田口ランディ Official Blog runday.exblog.jp

作家 田口ランディの新刊・イベント情報・近況をお知らせします。 


by flammableskirt
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1月が終るね

1月最後の日です。
31日のある大きな月がなんとなく好きだ。30日で終ると淋しいからかな。
そう考えると2月はハンパでかわいそうだね。
逆にそのハンパさが愛おしい気がして2月は大好きです。
私の好きな「冬」という季節を感じる最後の月でもあるからかな。
2月が来ると、ああもうすぐ冬は終わりなんだなと……、別れの気分になってくる。
寒いんだけどね、でも、冬は一番好きな季節だ。どうしてかな。

明日から2月だ。
新しい月のために、今日は掃除をした。
2月は、13日に六本木でイベントを企画している。
佐世保から「オトヒトツ」を呼んでのライブ。
そして、新刊が出る。
「蛇と月と蛙」

バレンタインデーはさすがに、盛り上がらない。
そのぶんバレンタインイブの13日に「怖い愛について」のトークをします。

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by flammableskirt | 2011-01-31 17:36

小さなゆらぎ

 ゆうべ、NHKの「清算の行方〜諌早湾開拓事業の軌跡」を見た。
 日本列島改造論の時代に再浮上じた開拓事業は漁民の反対を押し切る形で実行されたけれども、開拓事業の後に付近の海に出る影響は科学者たちによって指摘されていたことを知った。
 その調査報告書を改ざんし「影響は少なく被害は出ない」として漁協を説得し、事業を決行した当時の行政の強気と傲慢。
 時代は高度成長のまっただ中。行政側は話しあう気もなければ、計画を止める気もない。開拓事業のシナリオは出来ており、一度決められたことは覆らない。国はお金をばらまいて住民を賛成派と反対派に二分し、住民同士を対立に追い込み疲弊させる。そういうことが、日本中で起こってきた。そして、民主党政権になって公共事業見直しの公約が掲げられたものの、ねじれきってしまった現実は元には戻らない。
 海を失った漁民の方たち、そしてもし水門が開かれれば今度は開拓地に入植して耕した農地を失うかもしれない農民の方たち。両者が真っ向から対立している映像は、やるせなかった。なぜこんな対立が生まれるのか。一人の男性の言葉が印象的だった。「自民党とか社民党とか、そんなこと関係ないんだ。俺達はここで生きているんだ。そのことを考えてくれ」

 対話の研究会をしている。まだやっと三回目、始まったばかりだが、きっかけは「原子力」と「水俣病」に関わったことだった。新しい技術、社会にとって有益で、経済を潤すとされる新技術は「それが国益となる」という理由で行政から保護され、地域住民の反対を押しつぶして遂行されてきた。
 その構造は諌早湾の開拓事情と相似形だ。原子力は業者の言うところの「クリーンエネルギー」を。水俣病は高度成長に不可欠だったプラスチックなどの化学製品を生みだして社会に貢献したが、その一方で地域住民、生物つまり生命に関わる大問題が起こった。
 その解決をめぐって地元住民だけでなく、外部の支援者も加わっての賛成派と反対派が対立し、長い年月のなかで地域に深い亀裂が生まれ、人は年をとり人間関係や家や仕事を失っていく。
 こうした問題のための「対話」の場はどのように作ることが可能か。それを若い人たちと考えていきたいと思って始めたのだが、ゆうべの番組を観るとその難しさにがく然とする。

 一方でエジプトへ、北米へと革命の波が広がっている。アメリカの覇権によって指示されていた政府が壊れ、民主主義という名の内政干渉がどんどん暴露され、世界が変ろうとしていることを感じる。

 そして鳥インフルエンザは猛威をふるう。大規模養鶏によって効率的に生産されていた卵は、いつも安価で手に入った。それはほんとうに一般家庭にとってはありがたいことだった。私も、卵は生命そのものであるのにどうしてこんなに安いんだろう……と、買い物をするときに不思議に思うことがあった。それは「養鶏」という事業をシステム化し効率化することによって得られた恩恵だったのだということを、鳥インフルエンザが発生すると痛感するのだ。小規模の養鶏が多数あれば、被害はこれほど甚大にはならない。大規模化し、一括管理すれば効率はいいけれどリスクも生じる。問題が起こった時のリスクは甚大となる。

 日本の農業が衰退したのは、大規模農業に移行できなかったからだという説を聞いたことがあった。ずいぶん前にとある政治家と話をしていた時だ。農業を救うには大規模農業へと移行させるべきだと彼は言った。
 日本の農業が小規模なのは、明治維新まで遡る。
 明治政府は地租改正を行い、それまで農家が年貢をして収めていたものを「税金」つまり現金で収めさせるようにした。資本主義の始まりである。土地も個人が所有しそこに税金がかかるようになったのだが、その土地への税金が驚くべく高かった。もちろんそんな高い税金をいきなり農家は払えないゆえ、土地を手放し小作人となった。
 徳川幕府の時代は年貢だから気象変動が起これば収められない。つまり自然がもたらすリスクは幕府が負担したが、税金となれば米が取れようが取れまいが政府は税金をもらうだけ。リスクは国民負担となったのだ。
 それゆえ不作が続けば農民は困窮し子供を売り、飢えて死んでいった。それに対して無策だった政府への憤懣が、農家の次男、三男といった青年将校たちが中心になって起こした2.26事件である。
 第二次世界大戦の後、GHQはあまりの地税の高さに驚き改正するとともに、農地を農民に解放した。再び農地を手にした農家は当然ながら二度と農地を手放したいとは思わない。日本の農村地帯で米国の資本主義政策を真似て遂行する自民党が強かったのはそうした背景があってのことだ。
 そういう歴史的背景があって、日本の農家は小規模農家である。農地を細かく農家に分散したからだ。それが日本の農業の衰退のひとつの原因となったとも言われている。
 だが、長い歴史から見れば、有機農法が叫ばれる時代になって、そのような自然農法、農薬や肥料を大量投入せずに自然の力を利用して食物を栽培する方法は小規模農業のほうが向いている。日本で独自の自然農法を目指す若い農業者が生まれていることは、日本の土地がもっている潜在的なパワーの復活のように感じた。食糧危機に日本が生き残るという発想ではなく、いま日本で起こっている新しい農業の方法が、異常気象に強い作物の育成とリンクしていく、世界に貢献する技術となっていくのではないかと……。
 水俣病を原因企業であるチッソは、もともと化学肥料の会社だった。農業政策が転換し、肥料を大量に投入して多くの作物を育てるようになった明治の日本で、急成長していったのである。

 だが、それを失敗と見て、失敗をしないということが正しい道だとは思わない。生命は選択し、ダメなら別の選択をし、失敗を繰り返しながらそれによってどんどん新しく自己創造してきた存在だ。失敗をする、誤るというのは創造の原点であり、それは生命に与えられた能力である。

 五〇年、六〇年という時間の経過で見つめてみると、物事にはそう簡単に良い悪いという判断ができないことがわかる。だからと言って、今を生きている以上は、今をなんとかしたいのだが、それはそれとして、いくつかの視点をもつことは対話をすすめる上で必要だと思うようになり、いまさらのように歴史を勉強するようになったのだ。歴史的な視点というのは、対話の上で不可欠のように思えたからだ。

 殺人事件には必ず犯人がいる。でも、原発や、水俣病、諌早湾といった社会的な問題には犯人はいない。とてつもなく多くの人間が関わり、入り乱れて予測不可能な状態となって動いていく。次第にある大きな流れとなって止めることが不可能となる。私たちはみんな同じ時代を生きている。この時代にこの国に生きているというだけで、好むと好まざるとに関わらず同じ舟を動かしているのだろう。
 賛成、反対と言っても、同じようなスーパーで買ったものを食べ、電気を使い、集会に行くときは飛行機や新幹線を使い、病気になれば病院に行き、公共事業で作った施設で会議をするのだ。この滑稽で悲しくもあるような「生きている」という状況を、俯瞰する目がなければ対話は不可能だろう……。相手が自分と違うと思う以上、同じ話しあいのためのテーブルに着くことすらできない。
 だが、日々を生きるために人はみな必死で働かなければならないし、歴史を学ぶ暇もなければ、ふと自分を遠くから見る余裕すらないのが現実だ。生活者であること以上のことを人がしようと思えば、それは「根性」の領域である。ましてや問題に直面している当事者の人たちがいかにしてさらにその「根性」を絞りだすというのか。
 私が水俣病を通して学んだのは、水俣病という公害病の原点と言われた大問題に立ち向かった人たちが、いかにこの問題を通して、病気にさいなまれながら、世界を俯瞰しようとしたか。歴史と自然と人間についての思索を深めていったか、そのききしにまさる恐るべき根性である。それは私にとって「人はなぜ生きるか」という答えであり、人間の尊厳を予感される希望だった。
 いまだもって、水俣病も解決などしていないけれども、とにかく、この社会問題がとてつもなく多くの人に影響を与えたことは確かだ。

 ときどき読者の方からメールをいただく。最近も「どうにかしなければいけないと思う。このままではダメだと思うんです。田口さんはどう思われますか?」という言葉を突きつけられた。
 どうにかしなければ、と思う人に対して、私は答えをもっていない。どうにかする、しないという考え方を捨てたからだ。どうにもならない。
 だがそれを言うと「無責任だ」「いいかげんだ」と感じる人がいるらしい。それはその人は「どうにかできる」と思い込んでいるからである。そしてその「どうにか」について具体的なイメージをもっていないことがほとんどである。「どうにかする、しない」に固執することをやめてみても、たぶんその人の生活は昨日と変わらないのではないか?と思う。だが、固執したい人が多いし、そうしたい気持ちもよくわかる。
 もし「どうにかする」という具体的なイメージをもっていたとしたら、その人は思想家かあるいは社会活動家というタイプの人になっているだろう。そういう人たちは「こうしましょう!これが一番いい方法です」と言うかもしれない。
 私は懸命に世界に溢れ返る問題について答えを出して、その答えを実現しようと努力している人たちを尊敬するし、できる範囲で応援するけれども、それもまた一つの思い込みだと思っている。だから、行きすぎればまた問題を生むだろう。かといってそれを止め力はどこにもない。行くときは行くのである。
 ただ、人間が信念に対して小さく揺らいでいれば、大きなダメージは避けられるのではないかと思う。たとえば、市民の頭上に原爆投下というようなありえない事態は、避けられたのではないか……と思ってしまう。

「どうにかする」という解決方法で社会問題が完全解決されたことが、歴史的にはないと思う。問題はいつも問題を超えて存在している。数式を解くようにはいかないものだ。和解や慰謝料を解決というのなら、そうかもしれないが……。
 きっと私たちには別の思考方法があるが、それはまだ使いこなせていないのだと感じる。白黒をはっきりさせたり、科学技術で現象を解決したり、人間の都合でもってものごとを「どうにかする」という考え方に捕らわれているからかもしれない。
 解決ではない方法について思索している……と答えると「そんなこと言っていたら間に合わないでしょう」と言われることもあるが、ぜいぜいあと数十年しか生きられない私がなにに間に合うというのかな……と思う。
by flammableskirt | 2011-01-30 13:15

聞くと、聴くの違い。

勉強が苦手だ。
哲学的な問題、思想的な問題に興味も関心もある。
でも、そういう議論がすっと頭に入って来ない。
たぶん、この社会では、そういう難解な議論がすっと頭に入り、それに対する言語ゲームがうまくできる人が優秀な人とされるんだと思う。そういう学生さんは就職活動もうまく、プレゼンも上手なのだろう。

問題に関心はある。興味もあるけれど、言語ゲームが苦手という人は多いんじゃないだろうか。私もそうだ。ダイアローグ研究会をやっているが、それも自分の苦手克服のためと言えるかもしれない。

私は言葉を扱う人間なので、議論が得意そうに思われがちだが、非常に苦痛を感じてシンポジウムなどに出席する。ばーっと難しい話をされるとほとんどの言葉が頭から抜けてしまう。若い頃はそういう自分に劣等感を感じ、わかったふりをして適当なことを言うか、あるいは、動転して発言できないか、もしくは焦りすぎて妙なことを口走るか、とにかく余裕が持てなかった。

たとえば、おとといのモーリーさんの弾丸トークも脈絡にそって整理できない。いろんなエピソードが激流のように目の前を過ぎていく感じだ。一つひとつの言葉は理解できるのだが、まとまりとなった文脈として頭に入ってこない。

なので、後に知人がネット上でモーリーさんの発言をうまく紹介していたときに、語られたエピソードが革命のきっかけになった……ということを知り「そういうことの説明のためのエピソードだったのか!」とやっとわかった。私は人の話を聞いていないのではなく、聞けないのである。そのことに焦るあまりに、ますます混乱していたのが若い頃だった。

さすがに長く生きていれば、そういう自分にあきらめもつく。わからないなりに生きて仕事をしていかなければならない。聞き取れないことを焦るとますます動転するので、メモを取るようになった。だが、メモを取り続けてもおいつかない。メモを取ることに終始するとメモを取るのに精いっぱいだ。そういう授業の受け方をしている人も多いんだろう。

じゃあ私は他人の話をどう受け止めているのか……と言えば、印象で受け止めている。印象派なのだ。というかそうしか受け止められないのである。落ち着いて焦っていなければ、ぼんやりとした雰囲気で聞いている。非言語的に聞いているという感じだろうか。作家なのに変だなあと思う。文章化はできる。でも言葉の聞き取りが苦手で、言葉にこだわると、訳が判らなくなってしまう。

印象という実にあいまいなものに頼れば、言葉の手触りでもって相手が何を言っているのか理解できる。ただ、それを言葉に置き換えるためには、自分が文章で書かなければわからないので、時間がかかる。作家という仕事は私には向いているのだ。この十数年、印象を言語化するという特訓を重ねてきた。おかげで、人前でも少しはしゃべれるようになってきた。多くの「論理的な人たち」からは、印象を語っていると批判されがちだが、その通りなのでしょうがない。私は言語的なロジックが苦手だ。ディベートなんて、絶対に無理と思う。考えただけでぞっとする。

私は聞き取りが下手なぶん、言葉にだまされないという長所があることがわかった。ロジックがつかみ取れないので、ロジックでだまされない……というか、ロジックであることすらわかっていない。バカゆえの勝利ということか。直感という得体のしれないいいかげんなものを頼りに人の話を聞いている。だから「なんか違うんだよなあ」に敏感なのだ。なんか違うが、なにが違うのかわからない。なので私の話には「わからないけど、なんか違うんだよなあ」というのが多い。でも、そんなことをシンポジウムの会場で言っても、バカをさらすだけなので、最近は言わない。昔はよくそう言って、バカにされた。また、言葉を断片的に聞き取っているので、ものすごい誤解や、前後の話が文脈のなかでひっくり返ってつながっていたりして「なにを聞いていたの?」と呆れられることもあった。それでも、大きくざっくりと人の話を感じ取っている。

私は言語の聞き取りが苦手だということをずっとわからずに生きてきた。別に生活に支障はないし、しゃべることもそれなりに得意だった。他人もこんなものだろうと思っていた。だけども、優秀な人とされる人たちと自分には差があり、その差が「議論」の場面でははっきりと出る。その経験を積み重ねるうちに、私はバカだ→という自己否定的な考えに陥いりがちになっていたのだが、文章を書いてみればちゃんと反論ができるということに気がついた。なぜなんだろう、私はどこが変なんだろう、私の不得意はなんだ?
と思って意識するようになってやっと、どうやら聞き取りが下手らしい、ということに40を過ぎて気付くのである。

それから、自分が苦手なことはあえて捨てた。直感力で補えるのだから、聞き取れなくてもいいのだと諦めたし、会議やシンポジウムで自分がお利口であると見せることを諦めた。変なことを言う人になってしまえば、それなりのポジショニングがあるというものだ。

私は人の語りを聴くのは得意である。ぼんやりとメモもとらずにその印象を頼りに聞いていると、その人がほんとうになにを伝えたいのか感じとしてわかる。また、伝えたいことなどなにもないのだな、自分を優位に見せたいだけだとか、信念にこだわってへ理屈をこねているだけだ、とかわかるのだ。人間は楽器みたいだなあと思う。みんな音楽を奏でている。それを聴くのはとても楽しい。
by flammableskirt | 2011-01-29 08:17
ネット・情報・人間について
ダイアローグ研究会
モーリー・ロバートソンさんの講義を受けて考えたこと

昨日、明治大学で開催した第三回ダイアローグ研究会において、ゲストのモーリー・ロバートソンさんがネットメディアの可能性についてスピーチをなさいました。モーリーさんが特に強調して話されていたのは、現在、エジプトで進行中の革命についてで、社会革命の引きがねになった要因の一つ、それもかなり大きなウエイトとして、個人がネット上に発信するリアルタイムの情報、またネット上での意見の表明をあげ、ネットの21世紀が始まった観があると語られました。
たぶん会場で聴講していた方のなかには、ネットワークがもたらす未来がバラ色とは限らないし、ネットは善意の表出があると同時の悪意の表出もあると考えていたのではと思います。でも、エジプト、アラブ世界にアメリカが関与しない革命の波がネットによって起こっている……というモーリーさんの分析は、現実のある一面を捉えていると思います。未来がバラ色かどうかはともかく、いまこの世界で現実に起こっていることを「見る」ことは「考える」うえで必要なことだと感じました。

ネットとはないか。それは私がネットワークを始めた20年前から考え続けてきたことです。パソコン通信の時代からネットとは「人間」が作ってきたものです。ネットとはなにかを考える上で「人間とはどういう生きものか」という問いは私のなかに常にありました。ネットは抽象的な仮想空間ですが、20年もネットの世界にいると、仮想空間であったものがもはや仮想とは言い難く、実際に私はネット上のハンドルネームがいまや私の人格をも現す「ランディ」という現実世界のペンネームになってしまっています。

人間は何度も革命を繰り返してきましたが、革命というのは「起こる時には起こる」という、台風のようなものだと感じます。およそ人間が関わる様々な「現象」は天気のように予測不可能。それをなんとか予測しようといろんな学問が生まれましたが、私たちはまだ「人間とはなんぞや?」という問いの答えをもっていません。統計学や、占星術をもってしても人間の未来を予測できませんし、その予測不可能な人間の集合体であるネット社会も予測不可能。であるから、ネットで革命は起きましたが、次に同じ事が同じように起こるという確約はないわけです。歴史は繰り返しますが、それは同じことがもう一度起こるということではないのは自明です。

人間がやっていることなので、ネットワークの既得権益を得ようとしたアメリカの思惑もはずれ、コントロール不可能な「革命」を生み出したりします。それはネットが「人間が関与した現象の渦」だからでしょう。

インターネットは確かにツールです。パソコンもツールです。でも「インターネットする」という動詞で考えてみれば、主体は人間です。ネットワークは動詞なんです。名詞として考えるとネットの本質を見失うような気がします。インターネットはインターネットする人間がいて成立しています。そして人間のやることは、子供だろうと老人だろうと、アジア人だろうと、ヨーロッパ人だろうと、完全予測は不可能なのです。ところが、ネットワークはこうなるとか、ああなると予測可能だと思い込みがちです。でも人間の行動予測なんてできません。もしできれば犯罪も戦争も未然に防げるはずではありませんか。そんなこと不可能ですし、不可能だから私たちはかろうじて自由だともいえます。行動予測が可能だという前提に立ってしまったら「あなたは将来、犯罪者になるから」と言われる可能性が出てきます。それは、かなり恐ろしい社会じゃないでしょうか。

革命とサッカーの試合は同時に情報としてタイムラインを流れていきます。
どちらに興味があるかで、情報価値が変わります。情報を読み取るのは人間です。だからある人にとってはサッカーの試合経過のほうが価値があり、書き込みからリアルな試合場面を想像できますし、ある人にとっては革命で血が沸き立つのです。つまり、人間という主体がいて初めてその情報を読み取り、それを自分に役立てるわけです。読み取る人間が存在しない情報は、記号の羅列になってしまいます。膨大な情報がネット上にはありますが、それをどのように解釈し、そこから何を得るか……という情報の質は、読み手に左右されます。

ネット上には英文情報がたくさんありますが、英語が使えない私はその情報を自分に役立てることが不可能。でも英語を勉強してそこから意味を読み取れるようになれば、多少は情報の質は上がりますが、英語をネイティブに使う人が読み取る情報量から比べたらずいぶんと得るものは少ないかもしれません。これほど人間が関与しているネットワークの世界は、リアルをいくら追いかけても、リアルというものは存在しないのかもしれません。

いまここで、撃たれた戦士の画像がアップされたとします。でも、それは現象のほんの一部分で、そしてその映像が伝達されることで何が起こるのかは、やはり予測不可能でしょう。偶然と必然が引き起こす劇的な状況には興奮がともないます。状況を生きている人たちの外野にいる私は、その劇的状況を「遊ぶ」ことができます。言葉は悪いかもしれませんが、ライブ感覚でミーハーに「世界の劇的状況を遊べる」場がネット上に創造されつつあるのでしょう。
だから「遊ぶ」という意識での参加が重要かもしれないと、私は思います。そこに関与してもなにかができると思うのは幻想だと感じるからです。もし、革命に加担したような気分になったとしてもそれは偶然ではないか……と。なぜなら、予測不可能だから。私たちは世界を変えられません。世界はそんな単純なものじゃない。私の都合で世界が変わるわけがありません。私が変えられるのは、せいぜい私くらいです。

モーリーさんは、モーリーさんの「インターネットをしている」、それをモーリーさんは自分にとってアートだと言いました。それはとてもわかりやすいと思いました。だから、モーリーさんの話は面白い。彼は行動して表現しています。そして私には私の「インターネットする」があるんですが、私はモーリーさんほど自覚的に「インターネットしてる」とは言えません。アートだとも言えません。そこが違います。そして、私はどう「インターネットする」かについて、自分で考え、行動しなければならないんだなということを感じました。

自分が「インターネットしてる」という自覚がないと、けっきょく「インターネット」という得体のしれない「もの=名詞」を「善悪」で語ったり、擬人化したり、あるいは嫌悪したり、称賛したりしてしまいがちだからです。

ただ、一輪の花の写真からなにを感じるかは人それぞれです。革命の情報から世界を知るのは、その人がその情報を解釈できるからであり、それができない人にとっては誤解のもとになったりします。
子供の笑顔の写真から、社会の安定を願う人もいる。誰がどこから何を知るかは、これまた予想不可能。人間は一人ひとり違う経験をして、違う人生を生きている。

さあ、私はどう「インターネットしようか」
by flammableskirt | 2011-01-28 19:21
1月27日(木)はダイアローグ研究会です。ダイ研参加者のみなさん、今回の会場は明治大学のアカデミーコモンです。ご注意ください。もちろん初参加の方も歓迎。

講師のモーリー・ロバートソンさんから、すごく刺激的なメッセージが届きました。
明日はどうなることか、いまからわくわくしますね!
ハーバード白熱授業を超越する、過激な研究会になりそうです。

モーリー・ロバートソンより
ダイアローグ研究会参加者のみなさまへ

日本国内の「閉じた原子力対話」についても語ろうと思いますが、その対話が今後グローバルな情勢に影響を受けてどう変わっていくかにも注目しようと思います。
直接原子力の「箱」の中にはおさまりませんが、今エジプト情勢とアラブ世界での革命・激動がものすごいことになっています。知っておいた方がいい側面が満載なので、それらも解説する予定です。

左翼の人たちは90年代にネットが普及し始めた頃からすでについていけなくなり、相変わらず60年代型の反体制パンフレットを出版しているような状態でした。その後2000年代になって反対の政治観に振り切れた「おやじ青年」とも呼べる人たちが、当初エンジニアを中心にネット右翼の言説へと激しく傾倒。しかしそれは小泉政権に前後する「祭り」でしかなく、実際のアクションに至ったものはまったくありませんでした。この頃に日本のエコロジー活動も徹底して低迷したような気がします。

縄文回帰、大麻の崇拝、アニミズムの「なんちゃって」な崇拝、ネット右翼にも通実する陰謀史観(911の真相など)、ケムトレイル、ユダヤの陰謀…とそれぞれがまったく子供レベルで検証されていない風説が反原発陣営の若者に「ゆるく」共有され、坂本龍一~UAといった「人道風味」が定着したのもこの時期です。ネットわかんない、大人の考え方がわかんないモラトリアムな人たちが考えるという手順そのものをドロップアウトしていった、「ポストレインボー2000」な人たちを、パッパラパーな、いやPSPで遊ぶ「パラッパラッパー」な大人の兄貴達が手塩にかけて育て上げたのだと思います。そのなれの果てがサウンド・デモやアースデーだと思っています。

ここまでがあらすじですが、この先が今、もっともっとあるのです。世界中で情報共有の視点が、どえらい早さで進化しています。
○欧米中心の世界観がヘゲモニーを失い、本当に水平な多元社会がネットに実現し始めている
○「文明の衝突」といった西洋対非西洋(アメリカ対アラブなど)の二元論に大手メディア(CNNなど)や政府がしがみつく間に、「Wikileaks」などがそのアラを暴露、急速にもう一つの「ものがたり」が浸透中
○パソコンやネットを使うことが単なる「技術」を越えて、「公のスペースでの対話」つまり社会性と倫理を含む方向で成熟→Facebookに見られる匿名性の排除
○自分が放った言説に当然のようにコミットしなくてはならない新たな「大人社会」の出現

といったサイクルです。これは「しらけ世代」から徐々に大人になった人にとって、真にエキサイティングなはずの展開です。
結果、レインボー2000から悪石島の日食ドラッグ・ボアダムズ・船上パーティーまでの10年間で定着した「モラトリアム・エコロジー」は今後、ひたすらリアルな情報共有やディベートに洗い流されていくでしょう。「洗浄のメリークリスマス」です。

ということで明日よろしくお願いします。

モーリー

第三回ダイアローグ研究会は1月27日(木)午後19時〜開催です。明治大学アカデミーコモン 309E 9階 いつもとは場所と時間が違うのでご注意ください。

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by flammableskirt | 2011-01-26 14:41

日常と非日常

急遽、6月に出版することになった本のためにあたふたしている。
その本で取り扱っているのは、いうなれば非日常。
本を書くというのは、頭の中で常に非日常を体験していることに近い。
頭の中で体験していることは、現実の体験とどれくらい違うのか……というのが今回のテーマ。
私は日々それを実験していると言ってもいいかもしれないな。

いろんなことは乖離しているように見えて、繋がっているのだが、
それを理屈で納得することは簡単だけれど、実感となると難しい。
実感というのは、しようと思ってできるものではない。どちらかといえば突然やってくる。
いったい実感ってなんだろうって思う。

ここのところ、仕事以外の日常は、伊豆に父の墓参りに行ったり、
友人と新年会をしたりと、のほほんとしている。

伊豆の踊り子になってみたり……。
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天城名物わさびアイスを食べたり……。
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家族全員の靴下を編んでみたり……。
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浅草で新年会したり……。
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久しぶりに会った友人とだべったり……。
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そういう日常の細々としたことと、自分のなかの空想的非日常と、社会、そして世界というものと、どう繋がっているのか、頭で考えるとくらくらしてくるけれど、ほんとうに私が書いていきたいものは、そういうのが全部ひっくるめて、生きているってことなんだよな……ってことかな、と思う。
ぜんぜんきれいごとじゃなく、とてもしんどいことだけれど、それが生きるってことかなあ……と。
さて、仕事しよう。
by flammableskirt | 2011-01-25 16:23

あちゃー!

おみやげというのを、みんな好きなんだなあと思う。
いや、もちろん私も好きで、どこか珍しい場所に行ったときは「あ、おみやげ買おう」と小金で買い漁り、友人の家にゴミを増やしてしまうのだが……。

人のものをあげたい……という欲求は、強い人と弱い人がいるみたいだ。
そこには「優劣」や「善悪」はない。ほんとうに趣味とか興味の問題だと思う。
自分のことは他人と比べないとわからないのだが、私は私の夫よりもはるかに人にものをあげる方だ。
だが、私の女友達に比べるとはるかにものをあげない方だ。
という風にとても個人差がある。ほんとうに趣味なんだと思う。コーヒーに砂糖を入れるかどうかくらいの問題だと思う。

プレゼントやギフトというのも「したい」と強く思う人がいて当然だし、そういう人はそれがたぶん趣味なのだと思う。善意でやっているなんて思っていないと思う。「あげたい欲求」が強い人は、あげればいいのである。コーヒーに砂糖をたっぷり入れたい人は入れればいいのである。

……というような話を「タイガーマスク現象」について質問されたのでしたら、
「全然面白くない」と言われてがっかりした。
「面白くないですか?」
「面白くないですよ。だって趣味の問題だからどうでもいいってことでしょう?」
「そうだよ」
「あなた作家なんだから、もっとこう説得力のある頭のよさそうなこと言いなさいよ」
言いなさいよ、と言われても困った。
「じゃあどうして、本名じゃなくてタイガーマスクの本名を名乗るの?」
「うーん。それはたぶん、私が好きな男ができたときにバレンタインチョコに《峰不二子》って書いて送るようなものかな。自分の名前ではちょっと問題があるけど、だからと言って匿名ってのもつまらないし、ちょこっと自分で自分に遊びたいっていうかね。ところで峰不二子のふじこはどんな字だっけ?」
「はははは、せっかく「峰不二子」で送っても、不二子の字が間違ってたらダサいわねえ。峰富士子とかさ」
「まったくだ」
伊達直人さんも、間違って伊達直樹とか書いてしまったら情けないだろうなあ。もっと間違って「菅直人」なんて書いてしまったら……。館直人っていうのも間違いしとしてはありそうだ。
そういう、ミスをしたときは「あちゃー」と思うのだろうな。
「あちゃー」ってところを想像すると、なんか笑える。
by flammableskirt | 2011-01-23 12:54

世界で一番の不運


広島と長崎で被爆した男性について、英国BBCのクイズ番組が「世界で一番不幸な男」と紹介したという。これが日本人の怒りを買っている……ということは、twitterで初めて知った。

作家になってから、亀のようにのろのろと原爆の取材を続けており、昨年は長崎に行った。長崎の原爆資料館で偶然、この男性、山口彊(やまぐちつとむ)さんの人となりを伺った。「そりゃあユーモアのある、とても楽しい方だったんです。ほんとうに明るくて、周りの人間が元気になってしまうような方でした」
山口さんは英語が堪能だった。戦前は英語の教員だったし、戦後は占領軍の通訳として働いた。「英語を話せば言葉が通じる。戦うよりも話しあったほうがいいじゃないか」と、戦争の時代にあっても英語を勉強したそうだ。
サーベル握りしめたところで平和は無理。
そう語った人だと聞いた。

広島で出会って、交流していた川野政次さんは「私は世界一元気な被爆者です」と言って、世界を回って歩いていた。その川野さんがいつも言っていたのは「私のごときちっぽけな人間一人、殺すこともできなんですからね。原爆なんぞでなにができるっていうんですか」というものだった。この発言には賛否両論が集まった。
「そんなことを言ったら、原爆の被害がとても小さいものに思われてしまう……」と危惧する人もいた。被爆して亡くなった人たちの親族も「世界一元気な被爆者」という川野さんの発言には複雑な思いをもっていたと思う。

これは川野さんのジョークである。世界一元気な被爆者というのは、これはブラックジョークである。だけども「原爆」という名詞がもつ呪縛の強さはジョークを許さない。それが被爆者自身から発せられたものであっても。ましてや、英国が発するジョークを許すことはないだろう。そういう場が形成されているとしか思えない。自己免疫疾患的に、なんでも攻撃してしまう状況は、まだ現存する。

原爆に二度も遭遇する。
それは、人類史上最大の受難と言っていい。だから世界一不運な男という形容はあながち間違いではない。その通りだろう。つまり、ひねりはない。

イギリスから留学してきた若者が「日本人はジョークが通じない」と嘆いていたのを思いだす。彼らは身体的な特徴などを平気でジョークのネタにする。かなり辛辣だ。とはいえ昭和三〇年代生まれの私にしてみれば、子供の頃の身体ネタの応酬は常識。出っ歯、チビ、禿げ、と言いたい放題だった。だからあまり、辛辣とは感じない。「三バカ大将」という信じられないタイトルのアニメも存在した時代だ。「おまえのかあちゃんでーべそ」がはやしことばだった。

だから、イギリス人のジョークはOKと言うのか、と聞かれると、私としてはイギリス人のジョークの質も落ちたのね、というくらいだ。
そもそもジョークとして、どこが面白いのかわからない。二重被爆した男性、その存在をどう捉え、なにをおちょくったのかわからない。

ジョークとしての切れがないじゃないか。ブラックですらない。小学生レベルではないか。だから、その程度のセンスに文句を言ったところで、相手に通じるはずもないし、ほっといたらいいんじゃないの?という感じだ。イギリスもイギリスで、なにかが欠けてきているのかもしれない。そういう、メディアの人間の切れ味の悪さ、視点の鈍さは先進国共通のような気がしてくる。
by flammableskirt | 2011-01-23 12:11

不思議の国の「白雪姫」

■不思議の国の白雪姫
パパ・タラフマラの「白雪姫」を観て

白雪姫の童話は私のなかではエロである。
そもそもエロが好きだからなんでもそう見えてしまうのかもしれないけれど、白雪姫のエロさはハンパないと思う。森に迷い込んだちょっとおつむの足りない美少女と7人の小人たち。7人の小人がすべて老人の顔というのが本当に怖かった。あの老人たちがノータリンの美少女をペットがわりに飼育している……というイメージ。
鏡の精と呼ばれる正体不明の声は、あれはお妃の嫉妬心から聞こえる幻聴……と考えるのは、あまりに現実的すぎる。あの物語の主人公は実は鏡の精だ。この世界を破滅させようとする悪意の顕在化。美少女の死体にくちづけする王子も尋常ではない。初対面の女の死体にいきなりキスするか?ふつーしないだろう。
というわけで白雪姫に関していえば「倒錯した生と死、そして悪意の物語」として私は好きである。毒リンゴのイメージもいい。リンゴの断面は脳に似ているし、あの皮の赤と中の果肉の白は人間の体をひっくり返したみたいで不気味でいい。さあてどんなエロが展開されるのだろうか……という身勝手な期待をもって「パパ・タラフマラ」の「白雪姫」を観に行った。

白雪姫はちょっと大人になった不思議の国のアリスだった。七人の小人は森に迷い込んだカルト集団だった。お妃は千と千尋の神隠しの湯ばーばで、王子は死体愛好家だった。もちろん私にはそう見えたということだった。倒錯した世界であるけれども、私が期待しているエロはなかった。いやあったのだが、エロに対する興味の度合い、あるいは品位、あるいは認識の違いだと思う。

ともあれ私はここである一人の舞踏家の身体を絶賛する。
この人の名前は知らないが、彼女はこの「白雪姫」という舞台の中でお妃を演じていた。舞台上でのどの役者の動きもすばらしく、日々どれほどの身体の訓練、鍛練を重ねているのか、その積み重ねによってあれだけの激しい動きを軽々とこなすのか、それは想像はできるが、あえてその想像をしてわざわざ裏方を見なくても飛翔やタップを愉しめばいいじゃないか……と思うが、とにかく動きがすばらしい。
身体を鍛練することはすばらしい、だが、身体の鍛練と身体のイメージ化は違うと私は思う。身体をイメージすることは鍛練するよりも難しい、いや身体の鍛練の延長に身体のイメージ化は成立するのかな。そのへんのところはよくわからない。

お妃であり森の魔法使いであるこの役を演じている役者さんには、自分が何者であるかという役上の架空のアイデンティティが、身体を通して完全なまでに表現されており、その表現力はすでに物語として成立していた。身体が物語として非言語的に成立することはすごい。つまり彼女はいるだけで物語である。それが身体というものだろう。身体というのは「演じる」のではなく「在る」だけで物語になりうるからすごいのである。

私になにを喚起させたかというと、それは「鳥」だった。彼女はきらびやかな鳥カゴに入って現われる。そして、鳥の動きで走り回る。もちろん私にはそう見えたということだ。鳥が歩くように肩を上げ、やや前かがみにせわしなく。この姿が「湯ばーば」を想像させたのである。湯ばーばのアニマルアイデンティティも鳥だった。

人間としての動きなんて、どんなにアクロバット的だろうと、私はそれを見ていてもつまらないのである。そこに鳥を見るから不思議で楽しいのである。人間なのに鳥がいるというそのハイブリットを実現するから舞台はドリームタイムになる。この妃はそれを実現させたので、彼女が出るシーンは世界が違って見える。もちろん、私の独断であるが……。

ほんとうに残念だったのは、この「黒い鳥」が、大きく飛翔する場面がなかったことである。私は彼女の羽ばたき、それも世界を防風雨に巻き込むような羽ばたき、暗黒のような黒い翼を広げて地上を俯瞰する様を観てみたいと思い、じっとその瞬間を目を凝らして待っていたのだけれど、そういうシーンは登場しなかった。ちょっとがっかりだった……。

森の小人たちは、テレビゲームのキャラクターのようだった。それは意図してそのような、デジタルな動きをしていたのかもしれないが、身体は自分が何者であるのかをわかっていないので《演じている》ように見える。演じていいのだが、演じていては世界は夢を見ないのだ。そこに何者かとして存在しなければ、夢の時間が始まらない。そういう意味で、何者かとして存在しているのが妃だったのだ……と、いうのが私の感想である。

主人公である白雪姫は、コケティッシュでその動きも素晴らしかった。のだが、やはり不思議の国のアリスだった。アリスでもいいのだが、白雪姫が白雪姫であるために必要ななにかが足りない。近代の神話であり、そこに底通している白雪姫の白雪姫たるゆえんがある。それを私は《すべてを受け入れてしまうために犯され続ける無垢さ》であると考えていたのだが、不思議の国のアリスだったので、白雪姫は男を拒絶するし、無垢じゃなかった。

最後の展開に私は不満である。刃をふるうのが妃であるわけがない。それは王子だろう。と、思う。もちろんこれも身勝手な観客の言い分であるが……。なぜそう思うのかと言えば、妃にはあの行為に及ぶ理由がないからである。王子に蹂躙されて純潔と無垢さを失った白雪姫など、すでに魔法使いの嫉妬の対象ですらないはずだ。あるいは妃はそれを仕組んでしまうくらいの悪意もあるだろう。と、またしても妃に肩入れしてしまうのだった。
とはいえ、私がなにが不満なのかは観てみないとわからないでしょうし、白雪姫がアリスであるというのも、鳥と人間のハイブリッドな動きとはどういうものかも、観てみなければわからないでしょう? なんだそりゃ?と思ったらどうかご自分の目で確かめてみてください。イマジネーションを刺激されるすごく楽しい舞台です。

24日まで公演は続きます。
詳しくはこちら↓
『パパ・タラフマラの白雪姫〜童話シリーズ第3弾〜』
http://www.owlspot.jp/performance/110120.html
by flammableskirt | 2011-01-23 08:58
今週、地元の「発達障害と共に生きる会・色えんぴつ」の定例ミーティングがあり、そこでいっしょに会を立ち上げたメンバーさん二人から「ブログ、読んでますよ」と言われてちょっとびっくりした。
そうかあ、知ってる人も読んでるんだよな、とあたりまえのことに気がつく。
もちろん私を直接知らない人のほうが、圧倒的だろうけれど、直接知ってる人も読んでるんだなあ。
「じゃあ、ブログに書いちゃうからね〜!」とお二人に冗談を言って別れたのだけど、約束果たしたぜ(笑)

最近はtwitterにつぶやくことの方が多くなってきたけれど、私はどちらかと言えばブログのほうが好きなんだ。それは自分が文章を書くことを仕事にしているからかもしれない。なにか伝えたいことがあるとき、140字は少なすぎるんだ。なんとなく、今年はブログを見直そうと思ったりしている。
みんながtwitterに以降して ブログはアメリカでは下火になっているそうだ。でもブログってやっぱすごいメディアだなと私は思う。逆に、ブログの可能性をもうちょっと追求してみようかな、なんて気になっている。
もっとブログの使い道のアイデアがあるんじゃないか……とか。

これを読んでいる人が誰であれ、誰かが読んでいてくれると思うとうれしい。
このうれしい気持ちは、本を書き始めた時の私の原点だ。
ネットの書き込みからデビューしたわけだからさ。
今年はちょっと初心に戻って、ブログを遊んでみようかなと思っている。
さて、どうやって遊ぼうか……。
by flammableskirt | 2011-01-22 10:38