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作家 田口ランディの新刊・イベント情報・近況をお知らせします。 


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心のすこやかケア講演会

心のすこやかケア講演会
「自分と家族のために、知っておきたい心の知識」

どなたでも参加できます。無料です。
長年の友人である臨床心理士中谷恭子先生にお話を伺います。
近所にお住まいの方はぜひお運びください。

2014年6月22日(日曜日)
14時〜16時

講演1時間、質疑応答30分
ご希望の方には個別相談も。
場所は、神奈川県湯河原町宮上幼稚園講堂です。
(JR東海道線湯河原駅下車)
地図http://www.navitime.co.jp/poi?spt=00011.040287195
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# by flammableskirt | 2014-06-11 10:37
2014年の始まりのダイアローグ研究会。4月8日という年度始めのこともあるだろうけれど、昨年に比べて参加者は少ない。それが「無関心」の現れであるとは思わない。人はいつまでも間接的な問題にばかり心を向けてはいられない。日々の生活のためのお金のこと、自身の病気、転職、恋愛、親の介護、そういう山積みの問題の合間に、原子力があり、憲法第九条があり、東北の復興があり、現実的にいま困っていないことはだんだんと関心の中心からそれていく。だが、それは生きるためにいたしかたないことだ。

この研究会を「ダイアローグ研究会」としているのは、原子力という問題がダイアローグに適しているからだとも言える。この国に住まうすべての人にとってエネルギーは身近な問題だ。生活と直結している。だからこそ、原子力の議論は複雑によじれる。ダイアローグとは、問題解決のための手段の一つには違いないが、時間がかかりすぎるので、解決の方法としてあまり現実的ではない。でも、ダイアローグがなければ、私は、ただ自分のなかに閉じてしまい、思索は平行線をたどり、本で得た知識でもって頭でっかちになり、生身の人間から離れて行ってしまう。

フェイスブックやラインという便利なコミュニケーション手段がいくらでもあるのに、わざわざ場を創り、皆でそこに集まり、話をする……という手間をかけているには、そうすることでしか得られないものがあるからだ。
その人がいることで生まれる場のバランスとニュアンスというものがあり、それは、発言など一言もしなくても、ただ、そこに存在していることで、強い影響力を持っていることを多くの人は気づいていない。沈黙している人の存在の力は、主催者である私こそが一番強く感じているかもしれない。それを感じたいがために続けているような気がする。
だから、「ダイアローグ研究会」はずっと原発について話し合っているけれど、解決を模索していない。その点について今まで批判を受けたこともある。「対話している場合じゃないだろう?」と。「あなたはいったいどうしたらいいと思っているのだ?」と。
その問いに対して、現状、私は「自分の仕事をする」という以外に答えられない。それがこの四年間、ダイアローグ研究会を通して得た私の実感なのだった。

私は音楽家の坂本龍一さんのように、脱原発を声高に叫ぶことは重要だと思うが、でも、彼が天から授かった音楽によって人々に与える影響から見れば、彼の脱原発の言論などほんとうに意識の表層にちょこっと風が吹いた程度のことではないかと思っている。
「戦場のメリークリスマス」という映画の音楽を坂本さんが創った。曲は映画と切り離すことができない。音楽と共に映画のテーマは観客の意識の奥深くに刻まれた。あの映画は価値観の違う西洋人と東洋人が出会い、お互いをリスペクトしていく内容で、戦時下の極限状況の中でも人間と人間は理解しあうことができること、理解するがゆえの深い哀しみを描いている。坂本さんの曲によって、人間存在の理不尽さが浮き彫りになった。それは、直接的ではないけれど、人類の深層心理になにかしらの影響を与えたと思う。そのようなことが芸術表現では可能であり、心の奥深い部分にある人間の神聖さに訴えていくことでしか、千年後の未来はありえないと感じるようになった。

そんな天才的な表現能力をもっていない私たちであっても、個々人にはおよそ無限大の可能性があるのだが、不思議なことに人は「自分ができること」を認識することができず、わりあいと多くの人は「自分はなにもできない」と感じており、「自分にできることはなんだろう」と悩んでいるのだった。
ここには一つ、からくりがあり、その人が存在していることが、他者にどのように働くかということは、その人個人は自覚できないものなのである。だから、一人一人が自分の存在価値を知ることは不可能に近い。それは他者によって常に「与えられ」るしかないもの、他者によって「体験されてしまう私」でしかない。

ダイアローグ研究会にやって来て、なにも発言せず、参加しただけの誰かが、しかし、その場に来てくれたことで、他者に与えている影響は計り知れないのだが、そんなことは本人はまったく知らず、どちらかと言えば「自分はなにもできない」などと思って帰って行ってしまうのだろう。
だから、私に言えるのは「そうではありません」ということなのだ。そこに生身で居るということ、は、すごいことなのだ……と。あそこには三〇人くらいの人間しかいなかった。三〇分の一として場にいることの重さを人は気づけない。それがどんなに私にとって意味をもつのか気にもかけない。
人はその人としてそこに存在しているだけで、どれくらいの影響力をもっているのかを、自分では気づけない存在だ。それは私も同じで、私自身の「とるにたらなさ」に日々落ち込み、日によっては有頂天になり、日によっては無力感に嘖まれてしまったりする。

そういう私にとって、ダイアローグ研究会という本当に小さな会に、来てくれる人がいることが励みであり救いであるのだが、来ている人たちはたぶんそんなことはあまり考えていないのだろうなと思う。
そうやって人は、落ち込んだり悩んだりしながら、修羅を曝すことで実は他者を救っている菩薩のような存在なのだが、そんなことにもまったく気づかないで、ふがいない自分に苦しみながら、生きている。このごろは、それはなんて哀しい美しいことなんだろうと、思われてしょうがない。
# by flammableskirt | 2014-04-09 11:32
二〇一四年の最初のダイアローグ研究会のお知らせです。
事故から三年が経ち、社会状況も刻々と変化しています。この現実に対して個々の方がいろいろな思いを抱かれていると思います。
ダイアローグ研究会も今年はこれまでと違う角度から原発と原発を取り巻く様々な諸問題について対話を試みていきたいと考えています。
次回はこの三年間のダイアローグ研究会の取り組みと、現状の問題意識の共有化を行い、それぞれに見えている現実のすり合わせを行っていきたいと思います。
北村正晴先生と田口ランディの対話を中心に、活発な意見交換ができることを望んでいます。
是非ご参加くださいませ。初めての方でも参加できます。
(定員10名です。定員になったら締め切らせていただきます)

田口ランディ


日時
二〇一四年四月八日 火曜日 午後六時半開場 七時~九時まで。

場所
お茶の水駿河台 明治大学リバティタワー 7階1075教室


テーマ
「原子力と対話 これまでとこれから」
北村正晴・田口ランディ


※参加する方は事務局長の宗野真吾さんまで参加表明のメールをお願いします。
必ず氏名と連絡先メールアドレス(携帯メールとPCメールのある方は両方)をお知らせください。
また、さしつかえなければ年齢とご職業もお知らせください。
参加申し込みメール先
宗野 真悟
super_question_mark@yahoo.co.jp

参加費 無料
# by flammableskirt | 2014-03-30 17:35

木と気

湯河原の自宅の庭で太極拳の稽古をする。終ると身体がぽかぽかになるのだが、その日はなぜか左の腕から指先までとても冷たくて、右手と温度がぜんぜん違うのだ。
「どうして左手が冷たいんだろう。どこか気の通りが悪いのかしら」
なんとなく気になっていた。詰まっているところがあるのかな?
それから数日後に、友人の秋山眞人さんと会って飲む機会があった。西荻窪の古いカフェで夜中まで話し込んでいたとき、私はふとその話をしてみた。
「左手だけがね、とても冷たいの、どうしてかしら?」
「うーん、まあ、そういうこともありますよ」
秋山さんは、めんどうくさいので話をそらそうとする。
「でもね、気になるのよ。ちゃんと見てよ、ほら左手。超能力者でしょう!」
つきあいが長いので、こちらも図々しい。
「あーーうーーーん」
仕方なく私の左手を見ていたが、おもむろにテーブルに指で図を描き始めた。
「玄関がここにあるとする。この玄関からおよそ四五度の角度の、このあたりの場所に大きな木がある……」
想像しなかったことを彼は言い始めた。
「あ、ある。木がある。そしてね、その木は去年の夏に庭を伐採したときに枝を落としたら、ちょっと元気がなくなってる」
「常緑樹だね、なんだろう、杉かなあ」
「丸く枝が張るチャボとか呼ばれている木」
「ああ、そんな感じだ」
「冬になったら枯れてきてとても気になっていたの」
「だいたい木は特定の人間にしかなつかないんだ。その木が手に憑いたんですよ」
「木のせいなの?」
「たぶん……」
「でも、木があるの。枯れそうなの、どうしたらいいかしら?」
「今年は寒かったからねえ、とにかく肥料をあげて。根っこのところに灰を撒いてもいい。肥料をやれば、暖かくなってきたら元気になると思うよ。あ、それからその木の下になにか植えてるな?」
「センリョウを植えている。赤い実のなるやつ」
「あれは栄養を吸い取るから、それも少し切ってやったらいいよ」
それから、彼は「一度見えると映像が消えないんだ。あーーーまだ木が見える」と嫌がっていた。
どうやら透視するために別次元に入り込むとそこから抜けるのが難しいらしい。
「だからあんまりやりたくないんだよ、気持ち悪いから」
「まだ見えるの?」
「見えてる、ここらにその木が」
「ごめんね……」
「いや、でもその木が訴えてきたんだから、しょうがないね、ははは」
家に帰って、肥料をあげて、低木の枝を落とした。もう十日以上経つ。なんだか心なしか幹に艶が出てきたように思える。わずかに残った緑の葉も青々してきたような……。
この木、私になついていたのか……。ごめんな。
夏までに、元気になるかな。そうなったらいいな。
それにしても、ほんとうに見えるんだなあ。ちょっとしたことにももっと気配りをして、自分とつながっているものの気配を聞いたり感じたりできるように生きていこう。
秋山さん、ありがとう……。
# by flammableskirt | 2014-03-16 09:44
田口ランディさんの最新刊『座禅ガール』の発売を記念し、作家・窪美澄さんをゲストにお迎えしてトークショーを開催いたします。

2014年3月27日 (木) 18時30分~
(開場:午後18時) 
●講演会終了後サイン会あり(ご希望のお客様のみ)
※サイン会の対象書籍は『坐禅ガール』(祥伝社刊)のみとさせて頂きます。
また、ゲストの窪美澄さんのサイン本を、会場で販売いたします。
 
本店 8F ギャラリー
100名(申込先着順)※定員になり次第、締め切らせていただきます。
料金 無料
申込書に必要事項をご記入の上、1階レファレンスコーナーにてお申込み下さい。
申込書は同カウンターにご用意してございます。
また、お電話でのお申込みも承ります。(電話:03-3281-8201)
主催:八重洲ブックセンター


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# by flammableskirt | 2014-03-14 23:43
第7回サンガくらぶ
『田口ランディ対話集―仏教のコスモロジーを探して―』(サンガ刊)
『坐禅ガール』(祥伝社刊)刊行記念
田口ランディ対談 
ゲスト:村上光照禅師


「坐禅と神さまと仏さま」

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新刊「仏教のコスモロジーを探して」「坐禅ガール」の出版にともない、日本でも数少ない遊行の禅師である村上光照禅師との対談を行います。

禅を生きている村上禅師の世界観、宇宙観、仏教観は、既成概念に凝り固まった私たちの思考を解き放つ力をもっています。「いまここに在る」とはどういう姿なのかを教えてくれます。

村上さんに接するだけで、その意味が言葉ではなく身体で感じられるのではないでしょうか。

めったにお会いできない方が、今回は伊豆の松崎から来てくださいました。なるべくたくさんの人に「生きる禅」を体感していただきたいです。田口


村上光照禅師についてはこちらをご参照ください。

【日程】
2014年3月29日(土)14:00~16:00(13:30開場)
講演   14:00~15:30
質疑応答 15:30~


【会場】
昇龍館ビル303号室
〒101-0052 東京都千代田区神田小川町3-28-7
JR御茶ノ水駅 聖橋口より徒歩5分 

【参加費】
「一般」 2,500円 
「サンガジャパン定期購読ご契約中の方」 1,800円
「参加当日にサンガジャパン定期購読ご契約の方」 無料(別途、定期購読料5,250円)
※お支払いは当日清算となります。

【予約方法】
件名に「『田口ランディ新刊』刊行記念」とつけて、「お名前」「人数」「お電話番号」「参加費の種別(一般か定期購読か)」を明記の上、ご予約ください。
<<<お問合せ>>>
サンガ東京 tel:03-6273-2181
メール:samghaclub@samgha.co.jp

# by flammableskirt | 2014-03-14 11:24

日々の悟り

一日のうちでも人間の心は揺れ動いているから、日々に悟りもあれば修羅もあるんだ。亡くなったトランスパーソナル心理学のカウンセラーである吉福伸逸先生がそんなふうにおっしゃっていた。

日々の悟り……。それは烏龍茶や珈琲をていねいにいれる時に感じる。烏龍茶はいれる時の作法のようなものがあり、それにのっとって器を暖めお茶を蒸し上げるようにする。いれかたで香りも味も変わってしまう。なにが違うのか自分でもわからないが味が違う。珈琲もそうだ。ハンドドリップでていねいにいれても、味が違う。なぜかその日の気持ちの静まりと関わっているような気がしてならない。無心でいれないと味が透明にならない、雑念が入ると雑味が出てしまう。いつも夫の分と二人分をいれて飲んでいただく。今日は集中できなかった、と思う日は夫もわかるらしく、今日はちょっと雑味が出ているね、と言う。

珈琲は午前中に一回。烏龍茶は午後に一回。どちらも一日一杯しか飲まない。私は外ではほとんど珈琲は飲まない。家で飲む一日一杯の珈琲を瞑想だと思い、丁寧に入れるようになったのは去年からだ。こんなささやかなことだが、すばらしくおいしくいれられた時は、なんとも不思議な幸せに満たされる。台所の風景され美しく見える。優しい気持ちになれる。それは一瞬のことだ。ほんとうに一瞬で、過ぎてしまう。あとはまたぐちゃぐちゃどうでもいいことを考え、悩み、仕事の雑事に追われているのだ。

ほんとうは、仕事の雑事と言ってしまうことだって、茶をいれるように向き合えば、きっとそこにもなにかの幸福が感じられるのだろうけれど、そうはいかない。気持ちをもっていくことが難しい。日々のことすべてに集中できることを、悟りをひらいた人と呼ぶのかもしれない。そういう人はどこにでもいるだろう。なにげなくいるだろう。そして、ささやかに世の中を照らしていると思う。その人を見れば、誰でも、気持ちよいはずだから。

そういう人になりたいなあと思うのだけれど、まったく、ぜんぜん遠くて、いつも焦っていてとにかく早くやらなくちゃ、そしてやりながらもう次のこと別のこと終ったことを考えていて、あっちこっち、物事をやり散らかしながら、時折ぼんやりし、ふてくされ、ささくれだち、淋しくなったり、うれしくなったりしながら、ああ、忙しいとか呟いているのが現状なのである。
# by flammableskirt | 2014-03-14 08:51

3月11日が過ぎて

 2011年4月11日から始まった「アノニマス・エイド東京慰霊祭」は今年で4回目。なぜか今年がいちばん気持ちがざわざわして落ち着かず、どうにも足下が揺れているような不思議な感覚に陥った。イベントのあいだも床がぐらぐらしているように思えた。第一回目の時は読経の最中に大きな余震があった。あの時は本当に揺れていた。
 三年目となる今年は私の気持ちが揺れているのだろうか。
 若松英輔さんとの対談のなかで、若松さんが「使命」というお話しをされた。「だれか」が「あなた」の存在によって「なにか」を感じているはずだ。必ず「あなた」は「だれか」にとって「なにか」の働きをしている。それが
使命だ……と。
 私も私のはかりしれないところで「なにか」の働きをしているのだろうか、しかし、私にはその実感が湧いてこず「使命」という言葉の前に途方に暮れていた。正直なところ「なにもできていない」自分を責めるような思いがあり「なにもできない」のではなく「なにもしない」ということだろうと、これまたいじわるな自分が言い、その通りだなとうなだれる自分がおり、それをまた「猿芝居だ」と冷めて見ている自分がおり、複数の自分に分裂したまま、まとまりを失っているような感じだった。
 いろいろなことをやったような気がするが、そのどれもが中途半端な自己満足に過ぎなかったのではないか、とか、いま自分のやっていることも、単に自己満足なのじゃないか、などと、考えるようになっている。
 そういう、少しささくれた思考に入ってしまうのはなぜだろうか。きっと疲弊しているのだなと思った。端的にいえば自分の当時者性がどんどん薄れてきて、そのことにとまどいつつ、内心はほっともしていて、心が矛盾を起こしているのだと思う。
 こういう時、なにか強い信念とか、わかりやすい答えを求めているのがわかる。答えをお水のようにごくごく飲み干して身体を潤したい。そう感じる。
 空中の存在しない椅子に腰掛けているような状態で、姿勢を維持することができないのだ。思考の筋力が弱い。ピンと立つなり、どかっと座るなり、はっきりできたらいいのだが、それもできない。
「ダイアローグ研究会」も4月から再開するのだが、どうにも気が重いのである。原発の問題からも気持ちが逃げてしまっている。考えたくないなあという積極的な逃げではなく「考えなくちゃいけないけどぐずぐず」という感じだ。以前のようにそこにすぐ気持ちを持っていけないでいる。
 2010年から始めたダイアローグ研究会は4年目に入るのだから、そろそろ中だるみ的に疲れが出てしまうのかもしれない。安倍政権になってから特に、原発問題に関して場を立ち上げていく気力が落ちているのは、話の方向が多岐にわたり拡散してしまうからだろうか……。どこかで「こんなこと続けても無駄なんじゃないか」という、魔の声が響いている。なんのために、誰のために、場を創ろうとしているのか。自分のなかの軸がわからなくなっている。
 一緒に動いてくれる仲間がいるので、なんとか続けているが、一人では到底、無理だろう。私は焦っていると思う。とても強く、苛立っている。この状況に。たぶん。そして怒っている。対話なんかすっとばして、力と数でこの状況を変えたいと願う自分もいるのだ。そのほうがてっとり早いし、すかっとする。そういう自分の中の衝動を抑えつけて「対話」などと言っても、自分に自分が食われていく。だから、仏教に静けさを求めているのだろう。自分の修羅を静めたいからだ。
 そんな時、いつも思い出すのは気功の師である新渡戸道子先生の言葉だ。
「田口さん、ゆっくりは怖くない。怖いのは止めてしまうことよ」
 ゆっくりは怖くない。
 呪文のように繰り返している。
 ゆっくりは怖くない。
 怖いのは止めてしまうこと。
# by flammableskirt | 2014-03-13 11:20
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劇団態変 30周年記念公演
『Over the Rainbow -虹の彼方に』


劇団「態変」はその名の通り、「たいへん」な劇団なのである。洒落ではなく、存在そのものが「たいへん」であるし、存続そのものが「たいへん」なのである。

この劇団は大阪にある。東京に住む私としては演劇を観るために大阪まではちょっとなあ……と思いつつ、なぜか足を運んでしまう。なにを観たくて足を運ぶのか、説明するのが難しい。

劇団という名はついているものの、一般的な私たちが想像する劇団とはちょいと趣が異なる。この劇団の構成員は全員が「身体障害者」である、それも、こんなことを言ったらすぐ「差別用語」と糾弾されてしまいそうだが、並の障害ではなく、かなり重度の障害者によって維持されているのである。
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劇団の座長である金満里は、ポリオという病気で肢体不自由である。彼女の障害者施設時代の親友という女性を、私がボランティアとして介護していたことがある……というのは、後になって知ったことである。まったく世間は狭い。24時間介護が必要な脳性小児麻痺の高木美鈴さんを介護していたのは、私がまだ20代の頃である。

劇団は30周年を迎えるというから、ちょうど私が介護ボランティアをしていた頃に立ち上がっているわけだ。しかし、長らく私はこの劇団の存在を知らなかったし、もし当時、知っていたとしてもあまり興味を持たなかったかもしれないと思う。

劇団も当初は試行錯誤を繰り返しており、どちらかといえば「障害者が演じているから」ということで社会からは注目されていたろう。もちろん、主催者である金満里は「冗談じゃない、私たちは演劇をやっているのだ!」と主張し続けてきたが、個々の団員が魅力的な俳優に成長していくために、芸術の神はちっぽけな同情を施すことなく、30年という歳月と苦難を課したのである。

昨年の伊丹アイホールでは、連日満席だった。客演していたピアニストのウォン・ウィンツアンとの即興による舞台は、美しく残虐だった。
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ある役者にこの劇団の話をしたところ「そんなに重度の障害をもっていても、人に見られ舞台に立つことはうれしいのだろうか?」と呟いていたのが印象的だ。舞台に立つとは人に見られること。それが俳優である。俳優とは、その場に立つだけで空間を次元転位してしまう能力をもつ者たち。だから人に非ず、優れた者として「俳優」なのである。

「態変」の舞台は、俳優の存在自体がすでに私たちの想像を超えている。というのは、私たちは自分の身体の正常なイメージしかもっていなことが多いからだ。私の手がなかったら、足がなかったなどと、ふだん私たちは考えない。だが、それは常に起こりえる。事故で、病気で、災害で、戦争で……。
その日常の危うさを、がつんと突きつけられる。無言でだ。開演したとたん、いきなり次元転位である。

今回、「態変」は大阪のABCホールという大舞台に挑む。
これまた「たいへんな事態!」である。そんな大ホール、800人の観客席を埋められるというのか? しかし、彼らは「たいへん」に動じない。存在そのものが、人生そのものが「たいへん」な彼らに、いまさら「たいへん」もクソもないのである。ひたすらあっけにとられるのみだ。その、勇気と根性としぶとさが、いま、私には必要だなと思うから、やっぱり足を運んでしまうのだろう……。

一人でも多くの人に、この「たいへん」な事態を体験してほしいと願う。

【日時】
3月21日(金・祝)18:30
3月22日(土)13:30 / 18:30
3月23日(日)13:30
 ★アフタートークあり


【会場】
 ABCホール (大阪市福島区)
 http://asahi.co.jp/abchall/map/index.html

【チケット】
 一般3,500円 学生2,500円 シルバー3,000円 障害者介助者ペア6,000円

【出演】
 金滿里 楠本哲郎 小泉ゆうすけ 上月陽平 下村雅哉 向井望 山口幸恵 植木智(新人)+エキストラ
 演奏: 山本公成(Sax,Flute) 中島直樹(Bass) 信藤真実(Dr.) 
 ★3/23 アフタートーク:金滿里×倉田めば(薬物依存回復支援団体「Freedom」代表)

【チケットご予約】
予約フォーム  http://www.asahi-net.or.jp/~tj2m-snjy/form/ticket2.html
TEL  06-6320-0344(劇団態変)
E-mail  taihen.japan@gmail.com

態変ホームページ
http://www.asahi-net.or.jp/~TJ2M-SNJY/jtop.htm
# by flammableskirt | 2014-03-03 12:56

デコポン

この四月からА新聞に記者とし入社するという青年と会った。
人間は見たまんまだ、という人生経験におけるエビデンスを重視する私は、相手の顔を人間存在の価値の中心に置いてしまうのだが、その意味において青年は「純粋で良いひと」だった。通俗的な形容をすれば「きれいな目をした青年」だった。
 どうして記者になったのか、という質問しか、初対面の青年に対して思いつかない自分の凡庸さにうんざりしたが、まさか「ハムスターを飼っているか?」とか「君にとって天皇はどういう存在か?」などと聞くのも変だし、とりあえず当たり障りのないところで話題を振ってみたところ、穴を掘って埋まりたいくらいの模範解答が戻って来た。
学生時代に水俣に行って、胎児性水俣病の患者さんや親御さんたちと出会い、彼らの生き方に触れたことが職業選択のきっかけになったのだと言う。水俣に多少の縁のある私は、彼が出会った人々のことも知っていたから、彼の水俣における内的変容体験に対してある程度の想像力は発揮できたのだが、なにかしっくりこないのだった。
それはたぶん、年長者が若者に向って「そう簡単にわかってもらっては困る」的な、経験主義的上から目線なのだと、自覚はしているのだが、口うるさいおばさん的にななにかひと言付け加えなければ、この、ものすごく美談的な職業選択理由を受け入れたことになってしまう、と焦り、ごちゃごちゃと水俣病事件と呼ばれる現象世界の複雑怪奇さってすごいのよ、とごたくを並べてみたのだが、そもそも、なぜ彼の純粋な職業選択の理由を私が受け入れ拒否しているのか……。なぜ、私にとって彼の美談的職業選択理由が都合が悪いのか、よくわからなかった。
なんとなく、おせっかいな説教をした気分になって、ちょっと落ち込んだまま家に戻ってくると、偶然とはすごいもので、水俣の友人から「デコポン」が届いていたのである。水俣の「デコポン」はすごくおいしいので、私はうれしくなってさっそく、がつがつと食べながらダンボールに入っていた友人の手紙を読んだ。
この友人は水俣に住んでいるけれど、水俣病とはまったく関係ない。水俣市に住んでいる人がみんな水俣病に関心をもっているかといえばそうではなく、どちらかといえば市民のマジョリティは水俣病ってあんまりよく知らないし関わりたくもないと思っているのである。
 彼女は、私が水俣に行った時に小さな手芸店を開いていて、しかもだんなさんを若くして亡くして一軒家に一人で住んでいて、どういういきさつだったか忘れたけれどもなにか意気投合してご飯を食べ、彼女の家に泊めてもらったのだった。彼女と水俣病は遠く、彼女と私のつながりも水俣病ではなく、彼女に「あなたも水俣に住んでいるのだから水俣病に関心を持ちなさいよ」という気もなく、今年も「デコポン」を送ってもらって喜んでいるわけである。
手紙には「また水俣に来たら遊びに来てね!」と書いてあった。
遠慮があってレコーダーすら回せないという度胸のない私には、、きっと記者という仕事はできないと思う。それを職業としたことで失ってしまうものがあることを私は恐れていて、その恐れを青年に伝えたかったのかもしれない……と、デコポンを食べながら思った。気持ちを伝えるっていうのは難しいなあ。そもそも、自分がなにを伝えたいのかわからないことのほうが多いのだから……。
ごめんな、青年、がんばれよー。
# by flammableskirt | 2014-03-02 17:33

依存症的生活実感

ある文芸誌に、50枚の短編の約束をしたのに勢い100枚を書いてしまい、それでも全然終わらない。編集者も困っていて申し訳ないのだけれど、春になって暖かくなると気分的に不安定になるため、現実逃避で執筆依存症になる。なにかしら書いていれば他のことを考える余裕がないので、ひたすら書くようになる。
私の父はアルコール依存症だった。依存傾向を遺伝的にもっていることは若い頃に気がついていた。やはり自分はどこか過剰で、勢い余ってよく人生街道から転げていたからだ。父のアルコール依存症を通して、依存症にはほとんど治療方法がないことを知った。一度、アルコール依存になったら、二度と酒を飲まないという選択しかない。つまり、酒を飲まない酒依存症として生きていくだけである。そして、酒を飲まない方法として、別のものに依存するのは有効な手段である。
依存傾向が強い人間は自分にとって最も害がなく、しかも実益が伴うものに依存の上書きをするのが得策であり、私の場合は執筆に依存するのがサバイバルの現実的な手段として有効なのは誰の目にも明らかだ。
というわけで、春は憂鬱であるので依存傾向が強くなり、書かずにはおれなくなって、むやみやたらと書いてしまうし、書くことでしか安定できないのである。特に今年は、気分的に不安定で、不安定だと仕事が安定するという、依存症にとっては最も幸せな循環を作ってしまっているため、いくらでも書けてしまうのだが、依存症なので歯止めが効かないのである。
こうなってくると、もうどこでもいいから書きたいし、来た仕事は全部受けてしまうし、ネットにだって、ブログにだって、ほらこのようにどんどん書いてしまうのである。まさに依存症の本領発揮であり、よって今年はすでに六冊も出版が決っており、これは依存症の悪化を意味すると同時に、収入の安定を意味する。それでも、まだ書きたいし、書くことに依存しているから書けないという状況はありえないのである。
春が去り、初夏が来て気分が安定し、依存症がおさまってしまった時に、目の前に原稿締め切りのハードルが地平線まで続いているような事態だけは避けたいので、受けたものはすぐ書く。夜中にハムスターが、ひたすらエネルギー消費のためにのに回し車を回している姿を見ると、あれは私だなと思うのである。
# by flammableskirt | 2014-03-01 14:24

ゴドーを待ちながら

急に暖かくなって、しかも、今日は三月になってしまいました。
月が替わる時に感じる「必死で走っているのに出遅れた感」はなんだろうなあ……と思います。
死ぬまでこんな感じなんだろうか、死期が迫ってくるときも、あーがんばったけど、なにかに遅れをとった気分だなあ……と思うのだろうか。この「あー、なんか遅れている」っていう感じの気分の根拠はどこにあるのだろうか?
やるべきことをやっていないで、たとえば確定申告の書類の一部がまだ手元にないとか、そういうせいなのか?
わからないなあ……とにかく、私の気分は、季節にいつも急かされていて「あ、ちょっと待ってよ今行くから、あーーー!」なのだった。

昨日は東京ノーヴィ・レパートリーシアターの「ゴドーを待ちながら」の千秋楽を観劇し、打ち上げに参加させていただいた。
「ゴドーを待ちながら」は、サミュエル・ベケットのあまりにも有名な戯曲だけれども、知的な遊戯として演じられてしまうことが多かった。今回の舞台は、演出家アニシモフ氏の今日的な解釈と役者の力量がすばらしく、結末になにかしらうっすらと光が差してくる思いがして、美しい舞台だった。ベケットに対して敬意のある、戯曲に忠実な舞台であり、だからこそ演じるのが困難で、だからこそベケットの世界観を観客に届けられるのだと思った……。
ベケットは、いつの時代にも前衛であり続けるところがかっこいいな……。やはり、すごいのだ。以前にはわからなかったが「ゴドーを待ちながら」の主題は普遍的であり、普遍的なテーマは古くならないのだった……。
そういうものに触れると、私のなかには「やる気」と「挫折感」が同時に立ち上がってくる。だいたい常に私の中には二つの相反する感情が同時に存在し、その時その時の微妙な傾斜で心という玉がころころと移動しているのである。
この傾斜は、春になるとなぜか「挫折感」の方向に角度を増すため、心はゆるやかに確実に憂鬱になるのだった。この憂鬱は、人恋しさとワンセットになっており、理由もないのに……というか、さまざまな、表面的な理由によって朝からちょっと淋しい気分になっている。

単なる傾斜であるから、時々刻々と移り変わっているのだけれど、月の変わり目は「出遅れた感」がいなめないので、理由もなく心は自分を責めるほうへと傾斜して、ころころと不安定に転がっている。あー、めんどくさいなと思うのだった。

坐禅などというのは、この傾斜を平らにするためのものなのだろうな。多少の傾斜は「言葉」を排除することで、身体感覚に転じていく。気分ではなく「身体の感じ」として受け止めることによって、この傾斜のころころは消えていく。消えていくとわかっているのだが、消えてしまうとなんだか物足りない気もして、あえて傾斜のなかでころころしているのは「趣味」であり、この「趣味」を「わびさび」という日本人的な美意識まで高めてしまえば、春の朝に感じる孤独も、俳句やら短歌に結晶するんだろうな。

しかし、古典の教養もなく、歌心もないので、そういう境地にもなれず、なんだかうだうだしているのだった。

こういう朝は、豆を挽いて珈琲をいれると、あのひきたての香りが少し傾斜を「幸せ」の方に戻してくれるのだが、ゆうべちょっと打ち上げで飲みすぎてしまって、胃がもたついているので、珈琲を飲む気になれない。

だいたい、久しぶりに飲んだりするから、よけいに翌朝どよんとしてしまうんだ。そこにもってきて、やっぱりベケットはすごいのである。ベケットは観念的だと思っていたが実は違うのだなあ。やはりベケットは自分の血肉になるまで人間存在とはなにかを考えた人だったんだろう。そういう時、きっとベケットは憂鬱な気分になっていたに違いない。

私も、来ないゴドーを、待っているんだよな……と思う。
だから、月が替わると、ああ、やっぱりとうとう来なかったと思うんだろう。
そして、また待ち始める。
なにかがやってくるのを。
# by flammableskirt | 2014-03-01 10:50
仏教ってなんだかよくわからない!
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3月末刊行「仏教のコスモロジーを探して」(サンガ)
いろんな宗派があるけれど、いったいどれが仏教?
仏教者の話はどれもバラバラでなにを信じていいのかわからない!
そもそもお釈迦様はなにを語ったの?
先祖供養って仏教なの?

「仏教」に対する疑問はものすごくたくさんあって、その一つひとつの答えを探しながら仏教を学んできました。
この本は仏教の入門書ではないので、まったく仏教に知識がない、という人には少し難しいかもしれません。
仏教をめぐる対談集としては異色のもので、テーマもバラバラ、宗派もバラバラ……。
どちらかといえば、既製教団の仏教が取り扱わないこと……、仏教のもっているディープな部分に踏み込んでいます。ですから、読まれた方は「えっ?」と、びっくりされるかもしれません。
ですが、登場している方はそれぞれの分野のオーソリティであり、それぞれの仏教を生きている方です。
ここに書かれてある言葉は対談者の血肉となっている「ほんとうの仏教の言葉」なのです。
仏教って、懐が深いなあ……。面白いなあ……。
そう感じていただけると思います。
あるいは、ご自身の仏教観をもっている方は「こんなの仏教じゃない」と思うかも。
これが、深くて新しい仏教のいま……です。
# by flammableskirt | 2014-02-21 13:20
アノニマス・エイド東京慰霊祭2014
「3月11日・私たちの祈り」
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2014年3月11日(火)
昼の部13時~夜の部19時〜 
場所 経王寺本堂にて
http://www.kyoouji.gr.jp/about/access.html
入場無料 予約不要

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今年も新宿(牛込柳町)経王寺で、東北大震災の慰霊祭を行います。
四回目となるこの慰霊祭はどなたでも参加できます。
被災地に知り合いや親戚はいないが、亡くなられた方たちのために祈りたい。そんなふうに感じている方はどうか、足を運んでください。無名の人が無名の人のために祈る弔い、2011年4月11日から始めました。宗派や宗教を超えた、名もなき小さな祈りが届きますように。

自由参拝です。本堂内は出入り自由。
ご都合のよいお時間をゆっくりとお過ごしください。
また会場はお寺ですが、宗教・宗派にこだわらず、どなたでも自由に参加できます。
お経も皆さんと一緒に唱えられるようになっております(唱えたい人は一緒に、唱えたくない人は無言で)。
お一人でも大丈夫ですよ。気軽にお越しくださいね。
田口ランディは16時頃から本堂におりますので気軽に声をかけてください。

昼間の部

■お寺は13時からどなたでも入れます。
 自由に入ってお焼香をしてください。
■様々な方が音楽演奏や、お話会を行っています。
 自由に聞いて、好きな時にお帰りください。
■甘酒やお菓子など、お寺のご好意で用意しております。
 出会った方とのご歓談もなさってください。気持ちを分かち合いましょう。


夜間の部

夜の部は19時から開場。
評論家若松英輔さんと小説家田口ランディの対談、朗読、シンガーソングライター和津実さんの歌、ピアニストのウォン・ウィンツアンさん、上畑正和さんの即興演奏があります。
盛りだくさんの内容で、毎年たくさんの方においでいたたいております。
入場は無料です。
(夜の部は会場の定員に限りがあるため、お立ち見になる場合もありますのでご了承ください。お身体の具合の悪い方はお申し出ください)

終了時間はだいたい21時30分頃を予定していますが、この日のピアノは即興演奏なので時間が押す可能性があります。早めにお帰りになりたい方は途中で退席してくださってかまいません。

■対談(19時頃から)
「君の悲しみが美しいから僕は手紙を書いた」被災地への遺族、若者への手紙
 若松英輔・田口ランディ
被災地の若者に向けた手紙を出版されたばかりの若松英輔さんに、3.11以降の新しい世代にとって死者と向き合うとはどういうことか、本に込めた思いを語っていただきます。
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■演奏の部
 
和津実さんのクリスタルボイス、そして「瞑想のピアニスト」と呼ばれるウォン・ウィンツアンさん、足踏みオルガンによる上畑正和さんの演奏、そして、この場でしか聞けない二人の即興演奏をお楽しみください。

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歌     和津実
ピアノ ウォン・ウィンツアン
      上畑正和






出演者プロフィール

若松英輔(わかまつ・えいすけ) 
1968年生まれ。批評家。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年、「越知保夫とその時代」 (『三田文学』)で、第14回三田文学新人賞評論部門当選。 著書としては、『井筒俊彦 叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会)『神秘の夜の旅』 『魂にふれる 大震災と、生きている死者』『死者と対話』(ともにトランス ビュー)、『内村鑑三をよむ』(岩波書店)、また、編集著作としては『小林 秀雄――越知保夫全作品』『読むと書く 井筒俊彦エッセイ集』(ともに慶應義塾大 学出版会)がある。 
現在進行中の連載は、「愛(かな)しみの哲学」(『文藝』)「生きる哲学」(『文學界」)「イエス伝」(『中央公論』)「吉満義彦」(『三田文学』)。2013年4月から慶應義塾大学文学部で非常勤講師となり「詩学」を講じる。2013年10月から『三田文学』編集長に就任。

和津実(なつみ)
2006年、バンドmopsy flopsy(のちにMichilucaと改名)のボーカルとしてmona recordsレーベルより「a beginners guid to mopsy flopsy」でデビュー。2007年「draw a circle」、2009年「ミチルカ」を発表。 2010年にNHKみんなのうたに楽曲「天の川」が起用され、その作品はNYフィルムフェスティバル映像部門銅賞を受賞。2011年バンド活動を休止後、ソロ活動を開始。ギターと歌のアコースティック編成を中心にライブ活動を展開中。自主イベント「ここにある歌」を不定期に開催している。現在初のソロ作品を制作中。

ウォン・ウィンツアン
ピアニスト、即興演奏家、作曲家
90年よりピアノソロ活動を開始。この頃に現在のウォン・ウィンツァンのピアノソロ・スタイルが生まれる。92年、インディーズレーベル SATOWA MS-ICを発足、1'stアルバム「フレグランス」がFMから火がつきロングセラーになる。以後コンスタントにサトワミュージックよりアルバムをリリース、その数は20タイトルを超える。代表作に「Doh Yoh」「エイシアンドール」「たましいのトポス」「光の華」など。また、NHKスペシャル「家族の肖像」、BShiスペシャル「中国世界遺産 九寨溝」、現在 季節放送中のNHK「にっぽん紀行」、そして毎週放送の長寿番組 Eテレ「こころの時代」のテーマ曲も手掛けている。ピアノソロ以外にも、地雷犠牲者救援CD「もしも地雷がなかったなら」、クラシックアルバム「Debussy」、ジャズトリオ「WIM」など、多岐の音楽活動をおこなってきた。超越意識で奏でるその透明な音色に「瞑想のピアニスト」と呼ばれている。

上畑正和
大阪府出身 作曲家・ピアニスト
大阪工業大学卒業。高校生の頃、独学で作曲と和声研究に没頭し、ジャンルにとらわれない独自のスタイルを確立する。基本はPOPなメロディーと美しい響き。大学卒業後、大阪での活動を経て1994年東京に移る。CM音楽を中心に様々なアーティストやアニメ、TV番組等の作編曲、ロックバンドやボサノバのプロデュース等を行なう。またクラシック演奏家への曲提供も手掛ける。近年ピアノでのソロ活動に力を入れている。ライブでは必ず即興演奏を行なう。ヴァイオリン・チェンバロ・笙・二胡・カリンバ・尺八・オカリナ等、様々な楽器とのコラボレーションでは美しく調和することを心掛けている。

田口ランディ
作家。2000年に長編小説「コンセント」でデビュー。以来、人間の心や家族問題、社会事件を題材にした作品を執筆している。
2010年より対話のできる世代の育成のため「ダイアローグ研究会(明治大学)」を開催、原発問題をテーマに多くの参加者を得ている。最新作「マアジナル」(角川書店)「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ 原子力を受け入れた日本」(ちくまプリマー新書)「ゾーンにて」(文藝春秋)「坐禅ガール」(祥伝社)「仏教のコスモロジーを探して」(サンガ)
2011年4月11日より「アノニマス・エイド 東京慰霊祭」を開催。

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# by flammableskirt | 2014-02-20 19:34
そんなに苦しいなら、生きるのをやめて坐ってみたら?
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坐禅で人生は変わるのか?
新刊「坐禅ガール」田口ランディ(祥伝社)発売が始まりました!
迷える30代と40代の女性が主人公。坐禅を通して自分の内面と出会う物語です。
坐禅のイメージって、居眠りをしているとバシって叩かれてしまう、怖い感じではないですか? 男の世界。だけど、ほんとうは女性のほうが坐禅に向いているんじゃないかな、って思うんです。なぜ坐禅にあんな苦しい流儀があるかというと、それは参禅者を精神的に追いつめて、えいやっと我欲をすててジャンプさせるためなの。でも、女性って、胸がふくらんできたり、生理になったり、妊娠したり、生涯を通じて身体の劇的な変化を体験するでしょう? だから、えいやっと飛び降りるのは、実は女性のほうがずっと得意なんです。それってなんとなくわかりますよね。だから、女性はね男性ほどむきになって厳しくしなくても、坐禅で自分と向き合えるんじゃないかな、そんなことを思って書きました。
もっと女性の坐禅を広めよう。

これから女子のための「坐禅会」や、禅の達人村上光照さんとの対談、「坐禅ツアー」など、いろいろ企画しています。もっと坐禅がサラリーマンだけじゃなく、女子にも親しんでもらえたらいいなと思います。宗派とか関係なく、坐禅を気軽に体験できたらいいですよね。

おたのしみに!
# by flammableskirt | 2014-02-19 15:06 | 新刊のお知らせ
二〇一四年も、はや一週間が過ぎました。
遅ればせながら明けましておめでとうございます。

お正月は家族とのんびり過ごしました。
今年から、我が家に新しく加わったものがいくつかあります。
まず、ハムスターのテトとトト。
夜の間中、ずっと回し車でくるくる動いています。
これだけ動き回れば、早死にだろうと、納得です。

そしてもう一つ。
我が家に登場したのが「高濃度酸素濃縮器O2パラダイス」というもの。
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卓上型で、見た目は加湿器くらいの大きさ。
電源を入れると、空気を吸い込んで高濃度酸素に変換し供給してくれるというもの。
よくスポーツマンの人が怪我をしたときに酸素タンクに入ってリハビリしたりするじゃないですか。
あんな感じで酸素を吸入できる家庭用のものだそうです。
うちでは、リビングに設置して、家族がテレビを観ながら試せるようにしました。
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夫や娘は「なにこれ? 酸素? 空気を酸素にするの? すごーい!」
というわけで、お正月の間、テレビを観ながらかわりばんこに酸素吸入?

それぞれの使用の感想は、
夫「眠くなる」
娘「なんとなくすかっとするような」
私「よく眠れる」

一番使用した私は寝る前に酸素を吸うと「よく眠れる」というのが最大の実感
なぜかな? たぶん脳内の血流がよくなるからでしょうか。
あと、酸素を吸った後は体がぽかぽかしてくるんですよね。代謝がよくなるからかな。
特に冷えがちな下半身があったかあくなってくるからよく眠れるのかな。
なんにせよ、仕事柄、睡眠障害があり忙しくなるとデパスのお世話になっている私としては、
よく眠れるとうのはほんとうにありがたいのでした。

パンフレットによると、加齢がすすむととも肺活量が減り、空気が吸えなくなるとか。
私も40代になって気功や太極拳など、ゆっくりと動きたくさん息を吸うという運動を始めたのは、仕事で座りっぱなしてパソコンに向うんで、酸素不足になりがちだからなんですよね。
執筆に専念してくると、息を吸うのとかまばたきとか忘れちゃうことがあり、ドライアイで目が見えなくなったりするし……。若い頃は何時間でも執筆できたのだけれど、さすがに最近は疲れてしまう。

あまり運動したり、外に出れないお年よりの方には、こういう酸素発生器があってもいいかもしれないなあ、と思いました。とはいえ、我が家は祖父母がすでに亡くなってしまっているので、試せなくて残念。

ただ、娘曰く「冬は酸素が鼻に当たって、すうすうして寒い」とのこと。
たしかに、ノズルのようなもので鼻に酸素を当てるのですが、冬だと酸素が寒いです(笑)
「これは布団の中にもちこんで、布団をすっぽりかぶって吸えばいいんだよ。そうすれば酸素カプセルと同じだ」と、娘と二人でベッドの中に引き込んで布団をすっぽりかぶって吸ってみたのですが、なんだか遭難している人みたいでした(笑) 二人で吸うにはちょっと酸素量が足りないかも。
ずーはー、ずーはーと競い合って出てくる酸素を吸っていたら、なんだかハイになってしまいました。

もう少し継続的に使ったら、なにか変化があるのかなあ。
執筆しても安眠剤なしで眠れるのは、とってもうれしいです。
今年はたくさん書けるといいな。
# by flammableskirt | 2014-01-06 10:43
漱石の悪夢に入る。劇団新転位21公演
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他者の表現に触れて戦慄することなしに、表現に向うことってあるんだろうか。「戦慄する」という体験は、そう多くはないが、生きていて最も幸せな瞬間だと私は言いきる。
激震する、震撼する、どうでもいい、とにかく「ぼう然とし」「あっけにとられ」「魂ごともってかれる」そういう体験だ。それなくして生きていると言えるんだろうか。

山崎哲さんの芝居は、常に、かなりの確率で、私を《戦慄》させる。
ぶっ壊す。どうしようもないほど落ち込ませる。
ああ、ここまでやるんだ……と思う。

「僕と僕」という芝居は、とりわけ凄かった。私はこの芝居で受けた《戦慄》を「聖なる母と透明な僕」という随筆にまとめた。この芝居は、幼児を殺してその首を切断し中学校の校門に置いた、あの酒鬼薔薇聖斗の事件を題材にしている。そして、私が知りえるなかで、最も深く加害者の家族に踏み込んだ作品だった。あの少年がなにを感じ、どんな世界を生きていたかを、もちろんそれは現実とは違うかもしれない。だが、マスコミが報道する世俗的な感性から見た少年像ではなく、今日的で切実な青少年の心的風景を彼らの側から描いて見せた。そこにはタブーはなく、自由で、大胆で、グロテスクで、嘘がなかった。

芝居なのに、嘘がないとはどういうことか?

わたしは自分の感じた《嘘がないということ》の意味がわからなかった。芝居は虚構であるはずなのに、そこに《嘘か本当か》をなぜ問わなければならないのか。いったい私はなにを感じているのか。

それを知りたくて、その後も山崎哲さんの芝居を観続け、そして昨年から山崎さん個人をほとんど追っかけのように追い、ロングインタビューをしてきた。たぶん私は山崎さんに憑依されたんだと思う。

いま、山崎哲さんは「夏目漱石シリーズ」として、夏目漱石の小説を題材に芝居の公演を行っている。昨年は「こころ」だった。

中学校の教科書にも載っている「こころ」という小説。私も十二才の時に読んだ。だが、内容はすでにうろおぼえ。確か、親友の恋人と結婚する話し……。そんな話だったな……と思いつつ。

なぜいまさら「こころ」を? そう思いながら芝居小屋に足を運んだ。上野の小さな小屋で、観客も少なかった。だが、そこで上演されたもの、その狹い芝居小屋の中で展開された世界は……、やはり、私を《戦慄》させた。

いったいこれは何だ? どういう呪術を使えばこんなことが可能になるのだろう? 芝居が終ってからも自分が体験したことを整理できない。

山崎さんが、打ち上げに誘ってくれたので、私は近くの居酒屋に行った。そして「自分が体験したものがなんなのか、わからない。だが、とにかくものすごいものを見たことはわかった。だから、しばらく山崎さんに個人的にインタビューをさせてもらえないか。発表する予定もないし、目的もわからない。だが、自分が感じたことを言葉にしたい。しなければいけないと感じる」

そう伝えると、山崎さんは照れながら「いいですよ…」と受けてくれた。

山崎さんは「新転位21」という劇団を主宰している。劇団では俳優修行の教室も行っていたがいまは、山崎さんの体調不良のため生徒を受け入れていないようだ。

「新転位21」の芝居の特徴は、山崎さんの独自の俳優の育て方、指導の仕方にある。それはうすうす感じていたが、どこがどう違うのかがよくわからなかった。

それで今回、稽古の段階から見学させてもらった。すでに、三回、稽古場に足を運び、六時間〜八時間に及ぶ長い稽古に参加した。そんな長い稽古をただ見学しているだけで退屈じゃないか? と思う人がいるかもしれない。実は私もさすがに長いなあ……と最初は思っていたのだ。

ところが、稽古場に入って稽古が始まると、数時間が一瞬に感じる。マンションの一室の狭い稽古場だ。そこで役者が立ち稽古をし、それを山崎さんが指導するのだが、この場の緊張感、そして、立ち上がってくる世界観が時空を超越してしまい、頭がぼうっとしてしまうのだ。

ただ、俳優がセリフを読んでいるだけなのに、見えてくるのだ。すべてが。いったいこれはなんなんだ……。この現象はどういうことなんだ。そこで、お願いして自分もこの役者さんたちを相手に、台本を読ませてもらった。体験稽古をしたのである。

目の前に俳優が立つ。その静かさに驚いた。冥想をしている人のようだった。なんて静かなんだろう、この人たちは……。これが俳優というものか……。彼らの前に立つと私は挙動不審な統合失調症の患者みたいだった。

山崎さんが笑って言った。
「田口さんは世間でいうとこの、一般的な演技ってのを無自覚にやっちゃってるんですよ。それはみんなそうなんです、みんなそういうことをやって演技しちゃうんです。だけどね、演技はいらないんですよ。だって、あなたは人間だから。すでに感情をもった人間だから、もってるんだから演じる必要ないんです。ただ、素直に台本を読めば、伝わるんです。それが言葉の力なんです。あなたは小説家だからそれをわかってるはずでしょう」

「私、演技してましたか?」
「してましたよ、でもまあ、面白かった。病気の人みたいに見える」
「確かに、自分はいま挙動不審だなって思いました」
「はははは、それはそれで面白かったですよ、めずらしいものを見せてもらった」

私は、翌日も、翌々日も、稽古場に通ってしまった。自分が体感しているものをもっとはっきりと確かめたかったからだ。

今回の演目は夏目漱石の「道草」だ。淡々とした芝居だ。だが、この緊張感はなんだ……。稽古なのに息もできない。私はこの芝居をなるべくたくさんの人に見てほしいと切望する。山崎さんは欲がなさすぎるんだ。たいして宣伝もしないし、だいたいお客に見せようという商売っけがなさすぎる。

「山崎さん、もっとちゃんと宣伝してお客さんにたくさん見せましょうよ。そうしないともったいなです」
 
私がそう言うと山崎さんは「でもなあ……。お客さんのためにやってるっていうそういう芝居じゃないんだよ……俺のは……」
「じゃあ誰のためにやってるんですか?」
「役者が、ちゃんと自分を大事にして、言葉を伝えることをすれば、演技せずに、言葉の力を信じて、それを伝えるために自分という肉体を捧げることができることが先で、それができないで観客のために演じたら、芝居はもう成立しないんだよ……」

私は今なら、山崎さんが何を言いたいのかわかる。どうしても役者が台本の言葉を読めないときは《言葉を理解せず演技でごまかしてしまうようなときは》、上演をやめて公開稽古にしてしまうという。これまでもそういうことがあったそうだ……。

今回の「漱石の道草」は山崎さんの演劇を理解し支えてきた名優陣が多数参加しており、彼らの言葉、所作、において、石のごとく自然だ、確かに演技をしない。常に自分であり、正確に台本を読む。正確に、自然に、ムダなく動く。ただそれだけのことがいかに困難か。それは、芝居が身体的コミュニケーションだからだ、と山崎さんは言う。

「つまりコミュニケーションなんだよ。だから、やってて気持ちいいし、観ていても内容が伝わるんだ。コミュニケーションしていない役者の芝居はたいくつなんだよ……観てられんのよ」

演劇は上演を観てからでないと「良い芝居だから観に来てください」とは言い難い。私は通しで稽古を見てきているので、自信をもって言う。
夏目漱石という文豪が、近代化する日本という国のなかで作家としてどんな苦悩を抱え、なにを考えていたのか。この芝居は夏目漱石の心の深い深いトラウマを描いている。百年前と現代とか時空を超えて転移し交差する。

そうだ、漱石はいまだに作家として本屋の棚を占領し、私などほんとうに腹立たしい。百年も本屋の棚に君臨する文豪とは何者なのか。その正体を案外知らない。

夏目漱石が抱えている胃痛が、実は我々の、私の胃痛でもあること。それを身体的傷みとして体感できる、それが芝居のすごさだ。夏目漱石の悪夢を、一緒に見よう……。そんな舞台だ。



物語
ある小雨の日、健三は道端で帽子をかぶらない男を見かけた。
かれはその男に見覚えがあった。島田といい、健三の養父だった。
島田夫婦が離婚したため、健三は七歳のとき実家に戻された。
その後、実家が養育費を島田に支払い、島田とは縁が切れたはずだったが、
かれはなぜか不安に怯えた。
島田は生活が苦しく、健三の宅へ金の無心をしに現れた。
かれは断ることもできたはずなのに、いくらかの金を渡した。
すると島田はたびたび健三の宅を訪れるようになった。
そしてその島田の出現を境に自分の姉や、
事業に失敗した妻の父まで健三にまとわりつき、金を無心するようになる。
健三はなんとか金を工面して島田とは区切りをつけるが、
「これで安心ね、すっかり片付いちゃったんですもの」と妻のお住が言うと、
「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。
一遍起こった事は何時までも続くのさ」
と苦々しく吐き出すのだった。

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時●2013年12月4日 - 12月8日
所●シアターバビロンの流れのほとりにて
東京都北区豊島7-26-19
03-3927-5482
mobile 090-2439-7639(新転位21・天野)
<交通>
東京メトロ南北線「王子神谷駅」徒歩12分

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●開演
平日19:00
土曜14:00 / 19:00
日曜14:00 / 18:00 
●料金
前売3000円
高校生2500円
当日3300円

Confetti(カンフェティ)好評前売中!!

取扱
●Confetti(カンフェティ)
http://confetti-web.com/
0120-240-540*通話料無料
(受付時間 平日10:00~18:00)

●新転位・21
Tel&fax 04-7193-2924
mobile 090-2439-7639(新転位21・天野)
e-mail s.tenyi-21@ymdmail.jp
# by flammableskirt | 2013-11-22 13:45
「憑依とは表現の最高のかたち」
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「風の旅人」第三号
妣の国へ 来し方、行く末
http://www.kazetabi.jp

 田口ランディ
 

わたしの場合なのだけれど、文章を最初に読むのは誰か。そして、文章がどんな媒体に載るのか……は、文章の内容にかなり強い影響を与えてしまう。

書く前から最初の読者である編集者がなにを望んでいるのかを、無自覚に探っているみたいなのだ。
それは作家という職業は、どこか憑依体質のようなものを備えているからではないかと思う。なにものかに自分を差し出すことが表現だとすれば、私はわたしという存在を「祭りの場」であることの雑誌に差し出すことで表現をしているのだと思う。

「風の旅人」という雑誌は、特に《祝祭的》雰囲気の濃い雑誌で、一号一号が《ご神事》の《場》なのである。
作り手がそれを意識しているので、この《場》に参加している表現者たちも、《供物》である自らの存在を表現として差し出す覚悟をくくっている。

今回も《妣の国》というテーマで《祭り》を行うという趣意書が送られて来た瞬間から、脳のどこかがある種の変成意識状態に入る。ぼんやりと現実世界を見ながら、そこに二重写しになっている《妣の国》の気配を探しているのだ。

表現は、私のものであると同時に、その雑誌をどう作りたいかという編集者の意図にかなり委ねられる。もともと作家は《自分が書きたいもの》などないのである。そんなものを求めたらスランプに陥るだけだ。

作家は《書かされてしまう》ことが一番幸せなのである。

何に書かされてしまうか……。それが、編集者の個人的なこだわり、個人的な世界観であってもいいし、社会という集合的無意識の要請、あるいはむくわれない個人の怨霊の声であってもいいし、先祖の因縁であってもいい。

どういうものであれ、聞こえざる声、見えざる言葉によって、突き動かされて書くことが最も幸福な状態であり、私という個人が書きたいものなんて、実はなに一つないのである。

しかしながら、最近はなにをしたいのかわからない編集者と、なにをしたいのかわからない雑誌が増えてしまって、編集者から憑依されてしまう経験は少なくなった。

私のデビュー作は「コンセント」という作品なのだが、この作品はまったく無名だった私のところに、一人の編集者がやって来て、私に憑依したことで書くことができた。

彼はいきなり我が家にやってきて、私の前にバーンとヤン・ソギル氏の「血と骨」という作品を置き「田口さん、あなたならこの女版が書けるはずだ。家族の怨念を書いてください」と、すごい形相で迫ったのだ。

あれが最初の憑依であり、彼が何を望んでいるのかがはっきりと伝わり、同時に、私は死んだ兄の声を聴きそれを言葉に翻訳する……という術を体得したのである。

当時は自分に起こったことが自分でも理解できなかったが、十年近く小説を書いてきて、なにがうまくいき、なにが失敗するのかがやっとわかってきた。そうか、私は単なる触媒だったのだとようやく諦めがついた。私個人には書きたいものなどないのだ。私という肉体をもったこの存在を差し出し、憑依させることで、私はなにかを表現しているのだ。

言葉は光である。言葉は光となって私という有機結晶体を通過する時にプリズムとして分光するそれが《表現=作品》だったのだ。

私を通過していく言葉、その妙なる光を発しているもの、その光源はどこか別のところにあるが、だがその光源は外にあるのか裡にあるのか定かでない。とにかく光は満ちており、そこに《念》という偏りが生じるものを私は感じとる。すると光がこちらに差してくる。

個体である私がその光を通過させると、それは私の個性をともなったプリズムとしてこの世に現れる。
それが、私の作品、表現だったのだ……。

「風の旅人」は、明確な《祭り》の意図をもって私に憑依を迫る洗練されたオカルト雑誌だ。
それゆえこの雑誌に寄せる文章は、私という有機結晶体を実に見事に通過して、プリズムを投射させる。今回の文章も、私が書いたのではなく、私を通過して現われたプリズムだ。そういう文章を書ける場はほんとうに少なくなった。

よかったら体感してみてください。
面白い雑誌です。


追伸
本屋さんでは売っていません。通信販売でしか購入できません。
# by flammableskirt | 2013-11-22 11:03

石から立つことを学ぶ

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石を立て続けている。
いろんな場所で、時間があれば、そこに石があれば立ててみる。
最初は、石を立てていた。
わたしが、石を、立てるのだ……と思っていた。
たくさんの石を、立てているうちに、なにかが違うと思うようになった。
私が石が立てているのか、石が立とうとしているのか、わからなくなった。
私が石を立てたいというよりも、石が立とうとしているような気がする。
石を手にとり、重さや、手触りを確かめる。
それから、石を台石の上に垂直に置く。
するり、するりと、石は中心から弾かれていく。
ところが、ある範囲に入った瞬間に、石は立とうとする。
石が立とうとするエリアがあり、その場においてのみ、石は意思をもつ。
あとは石の力だ。
私は石に従わなければならない。私が立たせることを断念して、
石の意思に添う。
そして、石から立つことを学ぶ。
どのように、立つのか。
# by flammableskirt | 2013-11-13 14:11

コーヒー豆を買う

この秋に、札幌の安斎さんのカフェで中川ちえさんに会ったことがきっかけで、コーヒー豆をひくようになった。
近所のスーパーの隣に焙煎屋さんがある。一週間に一度、だいたい月曜日の午前中に豆を買いに行く。250g。ほぼ一週間でなくなる。次の週に、また別の豆を買ってくる。
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味とか、香りとか、いろいろあるらしいが、なにしろ初心者なので行き当たりばったり。焙煎屋さんの奥さんがとても良い方で、ていねいにコーヒー豆について教えてくれるので、アドバイスに従って自分の好みを探っているところだ。比較しないと、なにが好きなのかがわからない。もしかしたら、男も、コーヒー豆といっしょかな。

この人〜!なんて決めないで、やっぱり比較してみたほうがいいのかな。じゃないと何が好きなのかよくわからない。この頃、自分の味覚とか好みとか、とっても疑う。じぶんはかなり大ざっぱで、吟味に足りないことにようやく気がついてきた。もう遅いか……いや、人生に遅いってことはない、ということにしておこう。

今日は以前から気になっていた「タイ・ドイキャン」という、タイの豆を、深煎りしてもらった。
十五分、待っている間に、モカをごちそうになり、しかも、おまけにルワンダのコーヒー豆を一杯分、もらってしまった。いいんだろうか……、250gしか買わないのに。

申し訳ないなあ……と思いつつ、ルワンダの豆を見る。君はアフリカから来たのか……。なんだか豆の顔がアフリカっぽい気がしておかしかった。
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仕事場に行ったら、またダリアの花が咲いていた。このダリアはホームセンターのお花やさんで、半額になって売られていたのだ。君が半額で叩き売られていいのか? こんなにきれいなのにね。花が咲くと切って一輪咲きにする。ダリアは枯れた風情も老女優の品格を感じるな。薔薇とはまた違う艶やかさ。個人的な好みとしては、ダリアのほうが薔薇よりも好きだ。ダリアは天竺牡丹というらしい。オリエンタルな風情がいいな。
# by flammableskirt | 2013-11-11 14:03