本という小さな旅
2008年 11月 29日
久しぶりに代官山に行ったのは、打ち合わせのためだ。
装丁をお願いした秋山義具さんの事務所が代官山にあって、そのビルの地階でいっしょにお昼を食べた。お昼を食べたのは秋山さんではなく、文春の担当編集者の丹羽さん。
中華料理を食べながら、前日に観た新転位21の芝居のことや、それから元厚生省の職員を殺した犯人のこと、私がブログに書いた内容などについてぼんやりしゃべっていた。
「うちは、アル中の親父に破壊された機能不全家族だったからね、家族が崩壊すると子どもがどういう状況になるかよくわかるんだ。畠山鈴香という人も、DVの父親がいて典型的な機能不全家族なんだよ。ほんと、気が狂いそうになる。子どもって無力だからさ、暴力を前にしても家庭から逃げることもできないし、もう、頭ぼんやりしてくる感じとか、わかるんだ。芝居を観ていて、ああ、ああいうことがあったよなあ……って、思ったりした。それでね、でも、どうして私はこうして、普通に暮らしていられるんだろう、どうやって、あの呪縛の外に出れたんだろうって、不思議なんだよね。そのことを書きたいと思うけど、自分がどうやって出たのかよくわかんないんだ」
……ということを言ったら、丹羽君がかなり確信をもって
「それは読書じゃないですか?」
と言ったのだ。
「読書?」
「そうですよ、田口さん子どもの頃、ものすごく本を読んだって言っていたでしょう。文学があったから、本によってたくさんの人生を読み、いろんな世界を知り、それで自分の状況も客観的に見れるようになったんじゃないですか?」
「そうかな……、そんなふうに考えたことなかったけど。確かに、人と違うところと言えば、ものすごくたくさん本を読んだことだなあ。中学の頃、一番家庭内がごちゃごちゃしててしんどかったとき、年間300冊くらいの本を読んでいたものな」
「文学というのは、そういう力があると思うんです。ゲームや、映画や、テレビじゃダメなんですよ。本じゃないと。 やっぱ文学なんですよ」
いつも何を考えているのかよくわからない丹羽くんが、いきなり熱く文学を語るので私は面食らった。
「そうだね、言われて見ればそうかもしれない。私はね、中学時代、太宰を読み漁ったんだよ。人間失格にえらい感動した。ヴィヨンの妻とか、とにかくダメ男、暴力的で弱い人間、そういう人間像の小説をずいぶん読んだ。だけど、あれはもしかしたら、ダメ男の兄や父を、理解しようとしていたのかもしれないなあ……。それで自然と、そうか、世の中にはこういう考え方もあるのか、こういう人間もいるのか、こういう生き方のありなのか、って、そうやって呪縛の外にうまく出たのかもしれないね……」
「やっぱ、文学なんですよ、田口さん。そうやって呪縛から出たいと思っている人が本をたくさん読むんです。必要がなければ誰が300冊も読みますか。必要だったから読んだんですよ」
「なるほど〜。それが結果として私を作家にするわけか。そして私の書いたものを、今、呪縛から逃げたい人たちが読むんだな。すごいなあ」
めずらしく丹羽君が雄弁なので驚いたのだが、ほんとにそうだなあと思った。そして、この人、文学が好きなんだなと思った。なんだかうれしくなった。
食べ終わってから、来年の短編集の装丁の打ち合わせをしたのだが、この短編集はほんとうに、なんというか……、妙な小説ばかり集めて、こんなもの誰が読むのかなと書いた本人である私が思っていた。タイトルからして「蝿男」で、収録してある作品は、もうどうしようもないダメな人間ばかりが出てくるのである。
でも、このダメさを読んで「こういう人間の、こういう見方もあるのか」と誰かが思ってくれればそれでいいのかもしれない、という気持ちになってきた。
あの、小さなダンボールみたいな借家のなかで、飲んだくれの父のまき散らす凶暴な臭気に気が狂いそうだった。だけど、私はいつも本を読んでいた。あれは現実からの逃避だったけれど、本の世界は豊穰で、世界の叡知がそこにあり、あらゆる時代のあらゆる経験をした人々が、心血を注いで文字を紡ぎ、次の時代、そのまた次の時代、そのまた次の時代の子どもたちに、なにかを伝えようとしていたのだ。そして、この現実だけがすべてではないと教えてくれた。ゲームにも、テレビにもない本の世界。それは「自分から入っていかなければ開かないページ」が続く小さな旅だった。
装丁をお願いした秋山義具さんの事務所が代官山にあって、そのビルの地階でいっしょにお昼を食べた。お昼を食べたのは秋山さんではなく、文春の担当編集者の丹羽さん。
中華料理を食べながら、前日に観た新転位21の芝居のことや、それから元厚生省の職員を殺した犯人のこと、私がブログに書いた内容などについてぼんやりしゃべっていた。
「うちは、アル中の親父に破壊された機能不全家族だったからね、家族が崩壊すると子どもがどういう状況になるかよくわかるんだ。畠山鈴香という人も、DVの父親がいて典型的な機能不全家族なんだよ。ほんと、気が狂いそうになる。子どもって無力だからさ、暴力を前にしても家庭から逃げることもできないし、もう、頭ぼんやりしてくる感じとか、わかるんだ。芝居を観ていて、ああ、ああいうことがあったよなあ……って、思ったりした。それでね、でも、どうして私はこうして、普通に暮らしていられるんだろう、どうやって、あの呪縛の外に出れたんだろうって、不思議なんだよね。そのことを書きたいと思うけど、自分がどうやって出たのかよくわかんないんだ」
……ということを言ったら、丹羽君がかなり確信をもって
「それは読書じゃないですか?」
と言ったのだ。
「読書?」
「そうですよ、田口さん子どもの頃、ものすごく本を読んだって言っていたでしょう。文学があったから、本によってたくさんの人生を読み、いろんな世界を知り、それで自分の状況も客観的に見れるようになったんじゃないですか?」
「そうかな……、そんなふうに考えたことなかったけど。確かに、人と違うところと言えば、ものすごくたくさん本を読んだことだなあ。中学の頃、一番家庭内がごちゃごちゃしててしんどかったとき、年間300冊くらいの本を読んでいたものな」
「文学というのは、そういう力があると思うんです。ゲームや、映画や、テレビじゃダメなんですよ。本じゃないと。 やっぱ文学なんですよ」
いつも何を考えているのかよくわからない丹羽くんが、いきなり熱く文学を語るので私は面食らった。
「そうだね、言われて見ればそうかもしれない。私はね、中学時代、太宰を読み漁ったんだよ。人間失格にえらい感動した。ヴィヨンの妻とか、とにかくダメ男、暴力的で弱い人間、そういう人間像の小説をずいぶん読んだ。だけど、あれはもしかしたら、ダメ男の兄や父を、理解しようとしていたのかもしれないなあ……。それで自然と、そうか、世の中にはこういう考え方もあるのか、こういう人間もいるのか、こういう生き方のありなのか、って、そうやって呪縛の外にうまく出たのかもしれないね……」
「やっぱ、文学なんですよ、田口さん。そうやって呪縛から出たいと思っている人が本をたくさん読むんです。必要がなければ誰が300冊も読みますか。必要だったから読んだんですよ」
「なるほど〜。それが結果として私を作家にするわけか。そして私の書いたものを、今、呪縛から逃げたい人たちが読むんだな。すごいなあ」
めずらしく丹羽君が雄弁なので驚いたのだが、ほんとにそうだなあと思った。そして、この人、文学が好きなんだなと思った。なんだかうれしくなった。
食べ終わってから、来年の短編集の装丁の打ち合わせをしたのだが、この短編集はほんとうに、なんというか……、妙な小説ばかり集めて、こんなもの誰が読むのかなと書いた本人である私が思っていた。タイトルからして「蝿男」で、収録してある作品は、もうどうしようもないダメな人間ばかりが出てくるのである。
でも、このダメさを読んで「こういう人間の、こういう見方もあるのか」と誰かが思ってくれればそれでいいのかもしれない、という気持ちになってきた。
あの、小さなダンボールみたいな借家のなかで、飲んだくれの父のまき散らす凶暴な臭気に気が狂いそうだった。だけど、私はいつも本を読んでいた。あれは現実からの逃避だったけれど、本の世界は豊穰で、世界の叡知がそこにあり、あらゆる時代のあらゆる経験をした人々が、心血を注いで文字を紡ぎ、次の時代、そのまた次の時代、そのまた次の時代の子どもたちに、なにかを伝えようとしていたのだ。そして、この現実だけがすべてではないと教えてくれた。ゲームにも、テレビにもない本の世界。それは「自分から入っていかなければ開かないページ」が続く小さな旅だった。
by flammableskirt
| 2008-11-29 16:21

