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作家 田口ランディの新刊・イベント情報・近況をお知らせします。 


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朗読は「演技しない」「セリフを覚えない」「テキストを読まねばならない」という不自由さゆえに、限りなく自由な表現手段である。だから大好きだ。口伝でしか伝えられないパッションが小説にもある。
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音楽実験室「新世界」

「月子と私」
 --ある情事の終わり、あるいは始まり--



今回の朗読会は田口ランディの短編集のなかから、とりわけエロティックな恋愛小説を選びました。大人の男女のせつない性愛の物語です。かなりきわどい性描写のある小説をどのように読みこなすか。朗読者にとっても観客のみなさんにとってもスリリングな朗読会となることと思います。朗読者は映画監督であり、個性派俳優としても活躍している利重剛さん、原作者の田口ランディ。音楽は映画音楽でおなじみの大友良英さん(現在、FUKUSHIMAプロジェクトで奮闘中)。映像協力として写真家のにのみやさをりさんが参加しています。
作品のラストは朗読者の即興となっており、情事の終わりなのかあるいは始まりなのかは当日の舞台まで誰にもわかりません。どのような展開になるのか、参加者全員が作る物語のラストシーンにご注目ください。終演後には三人によるフリートークもあり。


原作 田口ランディ
朗読 利重 剛(映画監督・俳優)
   田口ランディ(作家)
音楽 大友 良英(音楽家)
写真 にのみやさをり(写真家) 
(HPhttp://bit.ly/mZ7Y15

日時
2011年 9月26日(月)
19時開場 19時30分開演
22時終演(予定)
前売り3000円 当日3500円
(ドリンク代は別となります)
c0082534_1047508.jpg">予約はこちらから


※定員60名
※当日は混雑が予想されます。着席でゆっくりご覧になっていただきたいのでご予約をお願いします。


場所
音楽実験室「新世界」
地図 http://shinsekai9.jp/map/
〒106-0031
港区西麻布1-8-4 三保硝子B1
(最寄り駅:日比谷線六本木駅2番出口)
TEL:03-5772-6767
FAX:03-5772-6797

ACCESS:
都営大江戸線、地下鉄日比谷線「六本木駅」2番出口より、六本木通りを西麻布方面へ徒歩8分、六本木通り沿い
渋谷駅より、都営バス六本木方面「六本木六丁目」停留所下車、六本木通りを西麻布方面へ徒歩1分、六本木通り沿い


■出演者プロフィール

利重 剛(映画監督・俳優)
1962年、神奈川県生まれ。高校の時より自主制作映画に多く関わる。高校3年の時に、徴兵制を扱ったブラックコメディ『教訓Ⅰ』で、大島渚監督より絶賛を浴び、ぴあフィルムフェスティバルで上映される。 翌年、TBSドラマ「父母の誤算」の主演で俳優としてデビュー。また、岡本喜八監督『近頃なぜかチャールストン』では、主演・共同脚本・助監督もこなす。1989年『ZAZIE』を脚本・監督。以降、『エレファントソング』『BeRLiN』『クロエ』などを発表。クォーター・トーン所属。

大友 良英(ギタリスト/ターンテーブル奏者/作曲家/プロデューサー)
1959年、横浜市生まれ。小学3年から大学入学までを福島市で育つ。ノイズミュージックやフリージャズの分野で作品を発表する一方、様々なバンドでターンテーブルやギターを担当。映画音楽、テレビドラマなどの作曲も数多く手がける。自身のソロから企画性の高い各種ユニット、様々なプロデュースや即興での洋の東西を問わないコラボレーションまで、活動の幅は広い。近年は、音楽と美術の領域にまたがる新たな作品を次々に発表。2007年にはせんだいメディアテークでの「without records」、2008年には山口情報芸術センター(YCAM)での「ENSEMBLES」、さらに2010年には水戸芸術館でも個展。

田口ランディ(作家)
1959年 東京生まれ。今回のイベントをプロデュース。
吉祥寺でフリーターをしていた十代の頃に、まだ高校生だった利重剛さんと出会い、その才能にショックを受ける。今回、数十年を経て初めていっしょにパフォーマンスをすることに。また、大友良英さんとは、ネイキッドロフトでの飴屋法水さんを交えた「ダイアローグFYKUSHIMA」で共演。そのとき、大友さんの人柄にほれ込み、今回のイベントの出演を依頼した。ほぼ、同年代の男女三人によるエロティックな朗読パフォーマンス。秋の夜長の大人の時間を企画しました。

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by flammableskirt | 2011-09-24 19:49 | イベントのご案内
私が「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ 原子力を受け入れた日本」ちくまプリマー新書という本を出版したことの一つの理由は、ものごとを賛成と反対で割り切った時に失われるものについて、少しだけ補完したかったからです。
賛成か、反対か。
それを決めなければ先に進めない……という場面はたくさんあります。いまがまさにそうかもしれません。「いまこそ脱原発に向けてアクションを起すとき」という意見に対して、私は反論はありません。でも、私は「対立して多数決で決着をつける」という方法論の必要性は認めつつも「それでほんとうになにかが解決できるわけではない」ということを感じています。
そして「対立」によって「失われること」について書いてみたいと思ったのです。私は異なる意見というものは「それぞれに補完しあう関係」として受け止めます。そのように見ることをあえてしてみます。

脱原発のデモの行く人に対して、デモに行かないというスタンスをとる人は、デモに行くという行為と対立しているのではなく、デモに行くという行為によって削ぎ取られるある部分を補完している……と考えるのです。
このような考え方は「行動しなければ意味がない」と考える人には無意味だと思われることもあります。きっと私のような態度はいいかんで曖昧に映るのであろうし、それを優柔不断、言い逃れと言われても、そう見えるのであれば受け止めましょう。でも、年をとればとるほど、善悪をはっきりさせて態度を表明することに違和を感じもやもやとしてしまうのです。

私は「原子力」というものがエネルギーとして使用されることに兵器であろうと発電であろうと全く賛同しません。原子エネルギーの発見から利用までの経緯には、まともな議論がされていない。それは歴史上明らかなのです。常に国家間の政治闘争、イデオロギーの対立のために利用されてきた。その経緯は「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」にはっきりと書きました。

では、いま現実的な問題として「原発に賛成か反対か?」という議論になると、その問いの立て方に対して、少しだけ納得がいかなくなります。
「そんな事を言っている場合ではないだろう?」と言われることはわかります。でも、《問い》は大事なことなのです。《問い》とは常に《答え》を孕んでいるからです。
いま「原発に賛成か反対か?」という問いには、対立が孕まれています。対立とは相互運動なのです。問いの立て方自体を変えなければ、今後、状況が変われば答えが逆転するという、二項対立の最もありがちな構図、ただイエスとノーの間の反復運動が繰り返されるという惰性におちいることを危惧しています。
私がこの《問い》の《答え》として「反対です」とお答えすると、賛成する人との「原発のメリット・デメリットの議論」になっていきます。そこに落とし穴があることを予感るすのです。

よく意識を変える、価値観を変える……という言葉が使われますが、これはどういうことでしょうか。
「いまこそ意識を変えるとき、新しい選択をすべきとき」と頻繁に聴くようになりました。価値観を変える……ということは、それまでその価値によって成り立ってきた自分の世界観を捨てる、つまり、自分の世界を一度、崩壊させるということに他なりません。でも、さまざまな議論を見ていると、おおむね意識を変える……ということは向いておらず、せいぜい「がまんをする」と同義で使われているように思えてならないのです。
「原発のない世界でみんなで不自由をがまんして生きよう」ということを言われているのであり、意識はいまのままなのです。なので、原発に賛成か反対かの議論は「がまんできるか」「がまんできないか」の議論となることが多く、原発がなくなることにがまんできる人は、原発反対なのです。逆に、原発がなくなることのデメリットにがまんできない人は、反原発に対して反対なのです(ここで微妙なのは、反(脱)原発反対の人が原発推進とは限らないことです)。
 生命や子どもの安全という問題は、この「原発がなくてもがまんする生活」を正当化するために使われがちです。

「原発がなくてもがまんする」ことの正当な理由として「放射線による生命の危険」「自然破壊」などがあげられがちです。誰しも放射能は恐ろしいので、この理由は絶大な説得力をもっています。にもかかわらず「原発がないと困る」人たちを説得できないのは、議論が「がまんできるか、できないか」という次元にあり、生命はその理由づけとして使われているだけで、生命そのものが問題の対象とされていないからだと思うのです。
議論が「賛成と反対」に分かれたときは、もう相手を打ち砕くしかありません。数か力で……です。言葉は説得の材料として使われるだけでコミュニケーションの役目を果たさなくなります。お互いを理解しようといる努力は消えてしまいます。自分が正しいと思う人は、他者の意見は「正気の沙汰とは思えない」と感じます。そうなったら、もう話しあいは成立しません……。

意識が変わる、価値観が変わる……というのは「いまの現状をがまんするか、しないか」ではなく、「自分が丸ごと変わってしまう」ことなのですが、そうなったときに私は元の私ではいられなくなります。それは死の体験と等しいほどのものかもしれません。信じていたものが無価値になり、自分の人生の意味すら消えてしまいそうになります。そんな恐ろしく辛いことは、たいがいはしたくないので、誰しもが自分はいまのままで、相手にだけ変われと要望する。それが対立という構図なのです。
 
「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」はその対立の構図を歴史的に俯瞰しながら書いた本です。ですから、この本をもしじっくりと読まれたなら、単純に「反対」とも「賛成」とも言えない、なにかすべてがからみあった因果であるのを知ってしまった揺らぐ自分というものが生まれてしまうかもしれません。それは、とても不愉快であろうし、都合が悪いものであり、たぶん見たくないかもしれません。

人間は説得されて変わることはありません。でも、感化されて変わることはあります。自分がそれまでの考え方を変えたときのことを思い出してみてください。必ず、誰かが存在しませんでしたか? 強い確信と信念をもってひたむきに熱烈に生きる《他者》の存在と出会う。その出会いの感動によって、説得などされなくても自分が変わってしまったという経験。それは、力で起るものでもなく、数によって起るものでもなく、洗脳でもなく、喜びに近い衝撃とともに自らの裡に発現してくるものではなかったでしょうか……。
 
社会が変わっていくときには大きな流れが起ります。力が働きます。その力に抗うことはできません。でも、力では変えられないもの、それが人間の心だと思います。そして、物事には本質的な解決はありません。なぜなら、すべては常に移ろい変化し、一瞬たいとも静止することなどないのですから……。この「本質的な解決はない」という巨大な宇宙的現実を見ないで、短い時間軸のなかで解決を急いていくことで、損なうものがあることを、痛みや悲しみとして受け止めていくこと……。
この冷徹で解決しようもない現実を認識することで生まれる謙虚さや敬虔さをまといながら熱烈に生きている人に、私はいやおうもなく感化され変えられてしまうことがしばしばあります。この感化の連鎖のなかに小さな人類の魂の成長のようなものがあるのかなあ、と思うようになってきました。

なにも損なわないで出来る事などないのであり、解決もないのであり、それでも変えていかなければならない。それは、高揚を伴うような正義の感覚ではなく、非常に抑うつ的で、無情で、うんざりするような不安定な心境を伴うのです。でも、その悶々とした抑うつのなかにこそ他者への拓きがある。なにが正しいかわからなくなっているから、人の意見を聞きたいと思い、意見を聞く人たちに向けて、語られていく言葉のなかに、また、微細な変化が起こる。それは、短気な人にとっては「悠長すぎる」方法論かもしれませんが、私には最良にして最短の道に思えてなりません。
私たち日本人は高度成長、バブル経済という妄想的な分裂状態を経て、非常に深い抑うつ的でメランコリックな気づきの時期に入ってきているように思います。この状況のなかで沈黙することは、なんらかの形で世界のバランスをとっているように思えるのです。

私は次に「水俣」のことを書きたいと思っています。水俣病の歴史から、私は「対立」と「対立を越えるもの」を学んできました。水俣との関わりがなければ今のようなものの見方に至ることはなかったと思っています。そのことを、若い方たちに伝えたいという強い思いがわいています。

「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ 原子力を受け入れた日本」ちくまプリマー新書

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by flammableskirt | 2011-09-21 14:47
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第8回目のダイアローグ研究会についてお知らせいたします。今回は竹内整一先生から「はかなさの感受性」というテーマをいただいています。3.11の震災以降、原発事故の影響もあり日々さまざまな報道が繰り返させています。その多くは原発の危険性や放射能の危険性を危惧するものであり、多くの無名の人たちがインターネットなどを通して警鐘を鳴らすかのごとく「数値」や「量」「規模」といった、「計る行為」に夢中になっているかのように見えます。確かに、放射線量の数値を計測することは大切です。人命のため、子どもの安全のため。
ただ、私たちは「数値化」された情報でほんとうに安心できるのでしょうか? この情報の「数値化」の過程で、なにか失ってしまっているものはないのでしょうか? 今回は震災から半年が経過した時点で、私たちの目に見えない「いのち」の問題について、ごいっしょに考え、議論できたらと思っています。
難しいテーマではありますが、同じような疑問を感じている方も多いのではないかと考えます。
ぜひ、ご参加ください。お会いするのを楽しみにしています。


第8回ダイアローグ研究会のお知らせ
「はかなさ」の感受性 
    ――転機としてのクライシス

近代文明の基本である「はかる」ことと、人が生き死ぬことの「はかる」ことのできないこととの意味や価値について、あらためて重ねて考えてみる。

■ゲストスピーカー
竹内整一(倫理学・日本思想史)
JCASTNEWS にて「震災と日本人」1~20を連載
http://www.j-cast.com/2011/03/26091260.html

対話 竹内整一×田口ランディ
「放射線量で命は計れるのか?」
 ※対談の後、参加者を交えての全体討議

■プロフィール
竹内整一/たけうち・せいいち/鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。
1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』『「おのずから」と「みずから」』ほか多数。3月25日に『花びらは散る 花は散らない』を新刊した。

.参加ゼミナリスト
 北村正晴 リスクマネジメント・原子力工学
 大森正明 環境経済学
 稲葉俊郎 医師
 蛭川立  コスモロジー・人類学

■日時
9月22日(木曜日)
18時開場 
18時30分開始~21時終了

(遅れて参加されても大丈夫です)
■場所
明治大学駿河台校舎リバティタワー12階
1125番教室
〒101-8301 東京都千代田区神田駿河台1-1

どなたでもご参加いただけます。
※ご参加の方は人数把握のため以下に参加メールを送ってください。
 randieta@me.com
by flammableskirt | 2011-09-14 15:29 | イベントのご案内

あの石に飛ぶしかない。

私を官能小説家と呼ぶ人がいる。旅行記作家と思う人もいる。オカルト、精神世界系と言う人もいれば、社会派だと言う人もいる。福祉関連や、終末医療を扱う作家だと思っている人も多い。わたしは、すべてに興味があり、自分にリミッターをつけていないため、なんでも興味のままに取材するし、興味のままだから作品にならないことも多い。原爆の問題は12年もかけてやっと新書と短編集を一冊ずつ出した程度。原爆だの原発だの、そんな話題にいまの読者はついて来ないと言われることが多かったが、やっと読んでもらえる。だからと言って、それもまた興味の範囲の一つであり、なんの専門家でもない、ということは自由である。しょせんわたしに専門的な知識などない。フィクションとかノンフィクションとかそういうこともあまりどうでもよく、そんな区分に意味があるのか、堅苦しくつまらないだけじゃないかと思う。物事はボーダーレスが面白く、マアジナルであればあるほど愉快だ。曖昧なものが好きだ。結論や終わりの見えないもの。そういうものがかっこいいと思って生きてきた。そういうものに子どもの頃から憧れていた。不自由な制約のなかに展開される自由こそクリエイティブだ。紀行文だと言われれば紀行文のなかに紀行文を越えるものを展開させたいと思う。限りなく紀行文に閉じこめられたときに限りなく紀行文じゃないものが成立していく。この世界、この諸行のなかに生きている以上、わたしは小石の上を飛んで川を渡るように、さまざまなジャンルをまたいで、越えて、あちら側へ行こうとしているだけ。彼岸に渡るまで、この川を越えるために流れをまたいでたどらねばならぬ、さまざまな石。その石に足を置くために、悩み、考え、工夫していくしかない。この石に足を置いても滑らないだろうか、と、石と対話しながら、一歩ずつ進む。いま、とても滑りやすくそして遠い石まで飛ぼうとしていることを感じる。流れは急だし、あそこに飛ばないと先がない。他の石もない。そういう場面はこれまでの人生にも数々あったが、滑って転んで命からがら流れから這い出してみれば、あんがいと瀬は浅く、あら、濡れることを覚悟すればどうってことなかったんじゃない、と思うこともしばしば。今回は、深そうだ。落ちたら、どうなるかな、と思いながら飛ぶべき石を見ている。あの石に飛ぶしかない。どの石? あの石。というわたしと直接に対話をしたい方はダイアローグ研究会においでください。http://runday.exblog.jp/16846774/
by flammableskirt | 2011-09-13 11:32
「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ: 原子力を受け入れた日本 」ちくまプリマー新書 798円


長崎市長の田上富久さんから、「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」の感想をいただいた。


情報が氾濫する中では、人間は目の前を次々に行き過ぎる情報に目を奪われ、大きな流れを見失いがちです。特に若い人は、肉体だけでなく、心の動体視力もいいので、当然、動くものに目を奪われがちです。この本に書かれているような大きな流れを見る目を忘れないように。時代が変わっても変わらない、動かない価値にも気づけるように。
とても思いが込められた本だと思います。


ありがたいメッセージ。
田上さんとは、世代も近いせいか、この世界をどのようにとらえて、自分がどう行動すべきか、その「考え方のくせ」のようなものが似ている気がしてならない。自分の「考え方のくせ」にいつも疑問をもちつつ、それでも、自分が正しいと思うことを躊躇しながらも選択していく、その「迷い」のなかに、対話は生まれ、そこからしか戦いのない世界は導き出せないと感じているところも……。迷いながらひるまず進んでいくところも……。

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10代の方たちに、日本が世界で唯一の被爆国でありながら原発大国となった経緯、イデオロギーとはなにか、原子力とはいかなるエネルギーか……を知っていただくために執筆いたしました。原子力開発までの物理学史、戦前戦後の経済学史などを網羅しながら、ヒロシマ、ナガサキ、の延長線上に見えてくるフクシマの問題を考えています。原爆や原子力の歴史的な経緯について、若い方たちとともに考えていくために、わかりやすくていねいにまとめて問題提起をしています。
9月5日に発売になりました。ご興味のありそうな方にお知らせくださいますようお願いいたいします。
ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ
by flammableskirt | 2011-09-12 16:31
 縄文友の会の今年の秋のイベントは、
2011年9月23日 秋分の日に開催致します。


ディーパ 
大海のなかの島に立つように
 


朗読 田口ランディ 「光の大河」他 

舞踏 雪 雄子 

場所 鳴海要記念陶房館  (青森県弘前市大字賀田字大浦1−2 )
電話 0172-82-2902
鳴海要記念陶房館 HP http://www.hi-it.jp/~touboukan/
2011年9月23日(金・祝) 開場午後1時 開演 午後1時半(〜午後3時半) 
チケット3,000円(前売り・当日ともに) 
※今年のイベントは有料になります。

チケット取り扱い 紀伊国屋書店弘前店・鳴海要記念陶房館

お申し込みは、jomon_tomonokai@yahoo.co.jp
 へ。

件名に「9月23日イベント申し込み」と書いて、お名前とチケット枚数、
ご住所、お電話番号、メールアドレスを明記して、お申し込みください。
こちらから「チケット番号」をメールで返信して、
ご予約の完了と致しますので、どうぞよろしくお願い致します。

席数が50と少ないので(35名以降は立見となります。)
お早めにお申し込み下さい。
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by flammableskirt | 2011-09-06 15:58 | イベントのご案内

清里へ

木崎湖で詩人の吉増剛造さんと再会する。
吉増さんは、とても佇まいの美しい方で、しかも全身詩人というか……、ほんとうにすばらしく言葉が自由で、いつも意味から飛翔しようとジャンプしているような方で、その存在のしかたにとても衝撃を受ける。あのように自分も生きていきたいと心から思える。そういう人に出会うことが生きていることの素晴らしさに違いない。
今年も吉増さんといっしょの時間を過ごせたことが、私にとってはご褒美のようでうれしかった。
短い時間のなかでたくさんのことを、その「存在」を通して教えてくださった。
私はこっそり、吉増さんのことを「精霊」と呼んでいる。

明日からウォンさんと清里に向うのだけれど、とにかく蒸し暑くて体調が辛い。
夏に移動しすぎた疲れも出ているのだろう。昨日と今日は、珍しく身体がしんどくて使い物にならない……という感じだった。それで、ほとんど執筆には向わず雑用だけをこなした。
しかし、雑用も始めると際限がなくて、けっきょく10時間以上パソコンの前に座ることに……。それでも半分も終らない。私の処理能力が落ちてもいるんだろうな。

清里から戻ったら、少し家にひきこもって、秋からの体調管理や、掃除や、夏物と秋物の入れ替えとか、スケジュールの整理とか、したいなあと思う。そういう、身近なものをひとつひとつていねいに片づけていくことが、身体も元気になるてっとり早い道なのだ。一番、めんどうで遠回りに見えることが、実は一番てっとり早い。そういうことはままある。

この時空間のなかで滞っていることの微調整をちゃんとすれば、身体は自ずから回復していく。そういうことは体験的にしかわからないけれど、そうなんだよな。だからといってマニュアル化してしまうと、なにかが壊れる。ほつれるというか、失われるというか……。物事はすべてを規則や、法則や、マニュアルにしてしまった段階で、魂が失われる。いつもどこか違う、どこか少し破綻している、そういうことがほんとに、たいせつだなあと思える。

でも、それをたいせつだからといって、そのように意図的に仕向けると、どうもうまくいかない。
by flammableskirt | 2011-09-01 17:32