田口ランディ Official Blog runday.exblog.jp

作家 田口ランディの新刊・イベント情報・近況をお知らせします。 


by flammableskirt
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長崎での講演会、もうすぐです。長崎近辺にお住まいの方はぜひおいでください。
詳細は以下に。
http://d.hatena.ne.jp/cafemame/
by flammableskirt | 2011-07-30 15:45
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「ふくしまキッズ林間学校」の告知にご協力してくださったみなさん。さまざまな形でご支援くださったみなさん。林間学校はたくさんの人たちの力で無事に始動し、子どもたちは北海道でのびのびと過ごしています。その様子をブログでご紹介していますので、ぜひ見てくださいね。
このプロジェクトはすでに冬季に向けて準備を初めています。引き続き多くの方に関心をもっていただきたいと思っています。どうかよろしくお願いいたします。
http://fukushima-kids.seesaa.net/

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by flammableskirt | 2011-07-30 15:38

傘をさす人

雨が降ると、いつも不思議な気持ちになります。雨が降るとわたしは傘をさします。傘をひろげて雨粒をよけます。ただそれだけのことです。雨が降ったら傘をさすのです。こんなシンプルなことでしか雨は防げないのです。たぶん五〇〇年まえ、一〇〇〇年前、二〇〇〇年まえの人たちも、雨がふったら傘を、あるいは大きな葉っぱをあたまにのせて、雨をしのいだのです。からだが冷えたら大きな樹の木陰か、あるいは岩穴のような場所で雨をしのいだのです。雨をしのぐ対処方法を人間はほとんど進化させていないことにびっくりしてしまうんです。

雨が降ったら傘をさす。

それ以外にどんな方法があるというんでしょうね。傘は折りたためるように小さくなりましたけれど、軽くもなりましたけれど、傘は傘です。

傘をさすとき、人はほんとうに無力だなと思います。雨が降ったら傘をさすしかないのだから。こうして傘を開いてわずかな自分の空間を作り雨をよけるのです。そのようにして人は雨と生きてきました。

雨を自在にやませることは、できません。雨を自在に降らせることも、できません。
たかが雨ですが、されど雨です。
雨が降ったら傘をさします。強い雨と風では傘は吹き飛ばされて役に立ちません。そうしたら濡れながら歩くしかありません。洪水になったら流されます。どんどん流されます。蟻といっしょです。雨のまえで、人は命そのものです。偉くもなく、賢くもなく、翻弄されて逃げ惑う小さな命です。

雨が降っています。たくさん降っています。
すべてを押し流すように降っています。
それでも人は雨がやんだら、雨を歌い、雨に思いをたくし、雨を好きでいました。
雨を憎んだり、嫌いになったり、雨を呪ったりすることもなく、
雨が降ったら傘をさし、雨を歌って、雨に踊って、雨に感謝してきました。

雨は雨です、ただの雨です。
雨に心揺れるのは人間だけです。雨に祈るのも、雨に願うのも人間だけです。
雨が降って傘をさすのも人間だけです。
人間以外のものたちは、濡れるだけです。

雨を雨と呼ぶのも人間だけです。
雨は雨と呼ばれることで、雨になりました。
人間は雨を創造し、雨という物語のなかで傘をさす人になりました。
by flammableskirt | 2011-07-30 11:36
東京大学アイソトープセンター長児玉龍彦さん
衆議院厚生労働委員会意見陳述の記録です。

「保障問題と、線引きの問題と、子どもの問題は分けてください」





この児玉さんの訴えに私はとても深く共感いたしました。
原発事故が起こってすぐに、最初に私が危惧したのはこの点でした。必ず保障の問題が起こるだろうけれど、それを同心円のような距離で決めた線引きで行えば大変な混乱が起こる。そのことはもう、水俣病などのこれまでの公害問題で、じゅうぶんに体験してきたことであるけれど、でも、きっと同じことが起ってしまうだろう……と。

でも、水俣病の時とはちがい、早い時期から多くの方がこの問題を指摘し、今回も児玉さんが発言してくださったことは、やはり社会はなにかしら歴史から学び、変化をしつつ時を経ているのだなと感じました。

放出された放射性物質はほんとうに小さな粒子です。それは風や水に添って移動します。ですから児玉さんがおっしゃるように気象の知識、地質の知識、水流の知識などを複合的な流体力学の知識が必要となります。気象がカオス理論を生み出しました。それほどに予測が難しいものなのです。小さな蝶のはばたきが大きな影響を与える……。そのような自然の流れのなかを放射性粒子は漂っています。

原発からの距離による線引きというのが行政の業務処理を簡略化するという意味しかないことに、もう多くの人は気がついています。距離はあまり関係がありません。空も海もそして大地のなかでも、風と水と土はダイナミックに移動しており、そこに放射性粒子も関与しています。

自然の一部である人間の肉体も、同じようにたくさんの流れが休むことなく移動しています。そして粒子はその流れとともに移動していきます。ですからいろんなことが不確定であり、個別であり、未知であり「正しい答え」というものが、ありませんし、それを求めてしまうと逆に、状況の変化についていけなくなり、固定的な観念にとらわれて事態を見誤ってしまう恐れがあるのです。

いま、私たちは「カオス」と向きあっている、そう感じます。でも、ほんとうはそれが自然であり、それが人体であり、いつだって、生きるということは「カオス」と向きあうことだったのだと思います。このような時ほど、状況に応じてそれぞれが判断し、責任をもち、行動しても責められない、あるゆるさのある社会環境が創出されないと、どうにかしたいと思っても皆ががんじがらめになって動けないという状況ではないでしょうか。

なにかを変えようと思っても「ではその責任は誰が取るのだ?」という責任論のために、誰もが責任を取らなくてもよい合意までもっていこうとするから、とても長い時間がかかってしまい、時には決定することすらできなくなってしまうというのが、いま起っていることのように思われます。

「いま私たちのやっていることはすべて法律違反です」とおっしゃった、児玉さんの言葉。
たぶん、現状を変えるために法律違反をあえてせざるえない人たちが、ほかにもたくさんいらっしゃるのだと思いました。この言葉はとても強い力をもっていました。自ら責任を背負って法律違反をしている方がいる。この方たちを守らなければと思いました。民間や研究所の力を結集して除染を行うために、手足を縛っている法案を改正しましょう。
by flammableskirt | 2011-07-29 16:17
湯河原で立ち上げた「ひとりひとりの個性をだいじにする会・色えんぴつ」が主催のサマースクールを行います。
色えんぴつは、もともと発達障害のお子さんをもつ親の会でしたが、現在は障害も個性として捉え、さまざまなお子さんたちと触れ合う場を共有し、子育てを考える会として活動しています。

日時は8月20日(土)〜21日(日)
参加費はお一人あたり3000円です
(寝袋ご持参でない方はレンタルお布団代がかかります)
対象となるのは五歳〜小学校六年生までのお子さんと保護者の方。
基本的に保護者同伴です。
場所は湯河原町の宮上幼稚園で、園のお庭や講堂を利用して宿泊します。
ワークショップには地元の巻上公一さんと私も参加します!
ボランティも募集していますので、興味のある方はご連絡ください。
ちなみに、田口ランディは紙芝居担当です(笑)
問い合わせ先 0468-62-3994 宮上幼稚園 井上
※湯河原の方でなくても参加できますよ。自然の豊かな湯河原にぜひ遊びに来てください。

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by flammableskirt | 2011-07-25 09:31
長崎のおしゃれなカフェ「豆ちゃん」のブログに講演会の詳細がアップされています。
こちら、ご参照ください。カフェ「豆ちゃん」いろんなイベントを企画しているカフェで、カフェ飯もおいしいらしい。まだ行ったことがないので、今回はぜったい寄りたい!
http://d.hatena.ne.jp/cafemame/20110716
by flammableskirt | 2011-07-23 10:15
「なぜ、原爆や原発というものに興味をもたれるんですか?」という質問をよく受ける。この質問はできればうんと時間があって、私がとことん説明できる場合にしてほしいと願う。ひと言では言えない。私たちは複数のことに興味をもち自己矛盾が起こってもコンピューターのようにエラーしないで生きていける。複数の理由、不整合な訳、変化する意見をもっているのが人間だから、質問で一点を突破しようとされてもうまく答えられない。それに答えるために、いつも自分が機械化しなければならなくなるから、インタビューされることが苦手だ。

私は「核」というものに、ものすごく興味をもってきた。核とは原子核の核である。核分裂の核である。陽子と中性子がぎゅうっと引きあって原子のなかに存在するあの核である。そもそも人間を構成している原子というものがわからない。あなたも、私も原子の集まりである。原子は物質を構成している最小の単位である。

それなのに、どうして「生命」というものが存在するのか、同じ原子の集まりであるのにどうして「生きているもの」と「死んでいるもの」が分かれるのか。いったい「生きている」とはどういう状態で「死んでいる」というのはどういう状態なのか。エネルギーとはなんなのか。エネルギーはほんとうに不変なのか。この生きているという状態のときのエネルギーは死んだらどこに散ってしまうのか。このエネルギーはどこにどんな影響を与えているのかいないのか……。そんなことを考えているのである。いつも考えているのである。それが私なのだ。原爆も原発もその延長線上にある。核エネルギーはなぜ科学者を魅了するのか? このエネルギーの正体が「アルカナシカ」ではないからか。

さらに考える。人間の70パーセントは水である。これはおおよその人が知っている。だから、人間が原爆の強い熱線を浴びれば、水分が蒸発して70%が消える。残り30%は炭になる。水分子は水素原子と酸素原子に分解されて散る。ではその瞬間に「生きている」ことのエネルギーはどこに消えてしまうのか……と私は考える。生きていることのエネルギーとは「アルカナシカ」と。

 私は「キュア」という小説において「人間にとってガンとはなにか?」をとことん考えてみた。だからこの小説のテーマは「ガン治療とはなにか?」である。低線量でも放射線が恐ろしいのは放射線が細胞に影響を与え、ガンの原因となるからである。もし放射線がガンを引き起こさなければ、細胞への損傷があっても免疫系がガン化を押さえることができるのならば、放射線はこれほど恐れられることはない。せいぜい紫外線くらいのものとして考えられていたかもしれない。

人が怖いのは「ガンになること」ではないのか。そして人間は皮肉にもガンになると、放射線治療や検査によって被曝し続けることになる。被曝してもガン細胞を叩くことが優先されれば、人は被曝する。しかし、人間は必ずいつか死ななければならないから、ガンで死にたくないとすると別の死に方をしなければならない。放射線によるガンの影響は、被曝した者がガン以外の原因で亡くなって初めて「この方には影響がなかったようです」ということになる。しかも、ガン抑制に関わる免疫系は人間の自己と非自己に関わる奇妙なシステムだ。私が私だと思っているこの私は誰なのか。人間存在は多細胞生命体である。私を定義するのは実は難しい。ブッダ的に言えば「私なんか存在しない」のである。だがそんなことは、悩める人間の救いにはならないし、被爆地においてどんななぐさめにもならないのに、仏教は二五〇〇年を経ても生きているのはなぜか。

私がほんとうに怖いのは死なのか、ガンなのか、それとももっと別のなにかなのか。生きているって、それってどういうことなのか。その問いは今なされているのか。ああ、いつもなにかがズレていると思いながら、でもそのズレがうまく言葉にできずに悶々としてきた。いったいなぜ人はガンを恐れるのだろうと。恐れの本当の正体はなんなのだ? それは冥王「アルカナシカ」と関連があるのではないか。

今もそうなのだ。悶々としながら、考え続けている。ずっとずっと考え続けている。だから社会的な問題への関心や正義感で、原爆や原発に興味をもっているのではないと感じる。私のほんとうの興味は生命にあるのだ。
だがいつもそこに至る前に、歴史や物語や科学や政治でつまづいている。

そして、またこういうこともある。取材していくなかで魅力的な人間と関わると、自分は揺らぐ。人は様々だ、とくに芯の通った人は個性的だ。個別で、豊かな生命観をもっている人たちとの対話や出会いのによって常にフィードバックを受けて、私の思いは万華鏡のように、空を流れる雲のように変化していく。ひとところに留まらず、自己矛盾や不整合を起しながらも、でも、変化しつづけていく自分。そういう自分を観察しているもう一人の自分。そして、それを言葉にして表現しようとする自分。自分すらも生じては消えるように、複数が肉体を出たり入ったりしている。体験によって私自身もまた「アルカナシカ」になる。

経験的に言えば、表現することは、誰かとコミュニケーションするための手段として用いられる。私が出会ったすばらしい人間、個性、どうしようもないほどステキなもの、魂、そういう存在と、お近づきになり、コンタクトするために書くことを一つの手段として利用している。書くという目的のために近づき関われば、ある時間を共に共有できるからだ。それは、写真家が被写体に向きあうときと似ていると思う。相手とコミュニケーションしたいから、撮る。そうじゃないのか?

話が霧散した。抽象的で形而上学的な世界は人間の生活を重なり合って同時に存在している。ともあれ、まず人間ありきだ。この世界に生まれてきた以上、人との関わりこそが私のミッション。そして関わるために表現を最大限に利用している。この世の最後の一人になったら私は死ぬだろう。いや、そうなったら私という他者と会話を始めるのかな。だが、人の魅力に触れれば触れるほど、その存在がある時、生きている状態から別の状態に移行することが不思議でならない。この人の知的なパワー、精神の崇高さはエネルギーとしてどのように解放され、どこに蓄積されていくというのか? それは「アルカナシカ」

「アルカナシカ」という問いは、私の人生のすべてをかけて死ぬまで問い続ける私のテーマであり、これがある限り退屈することはないし、出会いはいつもスリリングだ。「アルカナシカ」という作品は、そういう私の生き方を表現した作品だとも言える。私はこう生きているんです、という、妙なエッセイ……とも言えるかもしれない。

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角川学芸出版「アルカナシカ」
by flammableskirt | 2011-07-22 16:43
8月4日に長崎で講演会を行います。地元のすてきなライブカフェ「豆カフェ」のオーナーの吉田さんが中心になって企画をすすめてくださいました。当日は長崎市長も出席してくださるそうで、とてもうれしくありがたく、ちょっとプレッシャーも感じつつ、長崎に行くのを楽しみにしています。 8月5日には市内のカフェでの小さなトークも予定しています。また8月6日は水辺の森音楽祭に参加して、今年も語り歌います(笑)

私は4年前から長崎を取材していますが、まだ長崎をテーマになに一つ作品を書くことができないでいます。
長崎は広島とまったく違う土地です。違う歴史があります。その歴史を追っていくだけで精いっぱい。唯一、長崎に関連するのは「被曝のマリア」という短編ですが、長崎は登場しません。
長崎はとても深いんです。私はまだその深淵を少し覗き込んでいるにすぎません。
なので、長崎での講演は、正直、緊張します。
でも私の発した言葉が、新しい関係を生み出すようにも思え、覚悟を決めて言葉を発してみたいと思っています。私にとって新しい状況を創造するために……。

長崎での暑い熱い三日間、もうすぐですね。
長崎市の近くにお住まいの方、どこかでお会いできたらいいですね。
また、長崎のみなさん、この情報を興味のありそうなお友達にお伝えいただけたらうれしいです。
どうかよろしくお願いします。

詳しい情報はコチラ
http://d.hatena.ne.jp/cafemame/
by flammableskirt | 2011-07-22 13:45
京都造形大学における辻仁成さんの「人間塾」の講師、そして広島大学での平和講演を終えて戻って来ました。四泊五日の旅、その途中で四月に亡くなったおばあちゃんの納骨を終えました。おばあちゃんは岡山出身、お墓が広島の山奥にあるのです。

この旅でも、いろんな方にお会いしました。作家の辻仁成さんとは、昨年三月にパリでお会いしました。パリ、モンマルトルのアルサン・ピエール美術館における「アール・ブリュットジャポン展」の大使館でのレセプションで短い挨拶を交わしたことがきっかけになり、お互いに「対話」という問題を考えていることを知りました。それで、それぞれが企画している「人間塾」「ダイアローグ研究会」に協力しあおうということになったのです。
作家の友人がほとんどいない私には、辻さんとの会話はとても新鮮で楽しかったです。辻さんはすでに20年も作家を続けている大先輩なので、いろいろ勉強になりました。なにより、映画に、舞台に……そしてさらに、対話のための塾まで創ってしまうという、幅広い活動を知って、辻さんに対するイメージはとても大きく変わりました。けっきょく人は、創られたイメージで相手を見ています。私もそのように見られています。それは、時としてむなしいことであります。でも、自分も同じことをしているわけですよね。生の出会いってほんとうに大切だと思うし、年をとってきたせいか、生以外の人との接触をあまり望まなくなってきました。辻さんとの出会い、いろんなことを考えるよいきっかけになりました。辻さん、ありがとうございました。

広島に移動して、家族といっしょに私が大好きな広島のお好み焼き屋さんに行きました。そこはパルコの裏にある「元祖おこのみ村」の2階の「源蔵」というお店です。私は10年前に初めて広島のお好み焼きを食べた頃からずっと、このお店のお好み焼きの大ファンで、広島に行けば必ず寄ります。ここのお好み焼きは特徴があります。まず、すごく「麺」がおいしい。特に「そば」がいい。広島お好み焼きには「そば」とか「うどん」が入っているのです。この麺が、ここのはほんとうにいい感じなんです。味はものすごくさっぱりしているので、2,3枚くらい食べられそう。すごく品のよいお味で、なんだか妙に次も食べたくなるのです。とはいえ、めったに行かない旅行者の私のことなど、忘れているだろうから、お店に入っても挨拶もしませんでした。
この10年間、変わらずに鉄板の前に立ってお好み焼きを焼き続けている青年がいます。ほんとうに無口な人ですし、なんのお愛想もいわずひたすら黙々とお好み焼きを焼き続けているのですが、彼には鉄板の美学のようなものがあり、私は彼が大好きでした。とても背の高い大柄な人で、動きが機敏で、見ていて楽しいのです。この店の鉄板がほんとうにぴかぴかにきれいでそれも好きです。
食べて、帰ろうとした時に、青年が「写真ありますよ」と私に言いました。10年前にこの店に来たときの私の写真が壁に貼って在りました。お客さんの写真、いっぱい貼ってあるんです。「よくわかりましたね!覚えていてくれたんだ」と言ったら、ちょっと照れたふうに笑っていました。たったそれだけのことなのですが、なんだかとてもうれしくなって、自分の家族をお店の方に紹介しました。初めてここに来たとき、娘はまだ……4歳くらいでした。この10年、彼はずっとここでお好み焼きを焼き続けているんだなあ。次に来たときも会えるといいなあ。そう思います。お店を続けるってすごいことです。私いつもそう思うのです。なんだか、ここに来ると元気が出るのは、彼らがお好み焼きを焼き続けているから。それも変わらないクオリティで!それってすごいことだと思うんです。私もこれから10年、変わらず小説を書いていけるかなあ。そうありたいなあ、なんてことを思ったり。

広島大学では若い学生さんたちと、とてもいい対話ができました。先生方も質疑に参加してくれて、世代を超えた議論ができたことは有意義でした。対話はあとになってからじわじわきいてくるもの。あれから、みんながどういう思いを育てていくのか、それをまた見に行きたいなあと思いました。

今日は台風一過の晴天、北の高気圧のおかげで高原のような涼しさです。これから仕事のリズムを取り戻さなければ……。
by flammableskirt | 2011-07-22 13:32

近況報告

7月に入ってから、ずっと旅芸人のような生活を送っています。旅芸人は憧れの職業だったの楽しいです。でも、私は本物の旅芸人ではないので、いつも浮世の義理を引きずっています。
今現在、あちらからこちらへと移動を続けているため、いただいたメールや、手紙、案内、献本、その他もろもろのご依頼書を読んで吟味することができません。いろんなことが後まわしになっていて、ほんとうに心苦しいです。手紙を書くのが大好きなのにお返事をお送りすることができません。ごめんなさいです。
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(縄文笹山の縄文祭で縄文人になった私と山田スイッチさん)

今日は瞬間的に自宅におり、久しぶりに子どもと手をつないでゆっくり眠りました。とてもとても深く眠れました。自分が動物のように感じます。安心できる巣に戻ってきたという気分でした。そのせいで、今朝はとても体調がよく晴れやかな気分で目覚めました。これまでの疲れが吹っ飛んだみたい。
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梅雨頃に仕事場のベランダに鳩が卵を生みました。つがいで一生懸命に育てていましたが、雛がかえり鳩の4人家族がベランダで騒いでいました。こちらはまあ、見て見ぬふり、もちろん餌なんてあげません。仕方ないので間貸しするけどさっさと出ていってね、という気分でした。二羽の雛が成長してきて、一羽は巣立ったけれどももう一羽がなかなか飛びません。奇形のようです。嘴は鷲のように曲がっているし、羽がとても小さいのです。こんな鳩は見たことがないです。なかなか巣立つことができず、お腹をすかせているようですが、嘴が変形しているのでうまく餌がつつけません。ほっておけば死んでしまうのかもしれないです。
……どうしたものか……と悩んでいたのですが、今日、親たちのフンを食べているのを見て、ついかわいそうになって餌をあげそうになってしまいい、慌てて思いとどまりました。動物とコミュニケーションするにはそれなりの覚悟が必要だし、鳩の生態はよく知らないので、まずは勉強してみてから……と、鳩について調べています。もっとやることがあるだろう?と自分に突っ込みを入れつつ……。

明日から関西方面に向います。19日から広島です。広島大学で講演を終えて戻ります。新作のゲラを戻して、次の作品の脱稿に向っていますが、なかなか書く時間が取れず苦戦しています。私は旅先では執筆しないので、仕事場にいないと原稿は書き上がりません。月末までに完成したいのだけれど……。

先日のネイキッドロフトでのイベントはほんとうに楽しかった。大友良英さんと飴屋法水さんとトライした即興朗読はたぶん観客のみなさんにとっても面白かったのじゃないかと思います。また、飛び入りでPAを買って出てくださったザックさんに感謝です。

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(大友さんと私は、同じ年でした)

秋に「演劇実験室新世界」で、俳優であり映画監督でもある利重剛さんといっしょに、18禁のとてもエロな私の短編を朗読する会を企画しています。すてきな声の男性に読まれる性的な描写はほんとうにすばらしく、飴屋さんの朗読ですっかり魅入られてしまいました。大友さんに即興でのBGMをお願いしたところ、時間が合えばぜひ!ということだったので、第二段が実現するかもしれません。

来月はいよいよ長崎「水辺の森音楽祭」です。私は8月4日から長崎に入る予定でいます。今年はどんな人たちと出会えるか楽しみです。まだエントリーを受け付けていますので、長崎近辺のミュージシャンのみなさん、もちろん近辺でない方も、ぜひエントリーしてみてください。詳しくはこちら。http://www.nagasaki89.com/

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昨日は基礎情報学の西垣通先生の研究室に寄って二時間ほどお話をしてきました。西垣先生の専門は「生命情報」ですが、生命情報といっても遺伝子などではなく、先生は情報はすべて生命情報であるということを長年ずっと考えてきた方です。ですから、私たちがふだん使っている情報という概念をかなり突破しています。そしてIT情報というものを、生命情報として見たときになにが問題点かを分析しています。

ネット上の情報の多くは「書き言葉」です。そしてネットに書かれた情報は書き言葉として定着し、永遠とも言える時間、残留し続けます。この「消えない」という現実は、人間の精神にとても大きな影響を与えていると思います。これは実は恐ろしいことなのです。あなたが書いたことは、あなたが削除してもそれを読んだ誰かのパソコンには残っており、永遠にコピーされ続けるかもしれません。そして、年代が上の人たちほど、この「消えない」とういう恐るべき現実への認識があまい。たぶん、いま十代の子どもたちは、匿名性でしかネットになにかを残さないでしょう。それゆえ、ネット上での匿名性は高まるし、これから先は少しずつフェイスブックのようなソーシャルメディアもすたっていくような気がします。つながることでなにかが生まれると思っていた、その幻想の崩壊が起こるだろうと私は考えています。つながるというグローバル主義は、旧世代的価値観の象徴のように思われるのです。次世代は、大きくなることで動きが悪くなること、広範囲になることでズレること、視点を上げれば上げるほど、自分が機械化されることに気づいています。そこに気づいていない世代と、気づいている世代との断絶は大きいなあと、このごろ改めて思うのでした……。twitter上における旧世代の「つながればどうにかなる」という発想に、たぶん子どもたちは着いてきません。それは、すでに失敗しているのだから……。私はわりと、今の十代以降の世代は手堅く、等身大の自分を大事にし、機械化されることを嫌う、面白い世代だと思っています。彼らは直感的に「上から目線」に敏感ですし、命令という上から下へのピラミッド構造を解体するのが得意です。冷めていて現実的でお金にシビアで、ケチです。これって新しい日本人だなあ……とこのごろ中学生を見ていて思うのですね。
by flammableskirt | 2011-07-16 13:51