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2014年の始まりのダイアローグ研究会。4月8日という年度始めのこともあるだろうけれど、昨年に比べて参加者は少ない。それが「無関心」の現れであるとは思わない。人はいつまでも間接的な問題にばかり心を向けてはいられない。日々の生活のためのお金のこと、自身の病気、転職、恋愛、親の介護、そういう山積みの問題の合間に、原子力があり、憲法第九条があり、東北の復興があり、現実的にいま困っていないことはだんだんと関心の中心からそれていく。だが、それは生きるためにいたしかたないことだ。

この研究会を「ダイアローグ研究会」としているのは、原子力という問題がダイアローグに適しているからだとも言える。この国に住まうすべての人にとってエネルギーは身近な問題だ。生活と直結している。だからこそ、原子力の議論は複雑によじれる。ダイアローグとは、問題解決のための手段の一つには違いないが、時間がかかりすぎるので、解決の方法としてあまり現実的ではない。でも、ダイアローグがなければ、私は、ただ自分のなかに閉じてしまい、思索は平行線をたどり、本で得た知識でもって頭でっかちになり、生身の人間から離れて行ってしまう。

フェイスブックやラインという便利なコミュニケーション手段がいくらでもあるのに、わざわざ場を創り、皆でそこに集まり、話をする……という手間をかけているには、そうすることでしか得られないものがあるからだ。
その人がいることで生まれる場のバランスとニュアンスというものがあり、それは、発言など一言もしなくても、ただ、そこに存在していることで、強い影響力を持っていることを多くの人は気づいていない。沈黙している人の存在の力は、主催者である私こそが一番強く感じているかもしれない。それを感じたいがために続けているような気がする。
だから、「ダイアローグ研究会」はずっと原発について話し合っているけれど、解決を模索していない。その点について今まで批判を受けたこともある。「対話している場合じゃないだろう?」と。「あなたはいったいどうしたらいいと思っているのだ?」と。
その問いに対して、現状、私は「自分の仕事をする」という以外に答えられない。それがこの四年間、ダイアローグ研究会を通して得た私の実感なのだった。

私は音楽家の坂本龍一さんのように、脱原発を声高に叫ぶことは重要だと思うが、でも、彼が天から授かった音楽によって人々に与える影響から見れば、彼の脱原発の言論などほんとうに意識の表層にちょこっと風が吹いた程度のことではないかと思っている。
「戦場のメリークリスマス」という映画の音楽を坂本さんが創った。曲は映画と切り離すことができない。音楽と共に映画のテーマは観客の意識の奥深くに刻まれた。あの映画は価値観の違う西洋人と東洋人が出会い、お互いをリスペクトしていく内容で、戦時下の極限状況の中でも人間と人間は理解しあうことができること、理解するがゆえの深い哀しみを描いている。坂本さんの曲によって、人間存在の理不尽さが浮き彫りになった。それは、直接的ではないけれど、人類の深層心理になにかしらの影響を与えたと思う。そのようなことが芸術表現では可能であり、心の奥深い部分にある人間の神聖さに訴えていくことでしか、千年後の未来はありえないと感じるようになった。

そんな天才的な表現能力をもっていない私たちであっても、個々人にはおよそ無限大の可能性があるのだが、不思議なことに人は「自分ができること」を認識することができず、わりあいと多くの人は「自分はなにもできない」と感じており、「自分にできることはなんだろう」と悩んでいるのだった。
ここには一つ、からくりがあり、その人が存在していることが、他者にどのように働くかということは、その人個人は自覚できないものなのである。だから、一人一人が自分の存在価値を知ることは不可能に近い。それは他者によって常に「与えられ」るしかないもの、他者によって「体験されてしまう私」でしかない。

ダイアローグ研究会にやって来て、なにも発言せず、参加しただけの誰かが、しかし、その場に来てくれたことで、他者に与えている影響は計り知れないのだが、そんなことは本人はまったく知らず、どちらかと言えば「自分はなにもできない」などと思って帰って行ってしまうのだろう。
だから、私に言えるのは「そうではありません」ということなのだ。そこに生身で居るということ、は、すごいことなのだ……と。あそこには三〇人くらいの人間しかいなかった。三〇分の一として場にいることの重さを人は気づけない。それがどんなに私にとって意味をもつのか気にもかけない。
人はその人としてそこに存在しているだけで、どれくらいの影響力をもっているのかを、自分では気づけない存在だ。それは私も同じで、私自身の「とるにたらなさ」に日々落ち込み、日によっては有頂天になり、日によっては無力感に嘖まれてしまったりする。

そういう私にとって、ダイアローグ研究会という本当に小さな会に、来てくれる人がいることが励みであり救いであるのだが、来ている人たちはたぶんそんなことはあまり考えていないのだろうなと思う。
そうやって人は、落ち込んだり悩んだりしながら、修羅を曝すことで実は他者を救っている菩薩のような存在なのだが、そんなことにもまったく気づかないで、ふがいない自分に苦しみながら、生きている。このごろは、それはなんて哀しい美しいことなんだろうと、思われてしょうがない。
by flammableskirt | 2014-04-09 11:32