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田淵睦深写真展 「空気」
〜12月2に日まで/吉祥寺ベースカフェにて

「つつましく美しいもの」

古い友人である田淵陸深さんの写真展を観てきた。
わたしは彼女といっしょにいろんな場所を旅してきて、彼女がつかまえようとしているものがなんとなくわかる。たぶん、彼女はこの空気のなかに満ちている〈ひかりの粒子〉のようななにかが見えるのだ。
ときどき「ちいさくて、ぴかぴかしたものが、動き回っているのが見えるんです」と言って目を細めていた。じつは、わたしにもそれが見える。晴れた日はとくに、とても小さな光のつぶつぶが震えて飛び回っている。ずっと目の錯覚だと思ってきたし、たぶん目の錯覚だろうと思っている。でも、彼女が「見える」と言うので、ああそうかこの人はわたしと同じ錯覚が見えるんだ……とうれしくなった。

おしなべて、わたしと彼女はとてもとるにたらないものが好きだ。なにもないことが好きだ。なにもなくとるにたらない……それはまさに空気だけれど、このとるにたらないものがないとわたしたちは生きていけない。
空気はタダである。すばらしい。空気は空気がない場所に……たとえばスキューバダイビングで海に潜ったような時にだけ意識されるけれど、ほとんど意識されない。でもこの空気があるから、音楽や、小鳥の鳴き声も聞こえるし、走ったり、笑ったり、愛を語ったりするためのエネルギーも作れるし、美しい光、虹の色も見ることができる。

なにもないけれども、でもそこにあり、不思議な光にみちていて、世界を伝えてくれるもの……それが、空気。
彼女はいつも空気のなかのいのちの気配を感じ取り、それをあまりに愛おしく思うのでなんとか写真に表現しようとしてもがいている。
その営みは、写真に撮って自分の作品にしてやろう……というエゴというよりも、この、目に見えず、意識もされず、それでもわたしたちをみたしている優しさ、美しさへの感謝……祈りのように思う。
ありがとうございます、ありがとうございます。
そう呟きながら、彼女はシャッターを切っているんじゃないかな。
だから、彼女の写真もまたつつましく、とても謙虚だ。
でも、つつましく謙虚であることにかけて抜きんでている。それは弱さという個性であり、わたしは彼女にこのつつましさを極限までつきつめてもらいたいと思っているのだ。
押しつけがましさはみじんもない。だから、彼女の写真は少し弱っている人、辛い人を包み込む包帯のようだと思う。

個展のオープニング、たくさんの人がつめかけた会場のなかで、彼女の写真たちはあまりにつつましく謙虚で、存在を消して、風景と一体化していた。だから誰も写真についてはあまり語らず、おいしい料理の話題で場は盛り上がっていた。そんななかで彼女は主役であるのに、りんごの皮を剥き、友人たちに気づかってせわしなく働いていた。挨拶もなく、称賛もなく、ふわっとした和気あいあいとした空気が場を占めていた。

翌々日、ひっそりとしたギャラリーに再び出かけて、ほうじ茶を飲みながらじっと写真たちと向き合ったとき、やっと彼女の写真たちはそれぞれの淡い光を投げ返してきた。なにもない空のなんという暖かさ。なにもないことの、自由さよ。そこにとらえられた見えない空気は愛しくせつなく、このようなつつましい祈りこそが、わたしたちの日々の生活をそっと支えてくれているのだと感じた。

なにもない……ということの、なんという安らぎだろう。
わたしたちの日常にはなにかが多すぎるかもしれない。

透けるような紙にプリントされた写真たちは窓とひとつになり、外の光を通してその色合いを刻々と変化させる。移ろい変化する写真たち。それをじっと見つめるには、人はあまりに忙しすぎるのかもしれない。
自然であることに限りなくこだわる彼女の意図は、足早に通り過ぎる人には理解されないかもしれないが、それでも、空気を撮り続けてほしいと願う。
 
 12月2日〈日〉まで、吉祥寺のベースカフェで開催しています。
 このカフェのお茶もランチもとてもおいしいです。
 ゆったりした時間を過ごすにはとてもよい場所です。

詳しくはこちらをご覧下さい。
 http://www.organic-base.com/topic/exh04/

写真はオープニング・パーティで大評判だったベースカフェのマクロビ料理。
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by flammableskirt | 2012-11-22 22:06
16日、東大駒場キャンパス「人間の安全保障プログラム」にて、友人である小林麻里さんのお話を聞きに行った。麻里さんは「福島、飯舘 世界はそれでも美しい 原爆避難の悲しみを生きて」(明石書店)の著者で、私の新刊「サンカーラ」にも実名で登場している。

福島第一原発の事故当時、福島県飯舘村に住んでいた麻里さんは、事故後に放射能量の高い自宅を離れた。いまも避難民として築三十年の一軒家を間借りし、薪風呂をたいて生活しているという。事故から現在までを振り返りつつ、社会に溢れる意見と自分の心情のズレについて、とまどいとも、怒りとも、悲しみともつかない複雑な胸中を語った。「この世界で生きるってどういうこと? 福島以外の人たちは救われているのか?」という彼女の問いは、とても深い。

彼女の問いは、福島原発のような事故がこれからも起るかもしれないから原発は止めるべき……、という発想そのものを問いかける。

たぶん……、核の問題は「ヒロシマへの原爆投下」から始まり、アーサー・ケストラーが「ヒロシマを0年に」と言ったように、すでに「ヒロシマ・アフター」を全世界が生きている、という発想に立たない限り、誰かを被害者と加害者に振り分けることで、対処療法的に安心し、問題を先送りしていくだけなのだと(私は)思う。

ヒロシマ以降、世界はずっと被曝し続けているのであり、地球という生態系に生きている生きものすべてが被曝しているのであり、この事態を引き起こしているのは、人間の裡にある暴力性であることは疑う余地がない。

生きものを殺して食べることによって生命維持をしていく……という動物としての肉体をもちながら、意識をもってしまった人間が、殺す……という行為を「処理」とか「処分」と言葉でいかに言い換えようと、殺すという性から逃れることができず、潜在的な暴力性を持ち続けなければいけないことは、宿業なのだろう。それにともなう原罪意識からも逃れることは難しい。

菜食主義はこの「殺す」という暴力性からなんとか逃れようという人間の試みであるかもしれない。だが、誰かが肉を食べなくても、肉を食べずば生きられない人々がいるのなら、食べるということの業はすべての人類によって共有されるしかないだろう。私が食べなければ人間全体が食べないことにはならない……。私は個であると同時に種の一部でもあるのだ……。その意味において私だけが赦されるものはないのである。

日本人がいかに原罪意識をもち続けていたかは、いたるところに存在する「供養地蔵」が示している。ありとあらゆるものを供養するのは、供養を通して罪を赦されるため……。手を合せるとき「殺生をしてしまう自分」を深く自覚していたはずだ。その自覚が薄れているのは、罪が薄れているからではなく、罪から目をそらしているからであり、暴力性は自覚されないだけで心のなかに存在し続けている。ここでいう暴力とは人を殴るとか、物を奪うとか、そういうことだけではなく「力による秩序の獲得」を言っている。平和のため、平安のため、安全のために力を行使することも指している。

麻里さんは、かつて住んでいた飯舘村の家と森を、もう一人では手入れをして維持することが不可能となり「人が入ることのできない自然に戻っていってしまった。森の神様に、お返ししますと手を合せてる」と語った。

そして「私の家の周りは除染してほしくない……」と。でも、彼女は除染を拒む理由はふつうの人が理解できるような言葉で語れない。
麻里さんにとって、大地を除染し表土を削り取ることは、自然に対する人間の暴力であり、その暴力性が深い地下水脈で原発へと繋がっていることを、直感しているのだと思う。

優れた直感力をもつ麻里さんは、自身の裡なる暴力性に目覚めている。自然から奪い取り、自然のカオスに手を入れて森をひらき家を立てて田を耕す自分の力の行使を自覚している。この自覚だけが人を祈りへと向けさせるのだと思う。この自覚なき祈りは……存在しない。

だから、麻里さんは「私は被災者であっても被害者ではない」……と、主張する。災いは、暴力ではないから……。「被害者」とは力を行使された人である。だが、彼女には今起こっている現実が、誰か特定の個人が力を行使したものとは思えないのだ。彼女は「自分たちが自然に対して力を行使した結果」として現実を受け止めている。だから被害者であろうとしないのだ。

だが、そんな麻里さんの心情はとうてい理解されない。解き難いねじれは世界がヒロシマに落とされた原子爆弾という暴力の行使に口を閉じてしまったことから始まっている。核は人間の内部の暴力性が外に投影拡大されたものと認識すべきだった。

2001年のテロ後、アメリカを批判し、いまも批判し続けている知識人の一人、ノーム・チョムスキーは「9.11が起きた時、私はインドで世界最古の詩を読んでいました。そこには現実と同じことが書かれていました」と語っていた。チョムスキーが読んでいた「リグ・ヴェーダ」には、森を破壊し水の支配を暴力で獲得した神を讃える歌がある。それによって秩序ある安定した世界が誕生したことを記す物語だ。奇しくも、核実験を指揮した物理学者オッペンハイマーも、核爆発を見てヴェーダの一節を口ずさんだ……。それは何を意味するのか?

世界に秩序を打ち立てるのは、人間だけだ。人間はその場所その時代に応じた倫理観によって秩序を作ろうとする。秩序以前のものは無秩序とされる。自分たちの秩序から外れるものは無秩序なのだ。無秩序な状態を秩序に変えるために力が行使される。北朝鮮の現状は私たちから見れば無秩序である。資本主義国は社会主義国を無秩序と思うので、力によって秩序化しようとするし、逆もまたしかり。戦前、日本は中国に、朝鮮半島に、力でもって秩序をあたえんとした。アメリカもまた、無秩序な日本に民主主義という秩序を、力でもって与えた。それによって生まれた戦争のない平安の六十数年のなかで私は育ったのだ……。ヴェーダが示した「暗示」は何千年もの時を超えて私たちと共にある。平成という年号の裏側にも双子のように隠れている。

「生きるだけで精いっぱいで、他のことはなにもできない……」と語る麻里さんは、絶望しているのだろうか。生きることに没頭することが生の充実と言うのではないか。生きる以外に優先すべきことがあるとしたらなんだろう。福島に暮らす彼女は、セシウムがとりこまれているだろうマツタケがあまりに立派でおいしそうなので、皆で相談したあげくにマツタケご飯にして分け合って食べたという。「東京の人が聞いたら、だから東電や国が被害を過小評価するのだ、と怒るでしょうね」と言っていた。命を分け合い喰らう……という営みのなかに、うっすらと光が差している。情況を受け入れると決めた人々はぐっと肝を支える足腰の強さがある。でも、その価値観は多くの都会人にとって無秩序に見えてしまう。

復興計画に盛り込まれた項目は、お金、除染、メガソーラー……。復興とはなにか? それでほんとうに魂は救われるのか……。だが、魂の問題は倫理の対立のなかにあっけなく霧散する。なぜなら、魂は語られることを拒むから。魂は語れないから。この国のシステムに組み込まれた言語では語りえないものだから。

狂牛病で、鳥インフルエンザで、放射能汚染で、多くの家畜が処分された。だがもう慣れてしまっていないだろうか。その慣れがつくる歪な形こそ「いま」であり、いまここの延長にある未来である。

麻里さんが言う。「福島の鶏が汚染された、牛が汚染された……という。処分しろという。食料としてしか見ていない。生きものなのに……と思う」
生きものを食料としてしか見れない人間のおぞましさを、彼女は感じとる。ペットを食べないのは食料ではないからだ。ペットが存在することはペットではない動物が存在してしまうことと対なのだ。ペットの影にはどんな動物が隠れているのだろう。もはや動物ですらないのかもしれない。肉の塊……食料として消費される。

おぞましさは私の姿でもある……。麻痺していると思う。もはや己の暴力性を見つめることも難しい……。でも、気づき始めた人もいるのだ。それはまだ直感でしかないかもしれない。そして、直感を信じることは苦しいかもしれない。周りとあまりに違うから……。「頭がおかしくなりそう……」と彼女はいつも言う。そうだろうと思う。

麻里ちゃん、がんばれ……。 あなたにだけ見えている世界を、どうかことばで伝えてください。それはほんとうに、ほんとうに、とてもたいせつなしごとなんだよ。

福島、飯舘 それでも世界は美しい

小林 麻里 / 明石書店


サンカーラ: この世の断片をたぐり寄せて

田口 ランディ / 新潮社

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ: 原子力を受け入れた日本 (ちくまプリマー新書)

田口 ランディ / 筑摩書房


by flammableskirt | 2012-11-17 14:17
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11月24日(土)新宿でトークをします。
超ライブ&トーク
宇宙のマントラ
■日時
2012年11月24日(土)
開場:15:30 開演:16:00
■場所
経王寺本堂(東京都新宿区原町1-14)

都営大江戸線 牛込柳町 東口駅前
アクセス詳細はこちら
■料金
前売 3000円 (当日 3500円)
■出演
第1部 田口ランディ・トーク「宇宙のマントラ シャーマンの世界」
第2部 サラウンド GODAI GOKAN ライブ
出演:上畑正和(ピアノ・足踏みオルガン、作曲、サラウンド制作)
   巻上公一(ヴォイスパフォーマンス・口琴・テルミンほか)
   鈴木生子(クラリネット・バスクラリネット)
   互井観章(お経・声明)
ゲスト:立岩潤三(パーカッション)


11月24日(土)、久しぶりに新宿の経王寺でお話をします。
私はコンサートの前座のようなものなのですが、なにしろ仲良しの巻上公一さんと、いつも朗読のピアノを即興で演奏してくれる上畑正和さんのコラボ、しかも場所が昨年の東京慰霊祭の会場でもあった新宿の経王寺……ですから気合いも入ろうというものです。
ピアノ、ヴォイスパフォーマンス、口琴、クラリネット、さらに声明……がいったいこの組み合わせがサラウンドでどんな演奏になるのか、あのスーパーヴォイスパフォーマー!巻上公一さんがやって来るので、面白いに決まっているのですが、それにしたってあまりにハイブリットでドキドキします。な、何が起ってしまうんでしょうねえ!

この日の私のトークは、「シャーマニズム」についてです。

アルタイのシャーマンを現代の日本に連れて来ても、たぶんシャーマンはその力を発揮できません。
シャーマニズムは世界認識の一つの方法です。
それは「限定された法(世界ルール)」のなかでの認識方法であり、
認識方法を知るためには「限定された法」について知る必要があります。

どんな「法(構造)」の世界で認識された方法論であるのか。
チェスの盤の上で将棋をするようなことをしては、チェスの面白さがわかりません。
また、いくら駒の動きを目で追ってもチェスのルールがわからなければ駒のもつ意味がわかりません。
私たちの法の上で、いくら駒を追ってもシャーマニズムという世界認識には至れないのです。

じゃあ、いったい古代のシャーマンたちは、どんなふうに世界を認識していたんでしょうか?
それもまた、年代や環境によって微妙に違うのです。
でも、シャーマンが風、火、土、水、そして気(生命エネルギー)を扱っていたことは確かです。私たちが認識している自然と彼らの自然とどう違うのか……そんなお話をしてみます。

そして、お話の後は超サラウンド演奏で「風、火、水、土、気」宇宙のマントラをトランス体験……できたらいいですね。きっと出来ますよ!

では、24日にお会いしましょう。


■申込/問合せ
東京都新宿区原町1-14
経王寺
tel:(03)3341-1314
fax:(03)3359-9907
mail: tagai@kyoouji.gr.jp
by flammableskirt | 2012-11-15 15:21

Hiroh Kikai: Asakusa Portraits

Hiroh Kikai / Steidl



「鏡の国への鏡」
田口ランディ

 父がまだ生きていたころ、私は父とよく浅草に行った。
 その当時、父は茨城の実家に住んでおり、神奈川のはずれに住む私は孫を連れて父と一緒に浅草のホテルに泊り、浅草寺の辺りのもんじゃ焼の店などで三人でご飯を食べて別れた。なぜか父は、浅草にくると穏やかになり、顔を和らげるのだった。若い頃からずっと、遠洋マグロ漁船の乗組員をしてきた父にとって、浅草は「自分と同じ匂いのする人々」のいる町であり、ここで出会う人びととは旧知のように言葉を交わしていたものだ。
 私は父の生きがたさを知っているゆえに、あえて夫のいる自宅には呼ばず、まだ幼かった娘を連れて父と浅草で会ったのだ。そして花屋敷に行き娘を遊ばせた。父は缶チューハイを片手にほろ酔いで孫が遊ぶ様子を眺めていた。それからゆっさゆっさと肩で風を切るように歩き、てんぷら屋などに入って、少ない年金を大盤振る舞いして私たちにごちそうしてくれた。浅草という町にいるときの父の姿が私は好きだったので、この写真集をもらった時も、まず心に浮かんできたのはアルコール依存症で死んでいった父の、在りし日の笑顔だった。
 そんなことを思いながら、この写真集のページをめくっていると、そこには、父と同じ匂いのする人たちがいた。たぶん、父と同じ時代を生きてきたのであろう男たち、女たちがいた。まさに私の父であり母であった。また父の親戚であり、母の親戚であった。
 戦後の苦しい時代を生き抜いてきた人々……という陳腐な言葉は、このポートレイトの前で呟くとあまりに空疎だ。他者の存在をたった一つのありきたりな単語で表現しようとすることの暴力性の前に沈黙するしかない。人生とは……豪華絢爛なのだ。人生の質をはかるどのような尺度もないし、どのような単位もない。ただ、命とは溢れ満たし尽くす豊穰なのだ。そう思う。
 人は誰も生きたように老いる。一瞬一瞬の時が、感情という小刀で生身の肉体を刻んでいく。老いとは我が身としての肉体の創造であり、身体をもっているというだけで、人はどうしようもなく、激しく、自己表現してしまうのだ。ただ……、私は私の肉体を見ることができない。もちろん、鏡を見れば私はそこに映っているが……私が私としての意味を読むことは困難だ。
 鬼海さんという写真家は、彼らの姿からなにかしらのコードを読み取っている。読み取るとは、呼び出すことであり、同時に新たな意味を与えることだ。鬼海さんに撮られたことで、写真の人々の命の豊穰がむせかえる匂いとともに立ち上がり、まことに見事に花開いているのである。それは奇蹟のごとく美しい開花の瞬間であり、私もまた、ページを括り、彼らのポートレイトを見ることによって、敏感で弱い部分に触れられ、それぞれの被写体の人生の豊穰を読み取り、私という内部に花開かせているのだと感じた。それは、まぎれもなく出会いである。命と出会ってしまいっているから、このポートレイトを前にして泪が語るのだろう。
 鬼海弘雄さんという写真家が、人間という暗号を読むその確かな直感は、ただありのままを写しとる写真という技法を通して、見える姿の背後にある見えない特殊な情報を伝えてしまうのだ。それはデータ換算することが不可能な「命の豊穰」である。それを小説で表現しようとしたら、何千ページを費やしても難しいかもしれない。いや、あるいは才能ある詩人なら数行の隠喩で表現してしまうのだろうか……。
 ポートレイトの目が、じっと私を見ている。一つひとつの目と目を合せながら、ゆっくりとページをめくる。それは、不思議な時間。あえて言葉にせず、目をそらさずにじっと感覚だけを味わう……。すると、だんだんわたしがだれであったのか、わからなくなってくる。私は写真の外にいるのか、裡にいるのか、わからなくなってくる。あなたとわたしの境が消えていくときに立ち現れるのは、犬のぬくもりのような懐かしさだった。
この写真集は、そういう。鏡の国への鏡のような、写真集である。
by flammableskirt | 2012-11-09 13:52
多くの読者に惜しまれつつも、休刊していた雑誌「風の旅人」が復刊します。
知る人ぞ知る、という有名な写真誌でした。独創的で、写真に対して絶対に妥協しない雑誌です。
広告は記事広告のみ。広告写真というものがなく、掲載作品のクオリティは極めて高く、たくさんの新人を発掘し、この雑誌以外では触れることのできない写真家たちの作品に、毎号わくわくしていました。
十二月に復刊ということで、今から心待ちにしています。
私も執筆者として復刊号に参加することになりました。

これから「風の旅人」はオンライン販売のみになります。
本屋さんでは買うことができません。
以下のサイトで注文することができます。
詳細・オンラインショップ→www.kazetabi.jp
「風の旅人」に興味のある方は、ぜひ一度公式サイトをのぞいてみてくださいね。
写真表現の力に圧倒され、心震えることでしょう。

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by flammableskirt | 2012-11-01 16:09