実体のない不安のようなもの
2009年 04月 14日
そもそも感情的な人間なので、感情に支配されがちだ。自分では自覚できないが、感情的に発言する人を見ると、ああ、あれは自分だと思う。あれは自分なのに、やはり違和を覚える。なぜ自分には違和を感じず、他人には感じるのか。身勝手だと思う。
ものすごく悲惨な写真を示されて「この現実を見てください、ここから目をそむけないでください」と言われることがある。たとえば、広島・長崎の被爆者の写真。取材を通してたくさん見てきたが、被爆者の写真の衝撃は圧倒的であり、このような現実を前にして人を無力にさせる。こんなひどいことをしたのだから、原爆は悪なのだ、戦争は悪なのだ、二度としてはいけないのだ。ということになるのだが、揺るぎなき正義でもってそれを主張されるとき、その人の顔に顕れる嘆きと怒りこそ、私は恐ろしいと感じる。そして、多くの場面で私もああいう顔をしているのだろうな、と思うのである。
マサじいは、にこにこ笑いながら言った。
「ほら、私は放射能を浴びてもこんなにピンピンしていますからね。原爆なんてものは、私一人殺せないんですから、情けないものですよ」
爆心地から一キロの地点で被爆したが命をとりとめ、その後、原爆症にはならなかった。
いまは亡きマサじいの言動は、原爆の悲惨を感情的に訴える人たちにとっては、たいへんに迷惑だったようだ。「そういう発言は原爆の被害がたいしたこともなかったように聞こえる。慎むべきだ」と言われたそうだ。それでも彼はあちこちに海外旅行に出かけ「私はヒバクシャです。原爆を浴びました。でもほら、こんなに元気ですよ。世界一元気なヒバクシャです」と公言し、そんな彼に人々は握手を求めた。
「マサじいは、原爆をどう思っているの?」
妙な質問であるが、他にうまく聞く言葉がなかった。
「原爆ですか、あれは人の思い、念が作ったものです。原爆を作りたくて作りたくてたまらない人たちがいて、そして作ったのです。そのような人たちはたくさんいて、何世代にもわたって、一瞬にして世界を変えてしまうような強いものを望んだのです。だから、原爆ができたのです。そう簡単には消せません。あれは人の思いが形になったものだからです」
「私はやはり、原爆で死んでいった人たちを見ると辛い。死者のために怒りをもたないといけないような気持ちになる。無念をはらしてあげなければ申し訳ないような気持ちになる」
「それはいけませんね。ランディさん、人間は死んだらとても楽になるんです。どんな存在でもそうなんです。ほんとうですよ。死ぬほど楽なことはないんです。だってもう苦しむべき肉体がない、想念をもとうにも脳がないんですからね。でも、そう言うと怒られますね。この世界の常識では、死ぬのは悪いことなんです。死ぬのは悲しくて辛いことなんです。しかし、人間は必ず死にますでしょう。そして死んだあとのことなんて誰もわからないはずなんです。だけど、死んだら楽になるということになれば、みんな死にたがるから、そういうことを言ってはダメだと言われます。生きていることは死ぬことより価値があると思いたいんです」
「でも、そうでないと生きている意味がなくなってしまう」
「人は必ず死にますでしょう」
「そうだね」
「必ず死ぬのに生きているのは意味がないことですか?」
「いいえ……。でも、死ぬことがすばらしいというのは、言ってはいけないことだと思う。それを言ったらきっと、たくさんの人が怒りだします。ふざけたことを言うな。遺族の気持ちを考えろ……と。特に悲惨に亡くなられた方々を悼む人はそう言うと思う」
「ランディさん。死体にお化粧するのは、死体が安らかに見えるためです。でも、どんな死体もほっておけば腐ってうじがわいて変形します」
「知っています。私の兄は腐爛死体で発見されました。葬儀の間中、腐った匂いがしていました。死体を見たいと言っても、見てはいけないと言われて見ることができませんでした」
「どんな安らかな死に方をした人でも、腐爛死体になればみじめなものです。それを見せられれば人間の感情は揺らぎます。でも、死体とは腐るものです。それが自然であります。死体は抜け殻です。そこにはもうとっくにあなたのお兄さんはいませんでした」
「その通りです」
「私は死ぬのは怖くありません。楽しみなんです。早くこの身体から自由になりたいです」
「せっかく生き残ったのに、死にたいと思うの?」
「死にたいわけではないです。ランディさんは老いたくないけれど老いるでしょう。早く老いたいとは、思わないでしょう。でも、老いていくのがだんだん楽しみになりませんか? 私はそうでした。老いというものも悪くないんです。なにより、見えなかったものが見えてくる。わからなかったことが納得できる。年を経るとね」
「確かにそうです」
「だったら、あなたにもいつかわかるでしょう。そのうち死ぬのが楽しみになってくるんですよ」
「そうでしょうか? それと老いることとは別のような気がしますが……」
「いや、そうなります。あなたはきっとそうなる。怖れが消えていきます」
「ありえないと思う。私は怖いです。たとえば、もしいま、突然に誰かが現われて私に銃を突きつけて、私を撃ったら。その恐怖は……。もし、誰かが私の子どもを撃ったら……、考えただけで気が狂いそうです。恐ろしいです」
「それも一瞬の感情です。それも過ぎ去るんですよ。怖いと思うのも、銃をつきつけられて、死ぬまでのほんの一瞬です。あっという間です。それは、子どもが注射を打つのが怖くて、打つ前から大泣きしているようなものです」
「そうかもしれませんが、怖いものは怖いですよ」
「その怖れがね、人類に原爆を作らせるんです」
「それって、飛躍のしすぎでは?」
「どうしてですか、人間は怖れを乗り越えなくてはいけません。怖れという感情は、いま、ここにない危険や痛みを、まるで体験しているかのように想起させてくるんです。でも、いま、ここに銃はないし、誰も死にません。痛くもありません。恐怖の先取りが戦争を起こし、そして原爆を作らせているんです」
「そうだとしても、怖いという感情が起ってしまうものを、どうしようもないではないですか。怖いものは怖いのです。消せと言われても消せません」
「消せなんて言ってませんよ。そんなことする必要ないんです。ただ、怖いなあ、怖いなあ、と見ていなさいと言っているんですよ。ああ、自分は怖いんだなあと。自分はいったいどうしてこんあに怖いんだろう、なにを怖がっているんだろう……と」
「私が怖れているのは、人間です。恐怖や怒りを感じている人間が一番怖いです。その人たちは自分の怖れのためになにをするかわからない。そういう人が、虐殺したり、拷問したりするんです。それは自分の怖れのためです。自分が怖いから他人を犠牲にします。そのような人間が一番怖いです」
「だったら、できることは一つしかないんです。あなたが自分の恐怖を克服することです。あなたにできるのは、あなたの恐怖を消すことだけなんです」
「無理ですよ、そんな……」
「どうしてですか?」
「私は、臆病ですから。残虐なことを考えただけで、卒倒しそうです。だから、きっと私もいざとなったらこの恐怖のために、人を殺すと思います。ガンガン、銃を撃ちまくって、皆殺ししちゃうと思いますよ」
「戦争ですね」
「戦争です。そうなりたくはないけれど、怖いですから。でもそれは私のせいではありません。そうしないと殺されるという状況があるから、その恐怖のためにそうなるんです」
「まわりの人すべてが、殺されることを恐怖する状況ですね」
「そうです」
「恐怖の連鎖です」
「そうかもしれません」
「だからね、その集大成が、原爆なんですよ……」
私はよく、この問答を思い出すのだが、いったい人間は恐怖を克服などできるのだろうか。いまだによくわからない。そもそも、なぜこんなに怖れという感情に執着しているのだろうか。人はいつも本当になにかを怖れている。それゆえありのままに生きられなかったり、素直になれなかったりする。しかし、なにを怖れているかというと、それは自分の心が作りあげている漠とした未来への不安、なにかしら立ち上がってくる雰囲気のようなものであり、実体はなかったりするのだ。そして、実体がないから、たぶんよけいに怖いのだと思う。