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餅つき

今年も熱海・多賀工房の望月邸に集まっての、恒例餅つき大会がやって来ました。
こうしてみんなで集まって餅つきをするようになってから、かれこれ20年になりますよ。
もう、餅をつかないと、年が明けないという気分。
またこの餅がおいしいんだなあ。

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あいにくの曇り空だったけれど、雨が降らなくてよかった。
朝九時前に集合して、もち米をふかします。

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かまどでがんがんふかしあげたあつあつのもち米を、一気につく。
20年もやってると、みんな手慣れたものです。

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今年、うちのうるち米は木村農園からのカンパ。木村君、今年もありがとう。
鏡餅、お雑煮用の丸餅、ついたところからどんどん丸める。

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この餅つきでしか会わない人がたくさんいて、不思議な感じ。
そういうゆるーいつきあいっていうのもいいもんですよね。毎年、十二月三十日に餅をつくだけのおつきあい。それも20年続けば、親戚みたいですよ。

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よもぎ餅や、あずき餅もつきました。このよもぎは、春に摘んだものを高梨さんのお母さんが冷凍していてくれたのです。よもぎの香りがひと足早い春を感じさせました。ああ、よもぎって、匂いを嗅ぐだけで気持ちがすっとするなあ……。

餅つきも無事に終了。あとは来年を待つだけ。
おもち食べ過ぎたので、今夜は、気分を変えてホタテシチューにしました。
by flammableskirt | 2010-12-30 16:34

年末・雑感(2)

体調回復してきて、よく眠り、晴天で暖かい大掃除日和。
朝からひとりでテンションが上がる。

このごろよく若い頃を思いだすのだが、若い頃、私は一人でいるときはたいがいテンションが低かった。誰かといっしょにいるとハイテンションになるのだが、一人になるとがくっと落ち込む……というか、不安になる。そういう性格だった。しかし、あれはほんとうに辛かった。一人の自分が楽しめないのは淋しい。

そうだな、私は淋しかったんだな。ずっと淋しかった。なんで淋しかったかわかる。家族がいつも不幸で苦しそうだった。家族はみんな自分のことで精いっぱいだった。ひきこもりの兄、アル中の父、その二人の間でいつも脅えている母。私はみんなに笑顔で暮らしてほしかった。会うときはお互いにいたわりあって、笑いあって、愉快に過ごしたかった。みんなが苦しまない人生を願っていた。子供の頃からほんとうは家族が仲良く楽しく集える食卓を夢見ていた。せめて暴力で相手を脅したり、狂ったように酒を飲んだり、不機嫌な顔をして茶わんを投げたり、母を罵倒したりしないで、過ごしたいと思っていた。でも、それは叶えられなかった。だから、なんだか淋しかったんだろう。自分一人だけじゃ幸せになれなかった。なにかが足りないと思っていた。なにかが……。年末に実家に帰るのが怖かった。年末年始には父が酒の飲む。そして暴れる。ひともんちゃく起こる。年明け早々に泣きながら過ごすことが多かった。

いまや兄も母も父もみんな死んでしまった。みんなあの世とかに行って、肉体をもったゆえの苦しみにさいなまれることなく、穏やかに存在しているんだろう。そう確信していることの根拠はないが、そう思える。私は未熟だったがやることをやった。家族全員と死ぬ前に和解し許しあった。それが救いだ。

いまは淋しくない。一人でいることにほっとする。しょせん一人ではない。気配がある。死者たちの世界はここにある。重なって浸透して存在している。死者の沈黙は優しい。死んだ人はどんどん良い人になる。もう家族のよいところしか思いだせなくなってきた。辛い記憶は消えていく。絶対に忘れないと思っていたことをどんどん忘れていく。なんとおめでたいんだろうか。

あまりにもブッ壊れていて、誰からも理解されない人の、そのやるせなさは少しだけわかる。その狂気も、刃物のように人を傷つけてしまう感情も、抑えられない衝動も、どうしようもない苦しみも、へどが出るほどの弱さも、少しだけわかる。とても理解はできない。寄りそうことさえ難しいけれども、でも、私には確信がある。私の家族がそうであったのように、その苦しみの底には、ものすごい透明な悲しみがあり、それは人間のもつ淡い光だ。仏性というやつだ。それはある。必ずある。この世にたった一人でもそれがあると思えばあるのだ。

うーん。気持ちのいい日だ。
冬の空は彼岸の光に充ちているなあ。
もうすぐ、この年が終る。一年という命が死ぬ。私の一年も死ぬ。そして新しく生まれる。
終わりと始まりは紙一重。生と死は同じものだ。
by flammableskirt | 2010-12-29 14:10

年末・雑感(1)

11月頃からずっとイベントが続き、日本中をあちこち動き回りながら原稿を入稿し、12月になると引き継ぎやら忘年会のようなもの(久しぶりの人たちと近況報告しあう食事会)があり、学校行事や地域の行事も重なり、日々全力疾走のような状態になり、ようやくクリスマスが終って、潮が引くように生活が静かになった。まだ子供も中学生だし、私も社会的な面で仕事をしているから、世界が向う「年の瀬」に巻き込まれて翻弄される。それも、生きている……ということなんだろう。

同居している92歳のおじいちゃん、おばあちゃんの暮らしは静かなものだ。もう彼らの親兄弟もほとんど亡くなり、友人達も亡くなり、社会という公共世界からも遠くなり、年の瀬の急流からうんとはずれたところにあって、いつもと変らない生活をしている。

私も90歳を越えたら、社会というものから遠くなり、誰も私の話など聴きたいとも思わず、取り残され、静かに淡々とした毎日を送るのだろう。そもそも90歳になったときに今と同じような生活など望まないだろう。今だって体力的にしんどいのであるから、できるわけもないのだ。
 
おじいちゃんは、最近かなりぼけてきた。
ぼけてきたおじいちゃんの顔は昔よりもずっと穏やかになった。最近はあまり先のことを考えるのはおっくうらしく、その場その場のことに対応するのが精いっぱいらしい。我が家では、猫とおじいちゃんを「解脱者」と呼んでいる。うちには解脱した人が二人いる。猫のソフィとおじいちゃん。
思春期の娘の悩みは深い。なにもかも悩みになってしまう。
この両者の間に立って、半世紀を生きた私は考える。
けっきょくのところ、人間はなんで生きるのだろう……と(笑)

ゆうべは、テレビで「 JIN 仁」というドラマを観た。
タイムスリップして江戸末期に飛んでしまった脳外科医が主人公だ。彼は最新医学の知識をもって文明開化前の江戸にタイムスリップする。そして、コレラや梅毒を治したり、脳外科手術をしたいりする。

その主人公が必死で脳外科手術を施して蘇生させた女性が、あっさりと辻斬りにあって死んでしまう。どのように医学が進もうとも人間は必ず死ぬ。いつか死ぬ。絶対に死ぬ。それなのに人の命を救う意味とはなにか?
医療の現場には常に人間の「生と死」の問題が横たわっている。
主人公はタイムスリップという非日常的な体験を通して、治療とは何か?という難問と向きあわざるえなくなるのだ。

梅毒で死んでいく花魁の顔に化粧を施す。青カビから抽出したペニシリンによって顔の吹き出物が消えたという設定だ。命は救えなかった。だが、治療を受けたことで人間としての尊厳が復活する……と、あえて視聴者である私が偉そうに説明するとしたらばそういう展開か。このシーンでも終末期における医療とは?という問題が提起されており、とても面白いドラマだった。

この社会にあふれる科学の恩恵から引き離されたとき、人間一人はなんとちっぽけな存在か。そういう設定は最近よくある。先日も無人島にお笑い芸人の方たちが移住し、一ヶ月の自給自足生活を送るという番組を観た。パソコンも、携帯も、道具もなにもない世界にいきなり投げ込まれたとき、火すらおこせない……という無力感。

無力でちっぽけな自分がただ生きるために行動したときに感じる「生きているという実感」それがあまりに失われているから、私たちは繰り返し、その実感をバーチャルのなかに求めるのだろうか。

私の知人は「七年以上、同じ仕事をしない」と決めて、転職を繰り返している人がいる。七年以上続けると、惰性になるからだそうだ。ふと思い返してみて、そういえば私も七年以上同じ職場にいたことがなかった。

だが、作家になってちょうど10年になる。作家を10年続けていることは惰性なのか?なぜこれを続けていられるのか? 思えば社会保険もない自由業。仕事がなければプー太郎。明日をも知れぬ水商売。この不安定さゆえに、飽きもせずに10年が経ってしまったのだろうか……。なんにしても、作家というのは私の人生で一番長く続けている仕事だ。今年、一冊も新刊を出さなかったが、それでもいちおう作家である。不安定きわまりないゆえに、続けられているのだろうか。実に非生産的で無力である。この世の中でなんの役にも立っていない仕事だ。小説なんて読まなくても生きていける。

無人島で私はどんな事ができるだろうか。いやどれほどダメダメだろうか。まったく違う環境に身を置いて自分のダメさを見てみたいという思いは常にある。だから新しいことを始めようとしてしまう。可能性への挑戦ではなく、無力さの再確認のためだ。できることの発見ではなく、できないことと向きあった時の自分の根性のなさを知りたいと思う。

私は挫折好きだ。挫折すると安心する。挫折してようやく「更地になった」と感じる。可能性や希望をもっている時には、100パーセントの力が出ない。それは経験的に学んだ。私はそういう性格だ。挫折しきった時の「空虚さ」に初めて新しいものが立ち上がっていく。希望があるときは既成のものしか作れない。挫折するためには力いっぱい立ち上がらなければならず、その力いっぱい立ち上がる筋力が、最近、低下した(笑)いやはや、挫折もしなくなったということは、傷つかなくなったということだ。こうして人は年をとる。

筋力が弱って、立ち上がらなくなると挫折もしなくなる。それは楽である。人は適応力に優れているから、挫折しなくなれば、楽な環境に流れていく。立ち上がらず、挫折せず、ぬくぬくと自意識のごきげんをとって、自分の無力さを忘れていく。

そうなると保身に走る。できれば「まずいものは見ないでおきたい」「臭いものには蓋をする」これを意識的にしている人はすごい。たいがいの人は無自覚にやっている。無自覚だから悪気はない。悪気のない人はほんとうの怖い。この世で一番おそろしいのは悪気のない人だ。意識して「私は臭いものに蓋をする主義」という人は、臭い者に蓋をしていることを自覚してやっている。それは安全弁があるということだ。無自覚で悪気のない人は「臭いものに蓋をしている」という事実を正当化して隠ぺいする。この正当化の過程で必ず自分以外の他者を悪者にする。正当化とは他に悪い者がいるという主張に他ならない。この行為には安全弁がない。正義には安全弁がない。

「我が校にはいじめはなかった」と記者会見する教育者には、この無自覚で悪気のない自己正当化が見てとれる。これは誰もが落ちる穴だ。この落とし穴に落ちない人はいないくらいだ。「見たくないものは見ない」というのはあたりまえな心のありようで、それが悪いのではなく、そのあたりまえのことをまた「悪い」として隠ぺいする、人間理解の浅さが形成しているなんらかの雰囲気を打開できないことが問題なんだろう。

いま、二十世紀的価値観の最後の揺り戻しのようなことが起こっている。科学は人間の無意識に光を当てたが、けっきょくその無意識は脳機能や、コーチングや、プロファイリングといった「人間の脳を機械のように分析しコントロールできる」という考え方によってかなり歪められ、わかったことにされつつあるのだ。でも、これは二十世紀の断末魔。最後のあがきだ。それもたぶん、もうそろそろ時代遅れになる。
限界の時代。可能性ではなく限界を見る時代。可能性という幻想を捨てる時代。限界という共通認識は限界の向こうの具体的な創出でもある。
 
by flammableskirt | 2010-12-28 13:33

仲良しの奇蹟

クリスマスの今日、気温は下がり、激しい西風が吹いている。皮膚が切れるような寒さ。
これが冬だなあと思う。白い光の冬景色に強風が吹いている風景は、妙に厳かで美しかったりする。
クリスマスのミサ曲と、ビートルズのクリスマスソングをYouTubeで同時に聴いたら、めっちゃシュールでいい感じだった。こういう楽しみ方もあるんだなあ。それは、晴天の強風のクリスマスと共鳴していて、わけのわからない世界の不条理、その混乱に似ている。

人口3万人にもみたない小さな町で、地域の人と繋がりながら暮らしていると、社会を変えようという発想には立てない。自分のできることの限界を知る。私にできるのは、人と人が安心してお互いの弱さや辛さを認めあえる場を作っていくことくらい。人と人は仲良くなるほうが幸せだ。少なくとも、仲良しが集まる場には個人のポテンシャルを上げる力が働く。

ビートルズを見ていていつも思うのは、この四人は仲良しだったんだな、ということだ。モンキーズを見てもそうは思えない。そりゃあそうだ。モンキーズは全米からオーディションで選ばれた四人だけれど、ビートルズはもともと四人が友達だった。たまたま集まった四人が天才だったんじゃない。彼らが仲良しだったから、お互いを安心して出せた。喧嘩もできた。自分をさらけ出した結果としてそれぞれのポテンシャルが上がったとしか思えない。そういうことはよくある。可能性というのは誰かが発掘するものじゃなく、安心して対話ができる場のなかに開花していくものなんだと思う。

だけど、今度は「個人のポテンシャルを上げるための場」というふうに、場が目的化されてしまうと、もうそれだけで場の力は失われていく。目的があることは大切かもしれないけれど、それが人間に向いてはいけないと思う。人間を変えることを目的にしてしまったら、魔法は効かなくなる。それも経験的にわかる。

方法論化しても力は失せるし、目的化しても力は失せる。場というのは見えない生命エネルギーの働く環境なんだけど、それをあえて出現させるためにあざとく立ち回った瞬間から、そのエネルギーは循環しなくなる。なんて不思議なものなんだろう。つまり、場のエネルギーの函数がわからない。

たぶんそれは人間の認識能力の限界と関係があるのかもしれない。私たちはものごとをズレてしか認識できないから、ほんとうに大事なものは、いつもブレて見えて、かすってしまうんだ。そんな気がしている。それはこの物理世界に生きていることの限界なのかもしれない。

ただ、人と人とが仲良くなる。そこに働いている、宇宙の神秘について、私たちは知ることができない。でも、人と人は仲良くなれるし、仲良くなることで力は何倍にもなり、可能性は開花する。人間ってのはほんとうに不思議な生命体だなあと思う。
by flammableskirt | 2010-12-25 12:06

脱皮

世界は自分を固定しようとする。
他人はいつも過去の影に自分を貼りつけようとする。
それを振り払って飛び去るには血が流れると思っていた。
ぴりぴりと剥がれた皮膚から血が滲んで風が染みると思っていた。
その痛みが幻痛であることに気がついたのはごく最近のことだ。
おやまあ、ぺろりとひと皮脱いでしまえば、もう私をそこに留める者など誰もいないのに、
なぜあんなに痛いと思っていたのだろう。
いまやつやつやとした新しい皮膚とひとまわり大きくなった身体を手にいれて、
好きなところへ行けるではないか。
脱皮の仕方を覚えたのか。
剥がれ落ちていく必然を待てるようになったからか。
待つということは、死ぬことを忘れて生きていることと似ている。
いつか死ぬ日が来るのを、忘れて生きているけれど、
人はほんとうは、死ぬ日を待っているんだろう。
そして、いつかその日はやって来る。
つるんと脱皮できれば、血は流れないのだ。
日々、その練習というわけだ。
by flammableskirt | 2010-12-24 16:42

クリスマスポプリ

今夜はささやかに家でクリスマス会を。
クリスマスのプレゼントにポプリを作った。庭のハーブとか、育てたドライフラワーで。
台所用のネットを使って即席ポプリだ。香りゼラニウムとセージ、ラベンダーとバラとドライフラワーの組み合わせ。この葉ゼラニウムは独特のすーっと爽やかな匂いがするので、甘ったるくならなくていいです。
いかにも芳香剤のような香りよりは、スパイシーな香りのほうが冬には似合うね。
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材料費もゼロ。部屋につるしてもらえるようにしました。
ま、見た目はよくないけれど手づくりということで(笑)
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ベランダの寄せ植えもクリスマスっぽくしてみた。かわいいぜ!
個人的に盛り上がる一人クリスマス祭り。わはは。
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by flammableskirt | 2010-12-24 15:21

イブの雑感

クリスマス・イブです。
みなさんはどんなクリスマスをお過ごしですか?
二十代の頃、クリスマスの予定がないと激しい挫折感をもったものですが(笑)あれも青春の思い出という感じだなあ。週末やクリスマス、お正月、街に人が溢れる時に時分が同じように誰かと楽しそうにしていないと、ほんとうに世界から取り残されたような気分になっていた。

二十歳の頃の人恋しさといったら、あれはもう神経症という病気だったのでは?と思うほどだ。
とにかく、発狂しそうなほど人恋しくて、誰かといっしょにいたくて、一人でいると淋しくて、なんかもう飼い主を求めてる犬みたいだった。そのくせ、なにをやっても充たされない……というか。とにかく二十代はどうかしていました。人間というよりも動物のようだった。感情のコントロールはできないし、余裕はないし、貧乏だし、体力と瞬発力だけで生きていた。燃費が悪かったなあ。淋しいのでいつも誰かと一緒で、飲んでいて、落ち着きがなくて、生活もめちゃめちゃで、それでもさしたる病気もせずに生き抜いてきたのだから、この身体に感謝だ。体力あったんだなあ……と、いまになって思う。傷ついても、落ち込んでも、死にたくても、むくっと起き上がってめし食って酒飲んでた(笑)
自意識も、パワーもなにもかも過剰なのは境界性人格障害だった父親譲り。その過剰な自分の舵がまったく取れなくて、あっちへうろうろこっちへうろうろ、もう自分をもてあましていたような20代、30代は、毎日がロデオって感じ。

正直、ああいう若い頃にはもう戻りたくないです。また若くしてあげると言われてももういい。もう若くなくていい。ほんと大変だったから、今のがいいってそう思う。
あんなテンション上がりっぱなしの、暴走するトラクターみたいな状態の自分にはほとほと疲れた。
いま程度でようやく自分がほっとする。信じられない。半世紀も生きてやっと自分をコントロールできるようになるなんて……。アホちゃうか?私。

クリスマスに、まったく挫折感をもたずに一人でのんびり楽しめる自分。
ああ、なんて楽なんだ。今日、起きて朝日が気持ちいいなあとしみじみ思う自分。予定とか、人と会わないと淋しいなんて思わないで、一人でいることのほうがくつろげる自分。うわあ、もう夢みたい。こういう自分になりたかったんだよ、ずっとずっとずっと、若い頃から。

マイペースだと思われがちだけど、ぜんぜんマイペースじゃなかった。自分で自分のペースがコントロールできないんだから、他人からどう見えてもマイペースじゃない。マイペースを作ることができないんだから、マイペースでやれって言われても無理。
いやもう、マイペースってのがどんなに達人の生き方かよくわかる。マイペースってのは、お腹のあたりに重心があって、他人の言葉にいちいちあたふたしないで、人からなにを言われてもそういう自分でもまあしょうがないと諦めて、自分が思ったことを比較的ブレがなく伝えられて、なおかつ、自分がそこにいることを楽しんでいられるっていうか……、周りのことも見えていて、適当に場にも合わせつつ、やるべきこともやりつつ、さらっと自分のやり方も通せる……というか、そういう自分になりたかった。でもまったくダメダメだった。

それがどうよ、半世紀も生きたらなんだかやれてるじゃないの。わー。だったらあと10年生きたら、今度はもっと自分ってものが引っ込んで、場を活かすような立ち振る舞いや、人をひきたてるさりげない言葉が無理なく出てくるようになるのかなあ。もう自分のことはどうでもよくて、みんなが楽しく過ごすためにすっと動けるような自分になれるかなあ。そういう自分が快適になれるかなあ。そうなったら生きているのも捨てたもんじゃないなと思う。

こどものころから「こんな人になりたい」っていうイメージがあったのに、まったく自分はそれにそぐわなかった。だんだん年をとってきて、もう人生も折り返し点を過ぎてからようやく、なんだか自分がなりたい自分と近づいてきたように感じる。もっと若い頃にこうなりたかったんだけど、しょうがないね。なにしろ若い頃は10年かけて自分がなにかする……なんて考えられなかった。時間は早ければ早いほどいいと思っていたから、時間をかけることが苦手だった。急がないと間に合わないと思っていた。ほんとうにその感覚から逃れられなかった。遅れる、遅れる、って。
でも、なにに間に合わないと思っていたんだろう。根拠はなかったんだよな。
あんなに急いでいたくせに、焦りすぎて無駄なことをいっぱいしていたな。
残りの人生はていねいに生きたいと思う。最近、こればっかりだ。時間をかけて、ていねいに。
人生の残り時間が少なくなってから、時間をかけることを覚えるんだから、まったくアホである。次回があるなら、次はもっと早くから焦らない人生を送りたい。
by flammableskirt | 2010-12-24 11:58
十二月に入ってからずと外出する日が続いている。
R太君が、チューリップの球根をくれたのだけれど、それを植えつけることができないでいた。寒かったけれど、今日は気合いが入ったので思いきってベランダを整理してチューリップの球根をプランターに植えた。
日曜日、藤沢に講演に行ったとき、主催者の方からバラの花束、それもすごく立派な花束をもらった。それも花瓶にさしっぱなしで、ちゃんと活けていないのが気になっていた。長持ちするように水切りをして、花を活けてみた。

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藤沢のみなさま、お花ありがとうございました。
とってもきれい、まだこんなに元気ですよ。

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去年からベランダに植えっ放しになっているシルバーリーフ。バラと合わせるとぐっとクリスマスっぽくなります。シルバーリーフは強い植物なのでぐんぐん育って、見た目地味だけれど脇役としては冬に大活躍するんだよね。

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これは友人のR太君がプレゼントしてくれた寄せ植えで、とっても色合いがかわいい。センスいいなあ。配色がめっちゃいいです。

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この花瓶もプレゼントなんだけど、形がすてきでしょう。一輪挿しがとっても映えるんだよね。ほんとかわいい。
小さいけれど安定がいいので、大きめの花も安心。

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同じく、バラといっしょにいただいたユリも飾りました。ユリは大好きな花です。ユリの花を飾ると子供の頃を思いだすんです。庭にユリがいっぱい咲いていたので……。

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寒くなって、紅茶が冷めやすくなったので、ゆうべポットカバーを編んでみました。かぶせてみたら全然冷め方が違う!まあ、ポットの腹巻きみたいなものだからな(笑) 最近、娘とお気に入りのキャロルという紅茶。カフェインが入っていないので紅茶嫌いの娘もよく飲む。クリスマスケーキみたいな味で、ミルクティにするとほんわかします。

あさってから、また出張だ。
とにかく、部屋もベランダもきれいになった。
こういう日常の細々とした雑用って、瞑想と似ている気がする。
とりかかっている間、頭が真っ白でなにも考えていない。
すごくリラックスして、ぼーーーーっとしている。
こういう時間、すごく久しぶりだ。なんだか生き返った気分。
明日は、ごりっと仕事ができそう。
by flammableskirt | 2010-12-16 16:47

イグアナを飼う女 

「イグアナを飼う女」を観た
山崎哲演出/劇団新転位21
シアターイワトにて公演中

山崎哲さんの舞台は怖い。いつも怖いが今回は特に怖い。怖いということは明言しておく。この文章を読んでもし観に行くのであれば覚悟して行ってください。
シャーマニックな怖さである。

そうだな、ある部族のなかの一人の女性が惨殺される。
その女性のために部族の者たちが車座になって歌い踊り演じ、また、巫女が女の霊に憑依し、女の苦しみを表現し、最後に花を舞い散らせ女を鎮魂する。その儀式の一部始終に立ち会い、死者が戻って来るのを見てしまった時の怖さ。そんな感じだ。

この芝居は鎮魂の儀式以外のなにものでもなく、観客はいきなり霊的でシャーマニックな儀式の中にとりこまれていくため、慣れていない人はこの場の雰囲気を嫌悪するであろうし、劇場を退出後になんらかの心的な影響を受けてしまうかもしれない。であるから私は、感じやすい人にはあまり勧めない。ちょっと危険だと思う。
その危険を回避するために形而上学的なもう一つの枠組みを最後に付け加えて、重層的な構造を作りだそうとしているけれども、今回に限り、その試みは失敗している。
劇中劇という二重構造を設定して危険回避を試みてもいるけれど、それも失敗している。この劇中劇はすごく面白い。だけど、危険回避という目的のためには機能していないのだ。

演劇空間の起源へと回帰するような舞台であり、縄文時代に演劇はこのような目的にために演じられていたのだろうと思う。プリミティブである。でも危険。なにが危険かといえば、こんなことをしたらほんとうに霊を呼んでしまうからだ。だから、公演という目的でやってはいけないと私は思っている。観に来ている人も、演じている側もかなりマージナルな領域に立たされる。
こういう冒険には加わりたくない。もっとしっかりと枠組みを作って、日常と切り離して、構造化しなければ、無意識にコンタクトしすぎる。……と、神楽坂を降りながら思った。私はかなりびびった。
by flammableskirt | 2010-12-04 15:33

幸せが陳腐に見える

「魔王の愛」著・宮内勝典 新潮社

私は宮内勝典さんという作家さんが好きである。好きであるのだが……。
宮内さん個人を知るまでは、ちょっと苦手まタイプの人かもなあと思っていた。宮内さんの作品に漂う真面目でペシミスティックな雰囲気が、私のようながさつなおばさんには「繊細すぎてつきあってらんないわ」的に感じられたからだろう。でも、宮内さんが小説にするテーマにはすごく魅かれる。興味をもつ範囲が自分と似ているのである。よって、本が出るたびに買う。うーん、宮内さんはこんなふうに書くわけだなと唸る。
数年前まで、私は宮内さんと一面識もなく、無責任で能天気な愛読者だった。

宮内さんは数年前に、ヴェトナムの僧侶を題材にした「焼身」という作品を書いた。
その取材のためにヴェトナムを訪れた時に、カントーという港町で一人のボート漕ぎの女性と知りあったという。そして、その女性から「あなたは日本人か? 日本人なら田口ランディを知っているか?」といきなり聞かれたそうなのである。宮内さんは、
「知っているけれども、面識はありません」と答えると、
「もし、彼女に会う機会があったら私は元気だと伝えてください」と言われたという。
誠実な宮内さんは、いつかそのことを私に伝えなければと思っていたそうだ。
で、ミクシィを通して知りあった私に、彼女の伝言を伝えてくれたのである。
そのボート漕ぎの女性は私の最初の旅行記「忘れないよ、ヴェトナム!」に登場するボート漕ぎのオウに間違いない。オウが私のことを覚えていてくれたことがすごくうれしかった。同時にオウは私と宮内さんを結びつけるという、すごいプレゼントをくれたのだ。

宮内さんの「焼身」はノンフィクションとフィクションの狭間にある不思議な小説だった。私は「焼身」を読んだ時に「この文体はとても宮内さんらしいな、また、題材への迫り方も作家にしかできない大胆さがあり実に面白いなあ!と思った。だから、次に宮内さんがガンジーという二十世紀の偉人をどう料理するのかものすごく興味があり、早く次作を読みたいな読みたいなと思っていたのだ。その「魔王の愛」がついに11月に出版された。もう、一気に読んだ。そして「えーっ!」と思った。

この作品は、いままでの宮内さんと違う。明らかに違う。なんだこれは!
というわけで、すぐさま宮内さんのところに飛んでいって、宮内さんと作品の話をしたくなったのだ。「宮内さん、ぜんぜん違うよね、なんだかすごくいいです。私、この文体好きです」と言うと、宮内さんはちょっと照れながら「いやー、ゆるすぎやしないかと心配で……」と言う。「いいえ、ゆるすぎるなんてことありません。私ら一般人にはこれくらいのゆるさがちょうどいいです。それに、この作品、ものすごくシビアな内容を扱っているのに、ユーモアがある。私、これまであまり宮内さんの作品にユーモアを感じたことなかったんだけど、この作品は、あの偉大なるガンジーを、皮肉ったり、いじめたり、笑ったりしているようなところがあり、同時に、作家である宮内さん自身も、情けなく、可笑しみをもって、自分の弱さを露呈しているところがあり、そこがとても共感できるんです。私はこの作品を読んで初めて、宮内さんていう人のメンタリティに触れた気がしました。きっと、この作品を通して宮内さんのファンになる若い人は多いんじゃないかなあ!」と、すごい勢いでまくしたててしまった。
いっしょに井の頭公園を散歩しながら、吉祥寺の蕎麦屋で蕎麦を食べながら、公園のカフェでお茶を飲みながら、宮内さんの作品の変化について語り続けた。
宮内さんは「やっぱり歳とともに自我がね、ゆるくなったんだろうね……」そんなふうに笑った。
そうかー年をとったら、楽に書けるようになるのか、いいなあ。
年をとってどんどん自由になっていくって素晴らしい。それは宮内さんが文壇というものから距離を置き、ずっと一人で、寡黙に自分のやり方を貫いてきたことの結果として獲得した自由なのかもしれない。しがらみに生きれば生きるほど、人はがんじがらめになり身動きがとれなくなるものだ。
年とともにどんどん自由になっていく、どんどん、書きたいものが書きたいように書けるようになっていく。それがやっぱり理想だよなあ……と、思う。
「魔王の愛」は宮内さんが、インド独立の父であるガンジーの謎に迫る形で語られるけれども、そこに込められていたのは「人はみな精いっぱい自分を生きるのみだ」という、ものすごく強い肯定的なメッセージだった。人はこの世に生まれ落ちた瞬間から、環境に左右され、肉体に牛耳られ、屈性し、困惑し、歪み、妄想する。それが人間だ。その屈折を生ききることの清々しさを感じた。幸せなんて陳腐に思えるほど、苦渋の個性を生きることの醍醐味が伝わってきた。それはきっと、人とかなり違う個性をもって生きてきた宮内さんが「年をとった」ことで到達した心地よい諦めの境地でもあるんだろうな。
by flammableskirt | 2010-12-04 15:13