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作家 田口ランディの新刊・イベント情報・近況をお知らせします。 


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日本エネルギー会議というイベントに出席した。どちらかといえば原発運用に肯定的な経産省出身の方とお話する機会を得て、改めて官僚、あるいは官僚を経験した人たちが、いかにこちらの質問を自分の都合のよいようにすりかえて答えるのが得意なのかを痛感した……。とはいえ、それを悪気があってなさっているともあまり思えず、どちらかといえば環境の中で適応した能力、そのような習い性になっていると感じた。人間は生きるために環境に適応するものだから、環境そのものが変わらなければ、よほどの独自性をもってしてもいつしか適応していくものなのだと思う。それは自戒もこめて……。では経産省という環境はどうしたら変えられるのか。私にはわからない。とりあえず、もうすぐ8月であるし、若い方には私の本を読んでほしいと思う。この本は原爆を落とされ核アレルギーだった日本が、戦後なぜ、どのような経緯で原発を導入したかが、中学生にわかるように書いてある。ただ、戦後の通産省が帝国陸軍の流れをくむ非常にトップダウン的でしかも過激なまでに国益優先の組織だったことは、本書では触れられなかった。いろいろと書き足りないことはあるけれど、歴史を知ることは物事の理解にとても役立つと思っている。核兵器製造までの科学史や、資本主義、社会主義が生まれるまでの経済史にもわかりやすく触れている。ここに書かれてあるのは基本的なことだが、案外と知られていないことだ。だから、あまり得意ではない新書を書いて。いままで誰もわかりやすく歴史的な経緯を書いてくれていなかったからだ。自分が知りたかったことだから勉強し、そして、誰にでもわかるように書いた。中学生、高校生にはとくに、読んでほしいと願っている。

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ: 原子力を受け入れた日本 (ちくまプリマー新書)

田口 ランディ / 筑摩書房


by flammableskirt | 2012-07-30 13:45
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8月9日、長崎の原爆で亡くなった方たちに音楽を捧げたい!
長崎の若い方たちが中心になって作ってきた水辺の森音楽祭が今年も開催されます。
この音楽祭は、ただ、音楽を捧げるためだけに集まったミュージシャンが、ひたすら演奏する……という、とても不思議な音楽祭です。入場は無料です。出演料も交通費も出ません。エントリーした音楽家のみなさんの歌や演奏を天に届けるための音楽祭です。集客を度外視した音楽祭ってあるでしょうか?
でも、それなのに……いえ、だからこそでしょうか。
昨年はほんとうにたくさんの方たちが水辺の森に集い、ただ、歌を歌い、踊り、演奏しました。素晴らしい音楽祭になりました。また、今年もみなさんに会えることを心から楽しみにしています。
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くわしくはコチラ。
水辺の森音楽祭1012ホームページ

今年は南相馬市からホームステイにやって来る小学生たちといっしょに、水辺の森に参加します。
一緒に「ふるさと」を歌うよ〜!たぶん5時30分頃から。
よかったらいっしょに歌ってくださいね。
by flammableskirt | 2012-07-30 13:21
8/14(火)
古事記ナイト〜『古事記』が語る古代人の言霊〜 
気鋭の国文学者・松田浩さんに古事記における古代人の言霊を語っていただきます。題して「古事記ナイト」!8月14日火曜日夜です。(松田さんのお話、あまりに面白いので一人で聞くのがもったいなくなって、六次元さんにお願いしてトークイベントにしてもらったんですよ)スサノオとアマテラスの全く新しい解釈!古事記にみる古代日本語の思想世界など、いろいろお話してもらいます。

8/14(火)古事記ナイト〜『古事記』が語る古代人の言霊〜 
出演:田口ランディ× 松田浩 
時間:19:00開場 19:30スタート
場所:荻窪 六次元
参加費:1500円(お茶付き)
予約:件名を「古事記ナイト」とし、お名前、参加人数、お電話番号を明記の上、rokujigen_ogikubo@yahoo.co.jp まで。


『古事記』には、見えない世界を「ことば」で捉え、世界に秩序を作り出していく古代人の言語思想がこめられている。古代人の言霊とは?いま最も先鋭的な古事記論を語ります。
地図http://www.6jigen.com/map.html
by flammableskirt | 2012-07-28 17:00
  言葉はある呪力のようなものをもっている。過去も、今も言葉を操る者が人を征し、国を征してきた。
 どんな言葉と接しているか、どんな言葉を使っているかという「言葉環境」はその人の心や考え方にとても影響を与える。人間は言葉で洗脳される。そのことを思えば、言葉によって自分が作られていると言ってもいいくらいだ。
 たとえば「いじめの問題」という言葉。この言葉にも呪術的な要素がある。「……の問題」と言った時には、問題視する、という行動パターンとそれに伴った、問題は解決できるという思考パターンに人を落とし込んでしまう。
 だから「いじめ」は「問題」として扱われ、あたかも試験問題のように「解決」が叫ばれて久しいし、「解決策」が国語の試験問題を解くように模索されてきたのだと思う。
 また「他者に快感をもって無自覚に加えられる精神的、肉体的な虐待」を「いじめ」と名詞化することで、たとえば「幼女に対する性的な虐待」を「いたずら」として名詞化したように、事の本質を「犯罪未満」としてしまう傾向があるように思う。これも「言葉の呪術」だと思える。
 「いじめ」や「(幼児に対する)いたずら」という言葉は、もともと加害者の側に立った言葉であり、虐待する側には「悪いことをしている」という意識が希薄だからエスカレートしてしまう。
 でも、たぶん多くの人にとって「快感をともなった他者への虐待」というストレートな表現がどこか「痛い」ので、このようなボヤけた(甘っちょろい)名詞が選択され使用されているのだろう。多くの人とは誰かと言えば「潜在的にそれをしそうな人、あるいはかつてしたことがある人」ではないかと私は思うし、他人事ではなく、環境さえ与えられれば誰でも(私も)虐待者になる(可能性が十分ある)ことは、過去の様々な心理実験や歴史が証明している。
 人は自分が加害者側であることへの「怖れ」があり、その背後には「罪悪感」があるように思う。その罪悪感に自覚的な人は「自分の暴力性」をコントロールできるけれど、無自覚な人は「罪悪感」と「怖れ」だけを無意識的に感じるために、避けよう、見ないようにしようという思いが働く。すると「いじめ」とか「いたずら」という、ぼんやりした言葉が全体の総意として浮上することになる。
 いま、社会に起きている様々な出来事は「いじめ問題」「原発問題」というように、入試の問題集のタイトルのようになっており、あたかも「解答」があるかのように「固定」されてしまっていることは本当に注目すべきことだ。人間は、言葉で思考するため、言葉によって自分の世界を構築している。それゆえ言葉によって操作されやすい。「いじめ問題」とした瞬間から、もう「問題と解決」という、ある呪縛につかまってしまう、……つまり洗脳されていると同じなんだと思う。
 そして、この「問題と解決」というわかりやすいものの考え方から一歩も出ることができなくなり、「いじめ問題」という問題集の問題を皆がネット上に出題して「答えを探しなさい」とどこかの誰かに言っているのだ。
 たまに別の次元から誰かが発言しても「では問題の答えはどこにあるのか?あなたは問題を問題としてとらえていない。それでは話にならない」あるいは「ではあなたはいじめの問題をほっておいてもいいと思うのか?」というような議論になってしまう。「
 「原発問題」でも同じで、「原発問題」という問題集の例題を、実にたくさんの人が出題し、同時にその問題に答えるべく、実に多くの人が解答を出そうとしているが、問題と解決という、わかりやい入試的な構造でしか物事が見られていないのだった。
 これは、日本の教育というものがとても長い年月をかけて作りあげてきた「入試制度」と「試験勉強」というものの弊害であることを「問題」とする人達が過去にも、今もたくさんいるので、たぶんそうなのかもしれない。
 ただ、入試や教育の有り方だけでは、ここまで蔓延しないのではないかと私は思う。
 この「問題集的思考」が選択されているのは、この考え方で生きていれば、常に「問題を提起する側」におり、試験官的な全能感に酔っていればいいという利点がある。解答を他人まかせにして出題するほど楽なことはない。「いじめ問題」という問題集を作り、しかも解答は他人にまかせて、問題提起したことで自分の罪悪感からは逃れることができる……という一石二鳥の考え方なのだった。
 テレビの討論番組でも「それが問題なんですよね」「その問題をどうするかです」「この解決策が急がれますね」「解決に向けてがんばっていきます」ということで終るのである。
 でも、これもまた「教育問題」としてしまうと(笑)、「教育問題」という問題を解くための方法や、解答を求めることになってしまう。
 問題という言葉は本当に便利な言葉で、もうこの言葉の便利さにすっかりならされてしまい、この呪縛からなかなか抜けられていない(私自身、つい使ってしまう)。
 「問題」があって「答え」があり「解決できる」という、呪縛から一度、完全に抜けて物事を見てみることができるか。問題という言葉、解決あるいは方法という言葉を使わずに、事象を捉えてみると、少し、世界が変わって見える……かもしれない。
これは世界を自分がどうとらえるか……という「世界認識」のための提案であり、私の外の世界で起こったことに自分なりの考えや行動で関わっていくという、とてつもなくめんどうで、死ぬまで続く、気の長い方法=ライフスタイルの提案でもあるのだ。
「問題と解決」があると思うと、人間は外の世界だけを強制的にリセットしようとしがちだ。」いじめ」というかなり加害者寄りの潜在意識が創りだした身勝手な名詞を、「問題」とした瞬間から、言葉の呪術にはまっている。言葉とはそれほど恐ろしいものなのですよ……。
この言葉の呪縛を解き放つ人たちが……その時代時代で、詩人と呼ばれていたのだと思います。
by flammableskirt | 2012-07-24 10:17
毎年恒例となってきた「湯河原サマースクール」を今年も開催します。昨年は巻上公一さんの身体と声のワークショップや、絵画教室、田口ランディといっしょに即興紙芝居など盛りだくさんでした。今年も奥湯河原探検ハイキング、そして田口ランディといっしょの即興劇遊び、巻上公一さんのワークショップと、一泊二日を思いきり遊ぶ予定です。このサマースクールは湯河原の「一人ひとりの個性をだいじにする会・色えんぴつ」が主催しています。色えんぴつは発達障害をもつお子さんと親ごさん、町の人たちが一緒になって立ち上げた会で、いろいろな催しを企画しています。昨年も障害をもったお子さんが参加され、楽しい二日間を過ごして帰られました。ぜひ、夏の思いでづくりにご参加ください。興味のありそうなお友達にも教えてくださいね。このサマースクールは、湯河原町の宮上幼稚園のホールにみんなで「お泊まり」というキャンプ形式のサマースクールです。そのためたいへん費用がお安くなっています。ご参加お待ちしています。ボランティアをしてくださる方もご連絡ください。(費用はすべてが実費なので、一緒にお食事する場合はボランディアの方からもいただくことになりますのでご了承ください)


宮上幼稚園・1泊2日宿泊体験
大人と子供とみんないっしょにつながってみよう


一人ひとりの個性をだいじにする会
色えんぴつ主催
ゆがわらで1泊2日の第3回「サマースクール」
2012年8月18日〜19日
場所:宮上幼稚園
参加費:4,000円

布団代、食事代、入浴料、保険料込
3,500円(お布団不要の方)
●サマースクール対象年齢
5才〜小学校6年生とその保護者


● 湯河原池峯ウオーキング、そして温泉入浴
 池峯の湿地帯までウオーキング蛙や小鳥の鳴き声が気持ちいい
 ウオーキングの後は、こごめの湯で温泉入浴
● 夜は田口ランディさんの朗読でなかなか眠れません
 ラップのお兄ちゃんとコラボしてスリリングな夜を
● 翌朝は早起きをして川沿い散歩・朝食
 早朝の千歳川を歩きましょう
 朝食はおむすびとおみそ汁
● 午前はみんなでワークショップ
 好評の巻上公一さんのヴォイスワークショップ
● 昼食は誠先生特製焼きそば
 お昼のお腹は焼きそばで満腹

スケジュール

18日 12:45集合
13:00 ウオーキング・池峯
16:00 温泉
18:00 夕食
19:00 ワークショップ・朗読
21:00 就寝

19日 6:30起床
 6:30 千歳川散歩
 8:00 朝ご飯
10:00 ワークショップ
12:00 昼食 解散

●持ち物
タオルケット、まくら、パジャマ
おふろに必要なもの、翌日の服
洗面用具、クレヨンかクレパス
●ウオーキング用の持ち物
ウオーキングシューズ
長袖シャツ、長ズボン、水筒

●保護者同伴であればお友達の子供さんと
いっしょに参加していただくことが出来ます
(子供だけの参加は認められません)

●お申込はFAXで!
0465-62-9417
ファックスをお持ちでない方は
宮上幼稚園までお電話ください。
0465-62-3994(担当・井上

●申込記入事項
 代表者氏名、参加人数・氏名年齢
 住所、電話番号、FAX番号、
 ふとんの有 無・枚数
●申込受付締切8月10日

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by flammableskirt | 2012-07-12 12:47

ノウ、ノウ、ノウ。

週末、若い仲間たちに混じって能登半島の自然栽培塾に行ってきた。塾長の木村秋則さんと朝食をごいっしょして短い対話をした。そのとき寄生蜂が迷わず寄生する虫めがけて飛んでいけるのはなぜか……。自然には無駄がない、合理的だという話題になった。だから自然栽培は自然の理にかなった農法である……と。ただ、なんでも自然に従ってまかせておけばいいというわけではなく、時には自然の合理性を人間の都合のために利用せねばならない時もある……と。そのために必要なのは観察力である……のだけれど、これはまさに医療……健康管理にも言えることで、自然栽培の勉強をしていると、なぜか医学を学んでいるような不思議な錯覚に陥る。浦河べてるの家の向谷地さんや川村先生が「べてるは自然栽培と同じだ」と言っていた意味がよくわかるし、気功や、鍼灸などに携わっている方、舞踊や、演劇などとも通じ、根本的な部分で繋がっているように思えて不思議でしょうがない。そして、それは仏教とも通じている気がして、このぐるぐるな感じをどう表現すべきか……堂々巡りしながら楽しんでいる。原発やら、原爆の取材が多く、そのことばかり考えていたこの数週間だったけれども、ポンっと頭が切り替わって気持ちが晴れた。そして、能と脳と農はなぜみんな「ノウ」なんだろう? なんてことを考え出した。以前に「なぜ能はノウなのか?」と梅原猛先生に質問して呆れられたのだが、なぜ脳はノウなのか……。そもそもこの「ノウ」とはどういう意味をもつ音なのだろう……。なんてことを朝から考えておるのだった。考えてわかるものではないのだが(笑)
by flammableskirt | 2012-07-09 11:07

やっぱ、愛だよね。


このあいだ、あるイベントでとてもよいお話を聞いた。
「3.11のとき、私は喫茶店でナポリタンを食べていた。ウエイトレスは不機嫌で感じが悪かったし、だるい感じの若いカップルがパフェを食べていた。他にもいろんな客がいた。でも、地震が起きた瞬間、その場に不思議な連帯意識が生まれ、ウエイトレスは具合の悪い人を気遣い、だるい感じの男女もしゃきっとして他者のために働いた。みなが、他者のために懸命になる瞬間を目撃して、ああ、それぞれのなかにこういう可能性があるんだ……と幸せな気持ちになった」
 かなり言葉を省略し、脚色してしまっているけれど、おおむねこんな感じのお話だった。突然の大地震、その時、その場にいた、一見やる気のないダラダラした感じを受けた若いカップルが「大丈夫ですか?」と年配者を気づかっていたという。
 そのお話を聞きながら、情景が目に浮かんだ。
 かなりの揺れ、非日常的出来事が起こったとき、一瞬「自分」というものが削げ落ちるのかもしれない。何万年ものあいだ人間は集団で狩りをして暮らしてきて、とても弱かった。外敵から身を守るためには「集団で生き残る」ことが必要で、だから全体のために動く……という行動形式は本当は私たちのなかに眠っているはずだ。
 でも……と思う。危機が去ってからはどうなんだろう。しばらく安定が続き身の危険が遠のけば、けっきょくは資本主義社会の中で育った自我が幅をきかせて、まずは自分のこと、余裕があれば他人のこと……、という風になっていくのではないか。我が身を振り返れば「損をしない程度に他人には親切」というのが私の日常的な生活姿勢である。自分が不利益を被るのは憤慨なのである。ケーキを分けたら小さいのがあたった……というくらいなら余裕をかましていられる。そもそも甘いものが苦手だ。だが、もっと大きな不利益だったら「くそっ!」と思う。
 地球規模の環境汚染、原子力の問題……。人類というかなりデカい規模で人間に迫ってきた「危険」は、無視できない深刻さになっている。だとすれば、人間は大昔の人たちのように「共同で生き残る」という知恵を発揮しなければならない。でも、あまりに規模のでかい危機だし、地球という規模の人類的な共同など、人類史上経験もなく、まったく新しいチャレンジであり、そのためにインターネットは発達したのか……これは必然なのかとも思う。
 一瞬の危機に対応するためなら先祖返りもできるけれど、これが日常的にずっと……となったらどうだろうか。生活としての非暴力、生活としての節約、生活としての分かち合い。それを、自分の文化として受け入れ育て、あたりまえのこととして自然になるよう身につけるための努力。
 どこからともなく「人のものは俺のもの」という人々が現われて、なにもかも略奪していったら、ぼう然とそれを見て「それでも私は戦わない」と言うことができるんだろうか。
 そうならないために、かつて明治維新が起こり、西洋の列強と肩を並べようとした私たちの祖先。思えば、農業の衰退、中央に権力が集まる社会、みな明治維新に端を発する。それが良い悪いではなく歴史的必然だった……。いま、私の生きているこのいまこの瞬間にも歴史的必然として世界は動いている。そのただ中にあって、私ができることは、自分の攻撃的な性格や損得勘定の悪い癖をていねいに変えていく以外にあるんだろうか……。それをすれば損をすることがわかっていても、私自身をまず変える。ということができるんだろうか。
 デモに行かない私が、できる革命……。しかし、それは誰にもわからないし、誰も褒めてもくれない……。そんなとき、神様を信じたくなる。私を変えるために……、私といつも共にあり見ていてくれる人が必要になる。「やっぱ、愛だよね」と励ましてくれるなにかの支えが……ほしくなる。ここ数年、私がブッダという人に強く惹かれているのも、そのせいかもしれない。


 
by flammableskirt | 2012-07-03 09:00
「神様わたしは自分がなにをしたらいいのかわかりません」
と、皿洗いの若者が言いました。
すると神様が言いました。
「なにをしたらいいか考える必要はない。それはすでに与えてある」
「え、でも私にはなにかやるべきことがあるんじゃないでしょうか?」
「やるべきことはすべて目の前にあることだ。目の前にあることを真剣にやればいい」
「目の前には汚れた皿しかありません」
「それなら、それがおまえのやるべきことだよ。皿をていねいに洗いなさい」
この神様はいんちきだと若者は思いました。神様なら天命を与えてくれるはずです。
若者は就職情報誌を買って職探しをしました。
「どこかにやるべきことがあって、いつかそれが見つかる」
そう思って職を転々としました。でもなかなか自分がなにをしたらいいのかわかりませんでした。
やるべきことを探しているうちにずいぶん時間が経ってしまいました。
そしていつしか年をとって、病気になり、死が目前になりました。
「とうとうやるべきことが見つからなかったな……」
とかつて若者だった老人は思いました。
すると神様が来て言いました。
「やるべきことはすでに与えてある。目の前のものを見よ」
目を開けると家族がいて、老人の顔をのぞきこんでいました。
老人は、家族にむかってせいいっぱい、にっこりと微笑みました。
そして満足して、次の世界へ旅立ちました。
by flammableskirt | 2012-07-02 14:24