田口ランディ Official Blog runday.exblog.jp

作家 田口ランディの新刊・イベント情報・近況をお知らせします。 


by flammableskirt
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二〇一四年の最初のダイアローグ研究会のお知らせです。
事故から三年が経ち、社会状況も刻々と変化しています。この現実に対して個々の方がいろいろな思いを抱かれていると思います。
ダイアローグ研究会も今年はこれまでと違う角度から原発と原発を取り巻く様々な諸問題について対話を試みていきたいと考えています。
次回はこの三年間のダイアローグ研究会の取り組みと、現状の問題意識の共有化を行い、それぞれに見えている現実のすり合わせを行っていきたいと思います。
北村正晴先生と田口ランディの対話を中心に、活発な意見交換ができることを望んでいます。
是非ご参加くださいませ。初めての方でも参加できます。
(定員10名です。定員になったら締め切らせていただきます)

田口ランディ


日時
二〇一四年四月八日 火曜日 午後六時半開場 七時~九時まで。

場所
お茶の水駿河台 明治大学リバティタワー 7階1075教室


テーマ
「原子力と対話 これまでとこれから」
北村正晴・田口ランディ


※参加する方は事務局長の宗野真吾さんまで参加表明のメールをお願いします。
必ず氏名と連絡先メールアドレス(携帯メールとPCメールのある方は両方)をお知らせください。
また、さしつかえなければ年齢とご職業もお知らせください。
参加申し込みメール先
宗野 真悟
super_question_mark@yahoo.co.jp

参加費 無料
by flammableskirt | 2014-03-30 17:35

木と気

湯河原の自宅の庭で太極拳の稽古をする。終ると身体がぽかぽかになるのだが、その日はなぜか左の腕から指先までとても冷たくて、右手と温度がぜんぜん違うのだ。
「どうして左手が冷たいんだろう。どこか気の通りが悪いのかしら」
なんとなく気になっていた。詰まっているところがあるのかな?
それから数日後に、友人の秋山眞人さんと会って飲む機会があった。西荻窪の古いカフェで夜中まで話し込んでいたとき、私はふとその話をしてみた。
「左手だけがね、とても冷たいの、どうしてかしら?」
「うーん、まあ、そういうこともありますよ」
秋山さんは、めんどうくさいので話をそらそうとする。
「でもね、気になるのよ。ちゃんと見てよ、ほら左手。超能力者でしょう!」
つきあいが長いので、こちらも図々しい。
「あーーうーーーん」
仕方なく私の左手を見ていたが、おもむろにテーブルに指で図を描き始めた。
「玄関がここにあるとする。この玄関からおよそ四五度の角度の、このあたりの場所に大きな木がある……」
想像しなかったことを彼は言い始めた。
「あ、ある。木がある。そしてね、その木は去年の夏に庭を伐採したときに枝を落としたら、ちょっと元気がなくなってる」
「常緑樹だね、なんだろう、杉かなあ」
「丸く枝が張るチャボとか呼ばれている木」
「ああ、そんな感じだ」
「冬になったら枯れてきてとても気になっていたの」
「だいたい木は特定の人間にしかなつかないんだ。その木が手に憑いたんですよ」
「木のせいなの?」
「たぶん……」
「でも、木があるの。枯れそうなの、どうしたらいいかしら?」
「今年は寒かったからねえ、とにかく肥料をあげて。根っこのところに灰を撒いてもいい。肥料をやれば、暖かくなってきたら元気になると思うよ。あ、それからその木の下になにか植えてるな?」
「センリョウを植えている。赤い実のなるやつ」
「あれは栄養を吸い取るから、それも少し切ってやったらいいよ」
それから、彼は「一度見えると映像が消えないんだ。あーーーまだ木が見える」と嫌がっていた。
どうやら透視するために別次元に入り込むとそこから抜けるのが難しいらしい。
「だからあんまりやりたくないんだよ、気持ち悪いから」
「まだ見えるの?」
「見えてる、ここらにその木が」
「ごめんね……」
「いや、でもその木が訴えてきたんだから、しょうがないね、ははは」
家に帰って、肥料をあげて、低木の枝を落とした。もう十日以上経つ。なんだか心なしか幹に艶が出てきたように思える。わずかに残った緑の葉も青々してきたような……。
この木、私になついていたのか……。ごめんな。
夏までに、元気になるかな。そうなったらいいな。
それにしても、ほんとうに見えるんだなあ。ちょっとしたことにももっと気配りをして、自分とつながっているものの気配を聞いたり感じたりできるように生きていこう。
秋山さん、ありがとう……。
by flammableskirt | 2014-03-16 09:44
田口ランディさんの最新刊『座禅ガール』の発売を記念し、作家・窪美澄さんをゲストにお迎えしてトークショーを開催いたします。

2014年3月27日 (木) 18時30分~
(開場:午後18時) 
●講演会終了後サイン会あり(ご希望のお客様のみ)
※サイン会の対象書籍は『坐禅ガール』(祥伝社刊)のみとさせて頂きます。
また、ゲストの窪美澄さんのサイン本を、会場で販売いたします。
 
本店 8F ギャラリー
100名(申込先着順)※定員になり次第、締め切らせていただきます。
料金 無料
申込書に必要事項をご記入の上、1階レファレンスコーナーにてお申込み下さい。
申込書は同カウンターにご用意してございます。
また、お電話でのお申込みも承ります。(電話:03-3281-8201)
主催:八重洲ブックセンター


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by flammableskirt | 2014-03-14 23:43
第7回サンガくらぶ
『田口ランディ対話集―仏教のコスモロジーを探して―』(サンガ刊)
『坐禅ガール』(祥伝社刊)刊行記念
田口ランディ対談 
ゲスト:村上光照禅師


「坐禅と神さまと仏さま」

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新刊「仏教のコスモロジーを探して」「坐禅ガール」の出版にともない、日本でも数少ない遊行の禅師である村上光照禅師との対談を行います。

禅を生きている村上禅師の世界観、宇宙観、仏教観は、既成概念に凝り固まった私たちの思考を解き放つ力をもっています。「いまここに在る」とはどういう姿なのかを教えてくれます。

村上さんに接するだけで、その意味が言葉ではなく身体で感じられるのではないでしょうか。

めったにお会いできない方が、今回は伊豆の松崎から来てくださいました。なるべくたくさんの人に「生きる禅」を体感していただきたいです。田口


村上光照禅師についてはこちらをご参照ください。

【日程】
2014年3月29日(土)14:00~16:00(13:30開場)
講演   14:00~15:30
質疑応答 15:30~


【会場】
昇龍館ビル303号室
〒101-0052 東京都千代田区神田小川町3-28-7
JR御茶ノ水駅 聖橋口より徒歩5分 

【参加費】
「一般」 2,500円 
「サンガジャパン定期購読ご契約中の方」 1,800円
「参加当日にサンガジャパン定期購読ご契約の方」 無料(別途、定期購読料5,250円)
※お支払いは当日清算となります。

【予約方法】
件名に「『田口ランディ新刊』刊行記念」とつけて、「お名前」「人数」「お電話番号」「参加費の種別(一般か定期購読か)」を明記の上、ご予約ください。
<<<お問合せ>>>
サンガ東京 tel:03-6273-2181
メール:samghaclub@samgha.co.jp

by flammableskirt | 2014-03-14 11:24

日々の悟り

一日のうちでも人間の心は揺れ動いているから、日々に悟りもあれば修羅もあるんだ。亡くなったトランスパーソナル心理学のカウンセラーである吉福伸逸先生がそんなふうにおっしゃっていた。

日々の悟り……。それは烏龍茶や珈琲をていねいにいれる時に感じる。烏龍茶はいれる時の作法のようなものがあり、それにのっとって器を暖めお茶を蒸し上げるようにする。いれかたで香りも味も変わってしまう。なにが違うのか自分でもわからないが味が違う。珈琲もそうだ。ハンドドリップでていねいにいれても、味が違う。なぜかその日の気持ちの静まりと関わっているような気がしてならない。無心でいれないと味が透明にならない、雑念が入ると雑味が出てしまう。いつも夫の分と二人分をいれて飲んでいただく。今日は集中できなかった、と思う日は夫もわかるらしく、今日はちょっと雑味が出ているね、と言う。

珈琲は午前中に一回。烏龍茶は午後に一回。どちらも一日一杯しか飲まない。私は外ではほとんど珈琲は飲まない。家で飲む一日一杯の珈琲を瞑想だと思い、丁寧に入れるようになったのは去年からだ。こんなささやかなことだが、すばらしくおいしくいれられた時は、なんとも不思議な幸せに満たされる。台所の風景され美しく見える。優しい気持ちになれる。それは一瞬のことだ。ほんとうに一瞬で、過ぎてしまう。あとはまたぐちゃぐちゃどうでもいいことを考え、悩み、仕事の雑事に追われているのだ。

ほんとうは、仕事の雑事と言ってしまうことだって、茶をいれるように向き合えば、きっとそこにもなにかの幸福が感じられるのだろうけれど、そうはいかない。気持ちをもっていくことが難しい。日々のことすべてに集中できることを、悟りをひらいた人と呼ぶのかもしれない。そういう人はどこにでもいるだろう。なにげなくいるだろう。そして、ささやかに世の中を照らしていると思う。その人を見れば、誰でも、気持ちよいはずだから。

そういう人になりたいなあと思うのだけれど、まったく、ぜんぜん遠くて、いつも焦っていてとにかく早くやらなくちゃ、そしてやりながらもう次のこと別のこと終ったことを考えていて、あっちこっち、物事をやり散らかしながら、時折ぼんやりし、ふてくされ、ささくれだち、淋しくなったり、うれしくなったりしながら、ああ、忙しいとか呟いているのが現状なのである。
by flammableskirt | 2014-03-14 08:51

3月11日が過ぎて

 2011年4月11日から始まった「アノニマス・エイド東京慰霊祭」は今年で4回目。なぜか今年がいちばん気持ちがざわざわして落ち着かず、どうにも足下が揺れているような不思議な感覚に陥った。イベントのあいだも床がぐらぐらしているように思えた。第一回目の時は読経の最中に大きな余震があった。あの時は本当に揺れていた。
 三年目となる今年は私の気持ちが揺れているのだろうか。
 若松英輔さんとの対談のなかで、若松さんが「使命」というお話しをされた。「だれか」が「あなた」の存在によって「なにか」を感じているはずだ。必ず「あなた」は「だれか」にとって「なにか」の働きをしている。それが
使命だ……と。
 私も私のはかりしれないところで「なにか」の働きをしているのだろうか、しかし、私にはその実感が湧いてこず「使命」という言葉の前に途方に暮れていた。正直なところ「なにもできていない」自分を責めるような思いがあり「なにもできない」のではなく「なにもしない」ということだろうと、これまたいじわるな自分が言い、その通りだなとうなだれる自分がおり、それをまた「猿芝居だ」と冷めて見ている自分がおり、複数の自分に分裂したまま、まとまりを失っているような感じだった。
 いろいろなことをやったような気がするが、そのどれもが中途半端な自己満足に過ぎなかったのではないか、とか、いま自分のやっていることも、単に自己満足なのじゃないか、などと、考えるようになっている。
 そういう、少しささくれた思考に入ってしまうのはなぜだろうか。きっと疲弊しているのだなと思った。端的にいえば自分の当時者性がどんどん薄れてきて、そのことにとまどいつつ、内心はほっともしていて、心が矛盾を起こしているのだと思う。
 こういう時、なにか強い信念とか、わかりやすい答えを求めているのがわかる。答えをお水のようにごくごく飲み干して身体を潤したい。そう感じる。
 空中の存在しない椅子に腰掛けているような状態で、姿勢を維持することができないのだ。思考の筋力が弱い。ピンと立つなり、どかっと座るなり、はっきりできたらいいのだが、それもできない。
「ダイアローグ研究会」も4月から再開するのだが、どうにも気が重いのである。原発の問題からも気持ちが逃げてしまっている。考えたくないなあという積極的な逃げではなく「考えなくちゃいけないけどぐずぐず」という感じだ。以前のようにそこにすぐ気持ちを持っていけないでいる。
 2010年から始めたダイアローグ研究会は4年目に入るのだから、そろそろ中だるみ的に疲れが出てしまうのかもしれない。安倍政権になってから特に、原発問題に関して場を立ち上げていく気力が落ちているのは、話の方向が多岐にわたり拡散してしまうからだろうか……。どこかで「こんなこと続けても無駄なんじゃないか」という、魔の声が響いている。なんのために、誰のために、場を創ろうとしているのか。自分のなかの軸がわからなくなっている。
 一緒に動いてくれる仲間がいるので、なんとか続けているが、一人では到底、無理だろう。私は焦っていると思う。とても強く、苛立っている。この状況に。たぶん。そして怒っている。対話なんかすっとばして、力と数でこの状況を変えたいと願う自分もいるのだ。そのほうがてっとり早いし、すかっとする。そういう自分の中の衝動を抑えつけて「対話」などと言っても、自分に自分が食われていく。だから、仏教に静けさを求めているのだろう。自分の修羅を静めたいからだ。
 そんな時、いつも思い出すのは気功の師である新渡戸道子先生の言葉だ。
「田口さん、ゆっくりは怖くない。怖いのは止めてしまうことよ」
 ゆっくりは怖くない。
 呪文のように繰り返している。
 ゆっくりは怖くない。
 怖いのは止めてしまうこと。
by flammableskirt | 2014-03-13 11:20
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劇団態変 30周年記念公演
『Over the Rainbow -虹の彼方に』


劇団「態変」はその名の通り、「たいへん」な劇団なのである。洒落ではなく、存在そのものが「たいへん」であるし、存続そのものが「たいへん」なのである。

この劇団は大阪にある。東京に住む私としては演劇を観るために大阪まではちょっとなあ……と思いつつ、なぜか足を運んでしまう。なにを観たくて足を運ぶのか、説明するのが難しい。

劇団という名はついているものの、一般的な私たちが想像する劇団とはちょいと趣が異なる。この劇団の構成員は全員が「身体障害者」である、それも、こんなことを言ったらすぐ「差別用語」と糾弾されてしまいそうだが、並の障害ではなく、かなり重度の障害者によって維持されているのである。
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劇団の座長である金満里は、ポリオという病気で肢体不自由である。彼女の障害者施設時代の親友という女性を、私がボランティアとして介護していたことがある……というのは、後になって知ったことである。まったく世間は狭い。24時間介護が必要な脳性小児麻痺の高木美鈴さんを介護していたのは、私がまだ20代の頃である。

劇団は30周年を迎えるというから、ちょうど私が介護ボランティアをしていた頃に立ち上がっているわけだ。しかし、長らく私はこの劇団の存在を知らなかったし、もし当時、知っていたとしてもあまり興味を持たなかったかもしれないと思う。

劇団も当初は試行錯誤を繰り返しており、どちらかといえば「障害者が演じているから」ということで社会からは注目されていたろう。もちろん、主催者である金満里は「冗談じゃない、私たちは演劇をやっているのだ!」と主張し続けてきたが、個々の団員が魅力的な俳優に成長していくために、芸術の神はちっぽけな同情を施すことなく、30年という歳月と苦難を課したのである。

昨年の伊丹アイホールでは、連日満席だった。客演していたピアニストのウォン・ウィンツアンとの即興による舞台は、美しく残虐だった。
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ある役者にこの劇団の話をしたところ「そんなに重度の障害をもっていても、人に見られ舞台に立つことはうれしいのだろうか?」と呟いていたのが印象的だ。舞台に立つとは人に見られること。それが俳優である。俳優とは、その場に立つだけで空間を次元転位してしまう能力をもつ者たち。だから人に非ず、優れた者として「俳優」なのである。

「態変」の舞台は、俳優の存在自体がすでに私たちの想像を超えている。というのは、私たちは自分の身体の正常なイメージしかもっていなことが多いからだ。私の手がなかったら、足がなかったなどと、ふだん私たちは考えない。だが、それは常に起こりえる。事故で、病気で、災害で、戦争で……。
その日常の危うさを、がつんと突きつけられる。無言でだ。開演したとたん、いきなり次元転位である。

今回、「態変」は大阪のABCホールという大舞台に挑む。
これまた「たいへんな事態!」である。そんな大ホール、800人の観客席を埋められるというのか? しかし、彼らは「たいへん」に動じない。存在そのものが、人生そのものが「たいへん」な彼らに、いまさら「たいへん」もクソもないのである。ひたすらあっけにとられるのみだ。その、勇気と根性としぶとさが、いま、私には必要だなと思うから、やっぱり足を運んでしまうのだろう……。

一人でも多くの人に、この「たいへん」な事態を体験してほしいと願う。

【日時】
3月21日(金・祝)18:30
3月22日(土)13:30 / 18:30
3月23日(日)13:30
 ★アフタートークあり


【会場】
 ABCホール (大阪市福島区)
 http://asahi.co.jp/abchall/map/index.html

【チケット】
 一般3,500円 学生2,500円 シルバー3,000円 障害者介助者ペア6,000円

【出演】
 金滿里 楠本哲郎 小泉ゆうすけ 上月陽平 下村雅哉 向井望 山口幸恵 植木智(新人)+エキストラ
 演奏: 山本公成(Sax,Flute) 中島直樹(Bass) 信藤真実(Dr.) 
 ★3/23 アフタートーク:金滿里×倉田めば(薬物依存回復支援団体「Freedom」代表)

【チケットご予約】
予約フォーム  http://www.asahi-net.or.jp/~tj2m-snjy/form/ticket2.html
TEL  06-6320-0344(劇団態変)
E-mail  taihen.japan@gmail.com

態変ホームページ
http://www.asahi-net.or.jp/~TJ2M-SNJY/jtop.htm
by flammableskirt | 2014-03-03 12:56

デコポン

この四月からА新聞に記者とし入社するという青年と会った。
人間は見たまんまだ、という人生経験におけるエビデンスを重視する私は、相手の顔を人間存在の価値の中心に置いてしまうのだが、その意味において青年は「純粋で良いひと」だった。通俗的な形容をすれば「きれいな目をした青年」だった。
 どうして記者になったのか、という質問しか、初対面の青年に対して思いつかない自分の凡庸さにうんざりしたが、まさか「ハムスターを飼っているか?」とか「君にとって天皇はどういう存在か?」などと聞くのも変だし、とりあえず当たり障りのないところで話題を振ってみたところ、穴を掘って埋まりたいくらいの模範解答が戻って来た。
学生時代に水俣に行って、胎児性水俣病の患者さんや親御さんたちと出会い、彼らの生き方に触れたことが職業選択のきっかけになったのだと言う。水俣に多少の縁のある私は、彼が出会った人々のことも知っていたから、彼の水俣における内的変容体験に対してある程度の想像力は発揮できたのだが、なにかしっくりこないのだった。
それはたぶん、年長者が若者に向って「そう簡単にわかってもらっては困る」的な、経験主義的上から目線なのだと、自覚はしているのだが、口うるさいおばさん的にななにかひと言付け加えなければ、この、ものすごく美談的な職業選択理由を受け入れたことになってしまう、と焦り、ごちゃごちゃと水俣病事件と呼ばれる現象世界の複雑怪奇さってすごいのよ、とごたくを並べてみたのだが、そもそも、なぜ彼の純粋な職業選択の理由を私が受け入れ拒否しているのか……。なぜ、私にとって彼の美談的職業選択理由が都合が悪いのか、よくわからなかった。
なんとなく、おせっかいな説教をした気分になって、ちょっと落ち込んだまま家に戻ってくると、偶然とはすごいもので、水俣の友人から「デコポン」が届いていたのである。水俣の「デコポン」はすごくおいしいので、私はうれしくなってさっそく、がつがつと食べながらダンボールに入っていた友人の手紙を読んだ。
この友人は水俣に住んでいるけれど、水俣病とはまったく関係ない。水俣市に住んでいる人がみんな水俣病に関心をもっているかといえばそうではなく、どちらかといえば市民のマジョリティは水俣病ってあんまりよく知らないし関わりたくもないと思っているのである。
 彼女は、私が水俣に行った時に小さな手芸店を開いていて、しかもだんなさんを若くして亡くして一軒家に一人で住んでいて、どういういきさつだったか忘れたけれどもなにか意気投合してご飯を食べ、彼女の家に泊めてもらったのだった。彼女と水俣病は遠く、彼女と私のつながりも水俣病ではなく、彼女に「あなたも水俣に住んでいるのだから水俣病に関心を持ちなさいよ」という気もなく、今年も「デコポン」を送ってもらって喜んでいるわけである。
手紙には「また水俣に来たら遊びに来てね!」と書いてあった。
遠慮があってレコーダーすら回せないという度胸のない私には、、きっと記者という仕事はできないと思う。それを職業としたことで失ってしまうものがあることを私は恐れていて、その恐れを青年に伝えたかったのかもしれない……と、デコポンを食べながら思った。気持ちを伝えるっていうのは難しいなあ。そもそも、自分がなにを伝えたいのかわからないことのほうが多いのだから……。
ごめんな、青年、がんばれよー。
by flammableskirt | 2014-03-02 17:33

依存症的生活実感

ある文芸誌に、50枚の短編の約束をしたのに勢い100枚を書いてしまい、それでも全然終わらない。編集者も困っていて申し訳ないのだけれど、春になって暖かくなると気分的に不安定になるため、現実逃避で執筆依存症になる。なにかしら書いていれば他のことを考える余裕がないので、ひたすら書くようになる。
私の父はアルコール依存症だった。依存傾向を遺伝的にもっていることは若い頃に気がついていた。やはり自分はどこか過剰で、勢い余ってよく人生街道から転げていたからだ。父のアルコール依存症を通して、依存症にはほとんど治療方法がないことを知った。一度、アルコール依存になったら、二度と酒を飲まないという選択しかない。つまり、酒を飲まない酒依存症として生きていくだけである。そして、酒を飲まない方法として、別のものに依存するのは有効な手段である。
依存傾向が強い人間は自分にとって最も害がなく、しかも実益が伴うものに依存の上書きをするのが得策であり、私の場合は執筆に依存するのがサバイバルの現実的な手段として有効なのは誰の目にも明らかだ。
というわけで、春は憂鬱であるので依存傾向が強くなり、書かずにはおれなくなって、むやみやたらと書いてしまうし、書くことでしか安定できないのである。特に今年は、気分的に不安定で、不安定だと仕事が安定するという、依存症にとっては最も幸せな循環を作ってしまっているため、いくらでも書けてしまうのだが、依存症なので歯止めが効かないのである。
こうなってくると、もうどこでもいいから書きたいし、来た仕事は全部受けてしまうし、ネットにだって、ブログにだって、ほらこのようにどんどん書いてしまうのである。まさに依存症の本領発揮であり、よって今年はすでに六冊も出版が決っており、これは依存症の悪化を意味すると同時に、収入の安定を意味する。それでも、まだ書きたいし、書くことに依存しているから書けないという状況はありえないのである。
春が去り、初夏が来て気分が安定し、依存症がおさまってしまった時に、目の前に原稿締め切りのハードルが地平線まで続いているような事態だけは避けたいので、受けたものはすぐ書く。夜中にハムスターが、ひたすらエネルギー消費のためにのに回し車を回している姿を見ると、あれは私だなと思うのである。
by flammableskirt | 2014-03-01 14:24

ゴドーを待ちながら

急に暖かくなって、しかも、今日は三月になってしまいました。
月が替わる時に感じる「必死で走っているのに出遅れた感」はなんだろうなあ……と思います。
死ぬまでこんな感じなんだろうか、死期が迫ってくるときも、あーがんばったけど、なにかに遅れをとった気分だなあ……と思うのだろうか。この「あー、なんか遅れている」っていう感じの気分の根拠はどこにあるのだろうか?
やるべきことをやっていないで、たとえば確定申告の書類の一部がまだ手元にないとか、そういうせいなのか?
わからないなあ……とにかく、私の気分は、季節にいつも急かされていて「あ、ちょっと待ってよ今行くから、あーーー!」なのだった。

昨日は東京ノーヴィ・レパートリーシアターの「ゴドーを待ちながら」の千秋楽を観劇し、打ち上げに参加させていただいた。
「ゴドーを待ちながら」は、サミュエル・ベケットのあまりにも有名な戯曲だけれども、知的な遊戯として演じられてしまうことが多かった。今回の舞台は、演出家アニシモフ氏の今日的な解釈と役者の力量がすばらしく、結末になにかしらうっすらと光が差してくる思いがして、美しい舞台だった。ベケットに対して敬意のある、戯曲に忠実な舞台であり、だからこそ演じるのが困難で、だからこそベケットの世界観を観客に届けられるのだと思った……。
ベケットは、いつの時代にも前衛であり続けるところがかっこいいな……。やはり、すごいのだ。以前にはわからなかったが「ゴドーを待ちながら」の主題は普遍的であり、普遍的なテーマは古くならないのだった……。
そういうものに触れると、私のなかには「やる気」と「挫折感」が同時に立ち上がってくる。だいたい常に私の中には二つの相反する感情が同時に存在し、その時その時の微妙な傾斜で心という玉がころころと移動しているのである。
この傾斜は、春になるとなぜか「挫折感」の方向に角度を増すため、心はゆるやかに確実に憂鬱になるのだった。この憂鬱は、人恋しさとワンセットになっており、理由もないのに……というか、さまざまな、表面的な理由によって朝からちょっと淋しい気分になっている。

単なる傾斜であるから、時々刻々と移り変わっているのだけれど、月の変わり目は「出遅れた感」がいなめないので、理由もなく心は自分を責めるほうへと傾斜して、ころころと不安定に転がっている。あー、めんどくさいなと思うのだった。

坐禅などというのは、この傾斜を平らにするためのものなのだろうな。多少の傾斜は「言葉」を排除することで、身体感覚に転じていく。気分ではなく「身体の感じ」として受け止めることによって、この傾斜のころころは消えていく。消えていくとわかっているのだが、消えてしまうとなんだか物足りない気もして、あえて傾斜のなかでころころしているのは「趣味」であり、この「趣味」を「わびさび」という日本人的な美意識まで高めてしまえば、春の朝に感じる孤独も、俳句やら短歌に結晶するんだろうな。

しかし、古典の教養もなく、歌心もないので、そういう境地にもなれず、なんだかうだうだしているのだった。

こういう朝は、豆を挽いて珈琲をいれると、あのひきたての香りが少し傾斜を「幸せ」の方に戻してくれるのだが、ゆうべちょっと打ち上げで飲みすぎてしまって、胃がもたついているので、珈琲を飲む気になれない。

だいたい、久しぶりに飲んだりするから、よけいに翌朝どよんとしてしまうんだ。そこにもってきて、やっぱりベケットはすごいのである。ベケットは観念的だと思っていたが実は違うのだなあ。やはりベケットは自分の血肉になるまで人間存在とはなにかを考えた人だったんだろう。そういう時、きっとベケットは憂鬱な気分になっていたに違いない。

私も、来ないゴドーを、待っているんだよな……と思う。
だから、月が替わると、ああ、やっぱりとうとう来なかったと思うんだろう。
そして、また待ち始める。
なにかがやってくるのを。
by flammableskirt | 2014-03-01 10:50