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写真集「WAVE〜All things change」森永純
宇宙の思索としての波

田口ランディ



 わたしは、波を知っていると思っていた。
 もう十分すぎるほど、波を知っているから、波という単語を聞いただけでわたしのなかに浮かぶ景色が、ある。なにより、わたしは海辺に住んでいる。波を見ようと思えば、台所の窓からベランダに出ればいい。トタン屋根が続くその先に海があり、海の表面を覆っている象の皮膚のような皺が波で、それは退屈しのぎにもならないほどありきたりなものとしてそこにあるから、改めて波を見ようという気も起きやしない。わたしは海を見ている。青くて、時として鈍色で、時として黒いあの巨大な水の塊を、見て、いまさら慰めにもならないわ、と思う。見て、終る。ああ、海だわ、と。

 もう二十年以上、ここに住んでいるのだもの。都会のひとたちが海を見たいと云い、東海道線を走る列車が小田原を過ぎて根府川駅にさしかかったころ、海が陸を押し退けてぐっと拓けるのを嬉しがる様を、羨ましく思うくらい、すっかり海とはねんごろになってしまい、さらに波は海の属性として、海よりもかなり低い地位を与えてきたと思う。

 森永純さんが「波を撮っている」と語ったとき、わたしに見えていたのは、わたしが経験していたのは、台所の窓から見えるあの、退屈な海にへばりついた無数の皺だった。波はもちろん日々変化しているのだろうけれど、だからって、波が波以外のものになるわけでもなく、風が吹けばとげとげしく立ち上がり、一晩中、砂浜にどったんどったんと打ち寄せて、その波の音を聞きながらわたしは毎夜、眠る。もはやその音すら意識することがなくなったほどあたりまえのこととして、波はそこにあった。

 2011年3月11日に三陸沿岸を襲った大津波は、東海地方のこの地に影響を与えることはなかったけれど、波をみくびっていたわたしにも少なからず心的外傷となったようで、震災以降は無自覚に海岸に降りることを避けていた。波打ち際を散歩するようになったのは2013年になってから。家から歩いて五分の海岸に丸二年ほど降りなかった理由を説明ができない。海岸は積極的に降りる必要のない場所だった。そこは、人の領域と海の領域の接点で、立ち入る人間に緊張を強いる聖域なのだと思った。

 でも、津波の後も、波にまつわるわたしのイメージは悲しいほど貧困で、三十年も波を撮りつづけているという森永さんの創作スタイルは、理解しがたかった。ただ、理解しがたいものに対する好奇心を失っていないことが、わたしの凡庸さの唯一の救いであると思う。

 波を知っているわたしは、波など撮ってなにが面白いのかしらと思っていた。ことばをもった人間の傲慢さで波という体験を、波ということばの中に閉じこめていたと思う。そういう偏屈さが表現者としての限界なのだ。この写真集はわたしの世界観を切り裂いてことばの世界の偏狭さから救い上げてくれた。それが視覚芸術の力なのか。いや、違う、やはりことばで閉鎖された世界のその向こうの本質を見ようとする一人の表現者の直感、その強い、あるいは、かろやかな、跳躍の力なのだと思う。

 写真集に収められた「波」は、波であることに間違いはないのだけれど、私が知っていると思い込んでいた波ではなかった。波にして波に非ずの波だった。
 りんごということばで規定されたどのようなりんごも存在しないのだ、と以前に谷川俊太郎という詩人が詩に書いていた。その詩は少し理屈っぽい詩であったので、その詩に書かれていることを、わたしは頭で理解した。それはそうだ、りんごというのは便宜的な総称であって、個々のりんごは一つとして同じものはないのだ……と。それもまたことばで考えたことであって、再びことばの世界に自閉していく宿命をもっているから、ことばにしようともがけばもがくほど、世界は平べったく了解されてしまう。詩人、あるいは作家は、了解されてしまう宿命のことばを使い、目の前のあるがままの事象に対してことばを越えていこうとことばで挑んでいるドン・キホーテのような存在なのかもしれない。

 森永さんが見ている波は、波ということば(概念)に縛られることのない自由さをもっていた。波は、地球、もしかしたら宇宙全体と共鳴し合う現象として、いまここに生起している美しい流体だった。水という物質は、いまだに謎でありどこからやって来たのか知れないのだという話を読んだことがある。わたしたちの惑星は水の惑星と呼ばれており、この豊饒な生態系は水なくしてありえない。そんなことは、子供でも理屈で理解していることだけれど、実際にわたしたちは「水」ということば以上に水を知らない、ということを、知らない。波は、まぎれもなく水の様相、水の姿態なのだと直感し、水の神秘に向かって心が少し啓けたとき、その小さく開いた扉の隙間からまばゆい白光が差し込んできて、生命という、わたしそのものがそれであるのに、理知を拒み続けるこの不思議な現象を荘厳したように感じた。なにもかもことばでわかった気になっている、そんな脳細胞に光の雨が降り注ぎ、ひたひたと波が寄せ、永遠流転のことばを越えた世界に招かれていくようだった。

 この写真家には、世界はこう見えているのか、という驚きと同時に、それは確かにわたしが知っているなにかであること、わたしのなかに同じ視点が存在することが、はっきりとわかり、もういいかい、と眼を覆っていた手をはずされたように、明るさと喜びに満ちて、ページを閉じた。写真は白い紙の上の抽象的な黒い染みである。にもかかわらず、この染みのパターンがどのような星の歴史を物語っているのか、わたしはことば以前に知っていた。たぶん、この写真を見るひとたちはみな、それがわかるはずだ。でも、いったい、その力はなんだろう、どこから来るのだろう。このことばを越えた波のはるか彼方からやってくる叡知は。 
 存在の極限に向かうような表現の在り方を、あえてことばにするのはとても陳腐なこと。この豊饒な沈黙に、ことばは必要ないと知りつつ……。でも、偉大な寡黙な仕事を一人でも多くの方に知っていただきたくて。


この写真集は限定600部で在庫わずかです。
ご興味のある方は以下のサイトでごらんください。
http://www.kazetabi.jp/森永純-写真集/

たぐち
by flammableskirt | 2014-10-08 09:11
神の依りし顏

東京ノーヴィ・レパートリーシアター公演
「古事記 天と地といのちの架け橋」

2014年10月8日初演を観て


田口ランディ


顏が、際立っていた。
今夜、わたしが体験したのは、神の顔の前に座るという神秘。
日本人であるなら、たぶん誰もが了解している「神の面相」というものがある。
恵比寿神や大黒神という、わたしたちにとって馴染み深い神さまたちは、なぜか一様に、独特の笑みを浮かべている。不思議な笑みだ。人間の美意識では量ることのできない、得たいの知れない超越的な笑みだ。時として不気味にも思える笑みだ。

神は笑っている。神の笑みを、わたしは(たぶんわたし以外のたいがいの人も)、酉の市で売られる熊手か、神社に祀られた石像か、あるいは居酒屋に飾られた木彫りの像でしか、体験したことがない。いまどき神を演じる者はいない。お神楽や能は神を舞って見せてくれるが、神の顔は面であり、生身の人間が神を顏に宿すことはしない。

ところが、この舞台において俳優たちに課せられたのは「神を顏に宿す」ことだった。「古事記 天と地といのちの架け橋」は、俳優たちがその顏で神を表現するという、神話世界への斬新な試みであり、しかもそれが成功していたのだから、日本人は神の顔を細胞で記憶しているのだと納得するしかない。

顏が美しかった。微笑むとは、花が咲くことを意味することばでもある。顏が花となって舞台に咲いていた。面白いとは、顏が照らされて白く輝く様である。輝く神の顏は客席を照らし、燦々と祝福していた。見た者はみな顏によって祝われる。祝いとは、石に神が宿り磐(いわ)となること。転じて神の宿りを寿ぐことば。今宵、無数の祝いの顏が、舞台から世界を荘厳していた。

顏の力、そのことを思う。
「顏施(がんせ)」ということばがある。笑みを浮かべることを施しとする仏教のことばだ。顏には神通力があるのだ。顏ということばは「カ(外)・ホ……外へ現れる」という意味であり、顏によって、つまりは、眼と鼻と口の周りを覆う表情筋と呼ばれる筋肉によって、人の心のすべてが外に向かって現れているから、浮かべる表情のひとつで、人を癒し、喜ばすこともできれば、怖がらせ脅えさせもできる。頬も同じに「現れる」の意であるなら、ほほ笑みこそ、裡から外に向かって現れた神の顕現、祝福の開花。そう考えれば、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三神が、イザナギノミコトの顏から生まれ出でたことも、合点がいくではないか。

今宵、劇場に集った観客は無量の「顏施」を受けて幸福に浸ったのだが、この「顏施」は期間限定であるので、もし、なんらかの心痛や、日々の暮らしの疲れに気持ちが沈んでいるならば、神社に参る気持ちでこの舞台に足を運んでみるのもよいかもしれない。
神々の顏によって荘厳される体験はとても希有なものだ。

いま、わたしの好奇心は、客席を離れて、神を現す笑みを浮かべ続ける俳優たちに向かう。
彼らは、公演の間ずっと、過酷なまでに「神の笑み」の表情筋を使い続けるのである。笑みの表情は人間の脳に働きかけ、幸福を感じる脳内物質を誘発することが証明されている。……であるなら、この舞台を通して俳優たちの裡にはどんな変化が起こりうるのか。公演が終了したなら、一人一人に質問をしてみたいと思う。いったい、あなたは、どんなニルヴァーナを体験したのか、と。

上演は13日までです。
この舞台の公演に関しては以下のサイトをご参照ください。
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/index.html
by flammableskirt | 2014-10-08 02:15
2014年10月14日(火)
第20回 ダイアローグ研究会
テーマ
『震災とマンガ~美味しんぼ問題とメディアのありかた』
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ゲストスピーカー
藤本由香里
明治大学国際日本学部教授・マンガ評論家


オーガナイザー
北村正晴 東北大学名誉教授
大森正之 明治大学教授
田口ランディ 作家

今回は、マンガ評論家としても活躍する藤本由香里先生をお招きして、
マンガ学会で「震災とマンガ」を取り上げた時の議論と、それに対する反応を手がかりに、「震災を描く」ということの難しさと、美味しんぼ問題とメディアの在りかた、人々の反応などについて参加者の皆さんと共に考えていきたいと思います。


■日時
2014年10月14日(火)18:30開場/19:00開始/21:00終了
(※途中参加可能です)

■会場
お茶の水駿河台 明治大学リバティタワー
1094教室 9階

皆様のご参加お待ちしております。

ダイアローグ研究会とは?
2010年に発足した対話のための研究会です。主に原子力や核の問題を中心に対話の在り方を模索しています。明治大学においてほぼ隔月で研究会を開催してきました。一般参加者と専門家が対話する場として、原子力の専門家、新聞やテレビに携わるジャーナリストもメンバーとして参加。幅広い年代、さまざまな職業の人たちといっしょに、多角的な問題提起を行い、対話を続けています。
by flammableskirt | 2014-10-02 13:12