月 03日
エコログというサイトがある。
講談社のエコロジーに関するwebマガジンのようなもの。http://moura.jp/ecologue/top.htmlとてもかっこよく、美しく、内容も充実している。そこに、「世界のエコイストたち」というインタビューが掲載されている。
今回登場していたのは、田坂広志さんという「世界レベルの社会起業家」だそうだ。
この人の環境問題への提言は読んでいていろんなことを想像する刺激的なものだった。
まず田坂さんは、「環境問題は人類が意識進化のために自ら生み出した契機」と捉えている。話題はインターネットはグーグルアースに及ぶ。私たちが簡単に手軽にバーチャルリアリティを日常生活で手に入れることができるようになったのは、メディアの革命が進んだからで、それによって人間はいま自我意識の変化を経験しているんだ、と田坂さんは説明する。その説明がとても流暢でわかりやすい。そして、多様な自我意識が人間の価値観を変えていく、自我がゆるく多様になることで他者への「共感」が生まれる……というあたりで、次号へ……と続いている。
スケールの大きな話である。それをきっちりとリアリティをもって語るのだから、この田坂さんの中には自分の考えに対する強い確信と自信があるのだと思う。なによりも人類の意識が変化していることを自分が感じ日々生きているのだろう。自分の現実だから確信があるのだ。
それを読む私は「そうか……」と思う。そして、私の身体的精神的リアリティと田坂さんのリアリティとのギャップを感じるのである。私には人類の意識が変化しているというリアリティがもてない。学校では相変わらずだが子供たちの間に陰湿ないじめがあるし、地域社会でほんの小さな物事を変えていくのでも幾多の手続きと根回しが必要である。
田坂さんは日本は世界のなかでも数少ない恵まれた豊かな国だと言う。ほんとうにその通りだと思う。たとえば、チェチェンとか、アフガニスタン、イラン、ザイール、ソマリア、パレスチナ……そういう戦いの絶えることのない国に生まれたらどんなに日々不安であろうか。そこまでは考えられるが、それ以上に彼らの困苦のなかに自分から入っていくのは、なにかしら別のやり方が必要になる。でも、田坂さんは「目の前で苦しんでいる人の姿は、本当は、自分の姿なのだ」と思うことが共感であり、その共感力をこれから人類は獲得していくのだ……と、たぶん言いたいのではないか。その続きは次号なので断定はできないけれど、文脈からするとそうだろう。
このような意見、スタンスは素晴らしいと思う。私は田坂さんを尊敬する。だが、どうしても私にはできない。私とは違う。違っていいのだが、どこが違うのかについて考えてみた。私はそもそも「人類意識が進化している」という、この進化の思想というのが苦手なのだ。これは先進国の男たちの相変わらずの進歩思想なんじゃないか。
人間は確かに実在しないもの、ネット上のバーチャルな関係や存在を現実として認識し、それによって快感を得たり苦しみを得たりする。つまり脳はバーチャルなものでも現実として承認する。抽象的な概念も存在としてリアリティをもって感じることができるほど、とてつもないイメージ力を搭載した脳細胞をもっている。それゆえ、思考だけの実験が可能であるし、ホーキングは宇宙を語る。バーチャルの方が存在感をもってしまったら、最後は映画「マトリックス」のように、サヤの中で夢だけ見て一生を終えても何が現実なのかわからない、という状態までいってしまう。実際、なにが現実かなんて、脳が決めているのであってどうでもいいのかもしれない。
ネット上のアバターに恋をして、アバターのことばかり考えてしまうのであれば、その人にとってアバターがリアリティをもった現実であるのだ。
しかし、ネットなどまったくやらない……という人にとっては、ネットのアバターにリアリティをもってしまう人の現実はわからない。そこには共感が生まれようもないだろう。田坂さんは、私たち進化した先進国の人間が、発展途上国の人間に共感をもつことは語っているが、では、発展途上国の人たちは彼らとは全く別のリアリティに生きている私たちに共感をもつことができるのだろうか? 彼らはYouTubeの映像を見ながら「彼らをなんとかしなくちゃ」と思っている私に共感をもてるんだろうか。助けてくれるのはありがたいと思っているだろうけれど、共感なんかもてないんじゃないかな。
私は、むやみに他者に一方的に共感するのは逆に失礼ではないかと思っている。少なくとも、チェチェンの人たちと私は会ったこともない。そこに必然的な出会いもない。その限りにおいて私は「あなたはあなた」「私は私」というわきまえをもって接したいと考える。共感は確かに人間にとってきわめて重要で大切なコミュニケーションのツールであるけれど、そう簡単には使えないと思っている。共感は相互的なもので一方的な思いの押し付けではない。片方だけが共感するなんてことはありえない。たぶん、田坂さんは共感について、思いは私とほとんど同じなのではないかと推測する。ただ、共感という、とても曖昧でつかまえにくい不思議な現象について、意識の進化という意図的な脈絡のなかで説明しようとすると、それだけでズレるのである。そのように、共感というのは実は手あかにまみれた言葉のふりをしているが、言葉としてはまだ定義されておらず、若鮎のようにみずみずしく美しい概念であり、そう簡単に扱える言葉ではないと思っている。英語だとempasyとsympasyの違いになるんだろうか。
講談社のエコロジーに関するwebマガジンのようなもの。http://moura.jp/ecologue/top.htmlとてもかっこよく、美しく、内容も充実している。そこに、「世界のエコイストたち」というインタビューが掲載されている。
今回登場していたのは、田坂広志さんという「世界レベルの社会起業家」だそうだ。
この人の環境問題への提言は読んでいていろんなことを想像する刺激的なものだった。
まず田坂さんは、「環境問題は人類が意識進化のために自ら生み出した契機」と捉えている。話題はインターネットはグーグルアースに及ぶ。私たちが簡単に手軽にバーチャルリアリティを日常生活で手に入れることができるようになったのは、メディアの革命が進んだからで、それによって人間はいま自我意識の変化を経験しているんだ、と田坂さんは説明する。その説明がとても流暢でわかりやすい。そして、多様な自我意識が人間の価値観を変えていく、自我がゆるく多様になることで他者への「共感」が生まれる……というあたりで、次号へ……と続いている。
スケールの大きな話である。それをきっちりとリアリティをもって語るのだから、この田坂さんの中には自分の考えに対する強い確信と自信があるのだと思う。なによりも人類の意識が変化していることを自分が感じ日々生きているのだろう。自分の現実だから確信があるのだ。
それを読む私は「そうか……」と思う。そして、私の身体的精神的リアリティと田坂さんのリアリティとのギャップを感じるのである。私には人類の意識が変化しているというリアリティがもてない。学校では相変わらずだが子供たちの間に陰湿ないじめがあるし、地域社会でほんの小さな物事を変えていくのでも幾多の手続きと根回しが必要である。
田坂さんは日本は世界のなかでも数少ない恵まれた豊かな国だと言う。ほんとうにその通りだと思う。たとえば、チェチェンとか、アフガニスタン、イラン、ザイール、ソマリア、パレスチナ……そういう戦いの絶えることのない国に生まれたらどんなに日々不安であろうか。そこまでは考えられるが、それ以上に彼らの困苦のなかに自分から入っていくのは、なにかしら別のやり方が必要になる。でも、田坂さんは「目の前で苦しんでいる人の姿は、本当は、自分の姿なのだ」と思うことが共感であり、その共感力をこれから人類は獲得していくのだ……と、たぶん言いたいのではないか。その続きは次号なので断定はできないけれど、文脈からするとそうだろう。
このような意見、スタンスは素晴らしいと思う。私は田坂さんを尊敬する。だが、どうしても私にはできない。私とは違う。違っていいのだが、どこが違うのかについて考えてみた。私はそもそも「人類意識が進化している」という、この進化の思想というのが苦手なのだ。これは先進国の男たちの相変わらずの進歩思想なんじゃないか。
人間は確かに実在しないもの、ネット上のバーチャルな関係や存在を現実として認識し、それによって快感を得たり苦しみを得たりする。つまり脳はバーチャルなものでも現実として承認する。抽象的な概念も存在としてリアリティをもって感じることができるほど、とてつもないイメージ力を搭載した脳細胞をもっている。それゆえ、思考だけの実験が可能であるし、ホーキングは宇宙を語る。バーチャルの方が存在感をもってしまったら、最後は映画「マトリックス」のように、サヤの中で夢だけ見て一生を終えても何が現実なのかわからない、という状態までいってしまう。実際、なにが現実かなんて、脳が決めているのであってどうでもいいのかもしれない。
ネット上のアバターに恋をして、アバターのことばかり考えてしまうのであれば、その人にとってアバターがリアリティをもった現実であるのだ。
しかし、ネットなどまったくやらない……という人にとっては、ネットのアバターにリアリティをもってしまう人の現実はわからない。そこには共感が生まれようもないだろう。田坂さんは、私たち進化した先進国の人間が、発展途上国の人間に共感をもつことは語っているが、では、発展途上国の人たちは彼らとは全く別のリアリティに生きている私たちに共感をもつことができるのだろうか? 彼らはYouTubeの映像を見ながら「彼らをなんとかしなくちゃ」と思っている私に共感をもてるんだろうか。助けてくれるのはありがたいと思っているだろうけれど、共感なんかもてないんじゃないかな。
私は、むやみに他者に一方的に共感するのは逆に失礼ではないかと思っている。少なくとも、チェチェンの人たちと私は会ったこともない。そこに必然的な出会いもない。その限りにおいて私は「あなたはあなた」「私は私」というわきまえをもって接したいと考える。共感は確かに人間にとってきわめて重要で大切なコミュニケーションのツールであるけれど、そう簡単には使えないと思っている。共感は相互的なもので一方的な思いの押し付けではない。片方だけが共感するなんてことはありえない。たぶん、田坂さんは共感について、思いは私とほとんど同じなのではないかと推測する。ただ、共感という、とても曖昧でつかまえにくい不思議な現象について、意識の進化という意図的な脈絡のなかで説明しようとすると、それだけでズレるのである。そのように、共感というのは実は手あかにまみれた言葉のふりをしているが、言葉としてはまだ定義されておらず、若鮎のようにみずみずしく美しい概念であり、そう簡単に扱える言葉ではないと思っている。英語だとempasyとsympasyの違いになるんだろうか。
by flammableskirt
| 2009-07-03 13:28

