考えるということ
2009年 04月 21日
罪を問われていた林真須美さんの死刑が確定したことになる。
冤罪ではないか、という声が上がるなかで、状況証拠の積み重ねによって死刑が確定したこの事件は、日本の裁判の歴史に大きな波紋を残した事件だと思う。厳罰化がすすむなか、死刑制度はこれからどうなっていくのか、報道を見たときなにかまた足下がぐらりと揺らいだような気分がした。
自分に正直に感情を露骨に表現すれば、私は、マスコミ報道によって林真須美さんのイメージをしっかりと脳に定着させられており、個人感情として彼女を好きではない。彼女の無礼な態度や、ふてくされた顔、むくんだ顔、そのようなものを繰り返し十年も見せられてきたのである。私が見た報道のなかで、彼女に好意的な映像は一つもなかった。よって、私は林真須美さんが嫌いになったのである。うまく条件付けをされたのである。
「田口ランディの顔が嫌い」と、まったく面識のないどこの誰かわからない人のブログに書いてあったのを読んだ時はショックだった。そういうことはままあるので、他人のブログはなるべく読むまいと思うようになった。うっかり自分のことが書かれていると本当に辛いからだ。私の顔が嫌いな人がいて、そう言葉にしている。その人はあきらかに私に悪感情をもっているのである。無根拠に。
そしてそれと同じように、私も林真須美さんが嫌いである。顔が嫌いである。私の顔を嫌ったどこかの誰かと。あるいは私の本を読んで「田口ランディの性格が嫌い」「考え方が嫌い」と言う人たちと同じように。だから人とはそういうものであるのだと思う。私が会ったこともない林真須美さんを好きじゃないんだから。
そして、感情は感情としていかんともしがたいが、それはそれ、これはこれと言える理性を鍛えたいと思う。人間はどんどんさまざまな情報から侵されており、いやおうもなく見てしまう映像に左右され、それに心動かされるのはどうしようもないし、それが悪くもなければ良くもない。そういうものである。感情はあるが、その感情とは別に、物事を考える癖をつけたいと思う。
物事を考える癖とは、つまり、考えるべき対象に自分が近づく癖である。考えるためには対象と関わらなければならない。だから、和歌山毒物カレー事件を考えようと思ったら、この事件について自分から近づいて、そこに入っていこうとしなければならないし、林真須美被告について考えようと思ったら、私が彼女に近づいていくしかないんだ。それが、考えるという行為なのである。
動機も証拠も、ほんとうに私を納得させる判決であるのかと言えば、そうではない。動機も証拠も決定的なものではないのに、なぜ上告は棄却されたのだろうか。混入されたヒ素に関しては自宅から検出されたものとの蓋然性が高い……であり、動機に関しては解明されず……であり、目撃証言は確実ではない。それでも上告が棄却されたのはなぜなんだろう。私にはよくわからない。棄却した裁判官の茄子弘平氏は「国民からみて、わかりやすく、使いやすい裁判」の実現が願い、http://www.courts.go.jp/saikosai/about/saibankan/nasu.htmlとコメントしている。
なるほど、確かに今回の裁判は国民から見て、わかりやすく、使いやすいかもしれない。大多数の期待通りに林真須美という女性は死刑確定になった。この場合は国民のなかに当事者は含まれるのだろうか。
明日、町内会の寄り合いで、お茶のなかにヒ素が混入され人が死んだとして、そこに出席していた私も容疑者になるのだと仮定したとき、ぞっとする。私を嫌いな人は確かにいる。そして、たぶんマスコミは有名人を真っ先にいたぶるだろうし、自分が同じ立場にならないとは限らない。いやな連想だが、妄想が仕事だから妄想するのである。
ヒ素は、最初に食中毒と誤解され、適切な救急対応ができていなかった。確実な致死量ではなかったことを思えば、いたずらも考えられるが、その場合、医療対応の遅れが死者の数を増やした(かもしれない)ということは考慮されないものだろうか。死者の数=極刑という考え方は間違っていないか。
考えの範囲が狭すぎるような気がする。いまさら……なのだが、死刑が確定したことがショックだ。もう手遅れだとは思わないで、自分なりにもう一度、考えてみようと思う。

