死刑囚獄中ブログ

死刑囚獄中ブログ、というものがあることをネットのニュースで知った。
http://knuckles.cocolog-nifty.com/
小田島さんという死刑囚の手紙を、支援者の方が公開している。
このブログはコメントが可になっていて、獄中の死刑囚の手紙に対してさまざまなコメントがついていた。
一般の人が死刑囚に対してどのような感覚で対応するのか読んでみようと思った。
もしこのコメントが、世の中の一般的な人たちの日常感覚で書かれたものであるなら、私は相当世の中の常識からズレてしまっているんだな、ということを自覚した。

実際、日常的に死刑囚を支援し、東京拘置所に通っているのであるからその時点で、私は一般的な人たちと死刑囚に対する感覚は違うだろう。かつては「死刑囚と関わるのは嫌だな」くらいに思っていたが、つきあいも三年になると、相手が死刑囚かどうかということが、だんだん意識から薄れていってしまうのだった。
つきあってみれば、相手は一人の人間であり、私と変るところもなく、いいとこもあれば欠点もある、ごくごくそこらの男なのであり、そのような人が特殊な状況のなかでは人を殺すのをいとわないのであり、それは誰にでもあることだと思えてしまうのである。もうここからして、私の考えは一般的とは言い難い。

自分がどれくらいズレているのかは、自分ではなかなかわかりずらいものなので、このブログを読んで、特に読者のコメントを読んで、なるほど、こういう考え方をする人が多いのだなということがわかり、改めて自分の立ち位置について考えてしまった。支援といってもお金の援助をしているわけでもないし、ほんとに、細々とした便宜をはかったり、手紙を書いたりすることだけなのだが、私の場合は作家であり、やろうと思えば死刑囚の現状を世の中に訴えることが可能である。だから、手紙の朗読会などもやっている。

しかしながら、私は死刑囚の手紙を朗読することに限界を感じてしまった。なので、前回は死刑囚の手紙と同時に自分の手紙を読んだのだった。死刑囚は他人であるから彼がなにを考えているのか正直なところ私にはわからないし、彼の手紙が本心かどうかも私は確定できない。私にわかるのは私のことであり、私の気持ちである。そして、私の気持ちは揺れ動いている。時としてものすごく怒りを感じることがある。むなしさを感じることもある。こんな人は人間として最低だと思うこともある。だが、それでも、この人と自分は違わないと思い、この人は生きている、生きているとはどういうことかと悩み、そして、私はこの人の前でどのような私、どのような他者であればいいのか、と思う。

実際に死刑囚の前に立ったら、みんなそうやって揺らぐと思う。相田みつおじゃないけど、人間だもの。弁護士も、裁判官も、刑務官も、教誨師もそうだと思う。死刑囚という人の前に立ったとき、問われるのは相手の罪ではなく、私の存在。私はこの人のなんなのか?ということになる。これはたいへんしんどい。

ネットワーク、ネットの書き込みがすばらしいのは「自分が問われない」ことだ。だからなんでも言えるのであり、こんな楽なことはなく、楽だから毎日こうして書けるのである。私は問われない。ここに相手が存在しないからだ。すばらしい。気持ちよく自分にオナニーできる。
だが、目の前の人がいたら、その人の前でせんずりかいている自分が、相手の瞳に映るのであり、そうなると、いったいこの人の前で、私って何者なんだ、私はあなたのどういう他人であればいいのか?そう考えざるえなくなるのである。そして、それはとってもしんどく、めんどくさく、情けなく、溜息の出ることなのだった。
by flammableskirt | 2009-05-03 13:36

作家 田口ランディの新刊・イベント情報・近況をお知らせします。 


by flammableskirt
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31