田口ランディ Official Blog runday.exblog.jp

作家 田口ランディの新刊・イベント情報・近況をお知らせします。 


by flammableskirt
プロフィールを見る
画像一覧

<   2010年 09月 ( 9 )   > この月の画像一覧

人間の弱みを知ること

 今朝の新聞で、「広島市が単独でオリンピック招致に……」という記事を発見。たまたまだけれど「なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか」(河出書房新社)を読み返していたところだったので、オッと思った。
 たとえば、オリンピックの聖火リレーの火に「原爆の火」を使うなんてことが……と真っ先に思い浮かんだ。いや、まさかそれはないだろう。
 日本は戦後の復興をかけて東京オリンピックを開催した。北京も先進国への仲間入りをかけて……。オリンピックというのはなんだろうか。「いま勢いがありまっせ!」という自己主張のように私には感じられる。もちろん他にもいろんな政治的な意味があるんだろう。シドニー五輪でアボリジニの人たちが踊ったように、次に日本で開催されるときはアイヌの人たちが踊るのだろうか。それはそれできっと意味があるのだ。そう思う。だが、なんだか乗れない。乗り切れない。お尻が半分はみだして落ち着かない。
 今年、長崎の原爆資料館に行って四時間かけて展示を見てきた。ボランティアのガイドの方がていねいに案内してくださった。展示の最後、マンハッタン計画以降、世界が保有する核兵器の数の増加を年代を追って表示する年表があり、それを黒人女性の見学者が熱心に見てメモを取っていた。彼女はその展示によほど感銘を受けたらしく、仲間らしい別の白人女性と男性をわざわざ呼んできて「見て。この資料は実に興味深い、すごいわ」と言って、展示に顔をすりつけるように書き写していたのである。
 原爆の威力を表現した館内の展示は多い。被爆した人たちの写真、爆心地の荒れ野の風景。でも、そこではなく、延々とひたすら国ごとの核実験の回数が羅列された年表に、その黒人女性が釘付けになった意味が私にはわかる。
 私も同じ気持ちだったからだ。ずっと、あの恐ろしい展示を見てきて、さあもう終りますよという明るい場所に出る。やっと平和な現代に戻りました。そこに年表がある。そして、核実験が過去から現在に至るまでどれほどの回数を繰り返されてきたのかを知り、唖然ぼう然とするのである。
 こんなに?!と。
 それを見たとき、私には死ぬまでオナニーをやめられない猿がイメージされた。ああ。それが我々なんだと思った。この、我々は人間ではなく、まだ猿である……という、奇妙な実感はこの年表を見たときに初めて想起された。それまで、どんなに傷ついた人々、核兵器に破壊された大地を写真で見ていても、そこに「人間」の営みが感じられてしまったのだ。ところが、最後に来て、近代的な建物の原爆資料館で、1940年代に誕生した核兵器が、ひたすらひたすら増殖し、その実験を飽きることなく繰り返している現実をただ明記しただけの年表を見たら、なにかが砕けたのである。
 数字というものは時として妙な力をもつ。感情抜き。そこに現実がある。これはなるべくして増加している必然であるという予感。その必然が行き着く先も見える。どうするか、この増加曲線がカーブを描くのか、途切れるのか。
 核の問題を語る上で重要なのは、落とされた側の言い分ではない。落とした側の言い分なのである。加害者はなにをもって正義としたか?である。落とされる方はただ落とされるのみである。落とす側の理屈に屈するしかない。「力」を行使する側の論理になんらかの正当性があるのであれば、それを変えることは難しい。感情論では解決できない。そういうレベルではないところに核の問題はとうの昔に来ていることを、最後の最後にこの年表が突きつけてくる。国益、つまり経済的見知から考えて核の行使にはまったくメリットがない、ということであれば誰が予算をつぎ込むか。核実験にはメリットがあると考えているから行われるのである。
 そして、これは先日、明治大学の水俣展において「自分が公的な立場に立ったなら、水俣病患者ではなく工場の社員や市民生活を守ろうとするのではないか」と答えた人が全体の半数以上存在したことと無関係ではない。私たちにとって優先されるべきことは、多くの場合は所属している集団、組織の利益である。
 その意味において、日本が原爆の被害者であり続けるという感覚はどこかで()で括らなければならないだろう。それはそれとして、人間は時として他者の生命よりも「所属集団の利益のために行動する」ことが正しいと感じ、そうしたいと願ってしまう、きわめて社会的な存在であるという理解。
 原発に関してもしかり。私だけは違うという安易な発想は棄てるべきである。所属集団への忠誠や利益供与のために行動したいと感じる個人を悪とせず、そういう傾向のある『人間という種』が、重大な決断をする場合の手順や方法論を、世界がいっしょに模索していく時期に来ている。 
 広島へのオリンピック招致が、世界の人たちの心に核兵器への関心を呼び戻し、核廃絶に貢献することはすばらしい。それに対してなんの文句もない。私が危惧するのは、広島という現実の悲惨さゆえに多くの人が「被害者感情」に、よりシンパシーをもつことだ。私たちは「加害者の問題」を自分の問題として扱っていかない限り、核をなくすことはできない。人間の性質や、行動に対する理解、それによって生じる弱さの共有と克服こそ、議論されなければならない問題だと思っている。
by flammableskirt | 2010-09-28 12:01

明治大学をお借りして自主ゼミのようなものを始めます。
「ダイアローグ研究会」こと略してダイ研。

ダイアローグ研究会とは?

科学技術の進歩とともに各領域の多様化・専門化が進んでいます。
細分化によってそれぞれの専門領域が確立する反面、その結果として言語や価値観の著しい相違が生じています。人間の生命に関わるような重大な社会問題に直面しても、この言葉や価値観の壁が障害となり当事者同士の対話が成立しない状況を引き起こしています。違う領域の者同士がどのようにして対話のテーブルに着き、対話を始めるかはあらゆる分野において大きな課題です。
でも、私たちは『対話』とはどのようなものだと考えているのでしょうか。対話の定義自体も曖昧なままで対話を始めていることが多いのではないでしょうか。
このダイアローグ研究会は、学生にみなさんといっしょに『ダイアローグ=対話』を実践的に模索します。身近な問題を題材にしながら対話の可能性について考えるために、まず対話を体験してみること、を目的としています。半年を一期とし、一期を通してひとつのテーマについて、毎回ゲストスピーカーが発表します。その発表を受けて参加者が発言する形式をとります。
まずは、この講義を体験してみませんか?
c0082534_1053327.jpg


第一期初回研究会開催日程
2010年10月21日(木)※隔月の木曜日を予定
18:00~21:00
場所 明治大学リバティタワー1085教室
スピーカー 北村正晴
「対話の可能性を探る~原子力施設立地地域での経験から」
学生 1000円
一般 2000円
主催『ダイアローグ研究会』
*以下のメンバーがゼミナリストとして参加します
北村正晴 東北大学名誉教授  リスクマネジメント
竹内整一 鎌倉女子大学教授   日本思想
大森正之 明治大学教授     環境経済
林志行  早稲田大学大学院教授 経営デザイン 
辛淑玉  人材育成コンサルタント
田口ランディ 作家

●大学、学部に関係なく大学生、大学院生なら参加できます。
●基本的に学生を主体にした研究会ですが、一般の方も参加できます。

第一期第二回研究会
12月2日(木)
18:00~21:00
場所 明治大学リバティタワー1085教室
ゲストスピーカー 田口ランディ
詳細は、10月21日にお知らせします。
by flammableskirt | 2010-09-15 10:57
Voice & Body
声と身体のワークショップ開催
巻上公一&田口ランディ


ありがとうございます。定員に達したので締め切りました。
世界のヴォイスパフォーマーにして、中国武道の達人でもある音楽家・巻上公一と作家・田口ランディがワークショップを企画しました。少人数の一泊のワークです。湯河原温泉に泊まって、自分の声や身体を発見してみませんか?湯河原在住の二人が、いい温泉と、おいしいご飯を厳選して企画した、最高に楽しいワークショップですよ。
2010年
10月16日(土)~17日(日)

集合場所 神奈川県湯河原町 温泉旅館「大観荘」
集合時間 10月16日 15:00
費用 3万5千円 宿泊料・懇親会代込み
※交通費は含まれません
定員 10名

申込先 info@tatsumix.net
メールをいただければ詳細・振込先をご連絡します。
c0082534_15375321.jpg

「面白い声、深みのある声、いいかげんな声、最高の声、はみだした声を、思いっきり出してみませんか?声帯の可能性を追求し、拡張していくことによってあなたも、今まで表現できなかった感情や状態を表すことができます。小さな声帯から極楽が生まれる」 巻上公一

c0082534_15401312.jpg

巻上公一さんは世界的なボイスパフォーマーでもあり、その技術は日本よりもヨーロッパで高く評価されています。残念なことにこれまで日本ではヴォイスパフォーマンスがあまり一般に認知されていませんでした。最近になってようやく、声のみを使ったアカペラなどの表現が注目されるようになってきました。

身体を通して表出する人間の声は、人間にとって最初の楽器でした。声は身体と精神の情報をもってます。私の声は私だけのオリジナルで、私は声によって世界と呼応しています。今、私たちは改めてそのことを思いだしているのかもしれません。
「自分の声があまり好きじゃない」「声を出すのが得意じゃない」「大きな声が出ない」「自分の声がしっくりこない」実は自分の声に対してみんないろんな思いをもっているんじゃないでしょうか。もっと声を意識してみませんか?

このワークショップはヴォイストレーニングではありません。どちらかと言えば声と身体そのものを使って、自分の感じたことをより自由に表現するための、パフォーマンスアートのワークショップです。ふだん使わない部分の声帯を刺激したり、ふだんの生活では使わない身体の筋肉を動かしたりします。それによって自分の声と身体を再発見する試みです。
あまり”普通”のことはしないので、その点はご了承ください。
身体を使って表現する”快感”を体験してもらえたらうれしいです!
田口ランディ



スケジュール
16日(土) 15:00 集合(遅れても大丈夫です)
      16: 00 巻上公一&田口ランディ
           「超歌唱法」レクチャー
          「ほんとうは知らない自分の声と身体」
      18:00 親睦会&夕食
      20:00 各自自由に温泉に入り就寝

17日(日)  7:30 朝食
       8:30 準備運動
       9:00~5:00 ワークショップ
       巻上公一&田口ランディによる集中レッスン
       5:30 解散 
            
by flammableskirt | 2010-09-10 15:48

間柄って、どんな柄?

幼児虐待というテーマのシンポジウムの出演依頼。
ぼんやりと朝からそのことを考えている。

虐待とは直接関係ないけれども、子供が中学二年生になるまで、それなりにいろんなことがあった。細かいことだけれど、そういう小石がたまっていって、身体も心もどんと重たくなるんだと思う。小石は捨てられないけれども、この小石は軽くすることができる。誰かと共有するたびに軽くなる。不思議な小石だ。

子供のことは、身近な同級生のお母さんが一番頼りになった。でも、お母さんたちとつきあっていくことも難しい。私はたまに新聞とかテレビに出たりもするので、ちょっと相手にひかれがちである。本を読んだことのある人は「ファン」という形で接近してくる。これだと永遠に友達にはなれなくなる。自分で言うのもなんだけれども、地域で誰かと友達になるにはちょっとしたハードルがある。自分の側にも相手の側にも……だ。

ぶっちゃけ普段着のままで「これが私です」を通すしかない。そうするとだんだん「なんだ普通の人なんだ」ということになる。それまでの期間が、微妙であり、そこはかとない居心地の悪さというのがある。

お母さんというのは、組織化されていない。帰属意識というのが特にない。特別な塾や、習い事、サークルに所属していれば別だけれど、そうでなければ授業参観に集まってきたお母さんには、それぞれに別々のバックグラウンドがある。なんとなく気が合う人、共通点などを探り合いながら、お近づきになっていくというのは、わりと高等テクニックであり、それだけで気苦労を感じる人も多いんじゃないかなあ。

つきあい、というのは人によってもイメージが違う。どういうつきあい方をするのがベストか、なんてことはマニュアルはない。その場その場だ。自尊心、自意識のもちかたがとても左右する。自尊心が高い人は、常に相手にバカにされないように気を配る。ほんとうに自尊心が高くて自分が好きな人は、人はどうでもいいものであるが、そういう人は少ない。自意識の強さは常に他人が自分を意識して動いているような錯覚を起す。なんでも、自分を中心に因果を考えている。そして、私も含めてだけれど、自分がどういう人間なのか自分ではよくわからない。

そういう状態で他人の反応だけを見ながら、集団のなかでたちふるまうというのは、ほんとうに骨の折れることだけれども、幼稚園、保育園、小学校と、母親が地域の教育場面をかなり支えており、なにかにつけて招集をかけられて、見ず知らずの相手といっしょに給食費を計算したり、垂れ幕を作ったりしていかなければならない。

みんな実にうまくその人間関係を泳ぎ切り、情けない義務教育を根底で支えているのだから、世の母親というのはなんとレベルの高い人たちだろうと、つくづく感心したりする。でも、やっぱりこれは相当に難しいことで、がんばっても出来ない人はいるし、そうなると学校にも出てこない。そして横のつながりが絶たれて、一番、迷惑をするのはたぶん子供なんだと思う。

子供にしてみれば母親が他の子供の母親と、気心の知れた関係であり、なにかの折りには助け合っている……ということは、一種のセーフティーガードだ。同級生の母親の何人かと、自分の母親が交流がある場合、子供は心のどこかでほっとしていると思う。年がら年中、いっしょにくっついているということではない。なにかあった時に「お迎えお願いできる?」と声をかけられる程度の間がらでいいと思う。でも、この「間柄」という柄は実に曖昧で抽象的な模様なのである。

対人スキルというのは、学校で習うことがない。そんなことは大人になれば自然に身につく……というのが、日本人の考え方だ。この国に異文化の人がとても少なかったから、いままでは全員が雰囲気を読めるはずだったのだ。

でも、すべての人がそうだとは限らない。ある場面において自分がどう対応していいのか、ということがよくわからないお母さんは、たぶん一つの学級に3,4人は確実にいるのではないか?と思う。なんだかそんな気がするのだ。私ですらこれほど困難に思っていることを、皆がそう易々とやっているとは考えられない。それぞれに苦労しているのだろう。

そして苦労が実ればいいのだけれど、まったくボタンかけ違ってしまって挫折し、傷つき「もうダメ」と引っ込んでしまう人は多いんじゃないだろうか。
だいたい人間は、自分の親を見て対人スキルを学ぶので、手短に手本となるような大人がいなかった場合、子供の対人スキルも下がると見てよいと思う。対人スキルというのは社交というよりも、ある緊張場面で葛藤を強いられ時に、どう対処するかということだ。明るく振る舞っていても、葛藤が生じた時にまったく対応できないで、ものすごい墓穴を掘るという人は、これまたけっこう多いのである。

虐待を食い止めるために、虐待するお母さんを支援する……というのは、火事になったから水をかけるみたいな方法なんだよな。火事は起こるが、あれ、焦げ臭いなと誰かが気がつき、大丈夫、と声をかける。これが最良のセーフティーネットだ。気心の知れた間柄になること。でも、この「間柄」という柄の服はオーダーメイドなのである。自分で手づくりしなくてはならない。
裁縫が苦手な人はどうしたらいいんだろう? 
by flammableskirt | 2010-09-10 10:32

アカペラ・音の記憶


地元のお母さんたちのアカペラグループに所属して一年になる。アカペラを唄ってみたいな〜。だけど、音符も読めないし音楽の知識もないけど大丈夫かな、と思っていたところに、父母会で出会った近所のお母さんから「いっしょにやろうよ!」と誘われてその気になった。

が……、絶対音感などもちろんなく、音の取れない私にとってはもう耳で聞いて覚えるしかなかった。ピアノの弾けるお母さんが課題曲をピアノで弾いてCDにいれてくれる。それで練習している。私の音域はソプラノよりやや低く、メゾソプラノ。これは主旋律を唄うソプラノのすぐ下にいて、微妙にシャープやフラットがついた音が多いパートで、私のごとき音のとれない者はすぐに主旋律に引っ張られる。気がつくと主旋律を唄っている。

今回のテーマ曲は「ルパン三世のテーマ」で、歌詞はすべて「シャバダバシャバダバパパヤー」みたいな、あの、プロっぽいかっこいい歌なのであるが、リズム早く、これを三部で唄うのだが、私にとってはめっちゃ難しい。最初に自分のパートのピアノのCDを聞いて音をとろうとがんばっていたのだが、どうしても頭に入らない。

それで、5部構成で唄っている音楽CDを聴いてみた。プロの人がしっかり雰囲気を作って唄っている。あーもうとてもこんなことは無理とショックを受けるが、やはり音楽としてこちらの方がずっと面白い。

そして、音楽としてきっちりと唄われているこの五部構成の「音」は記憶として頭に残るということに気がついてびっくりした。何度繰り返して聴いても単調な「メゾパートを真面目に弾いたピアノ」の音は、まったく頭に残ってくれないのである。それなのに、ゆうべ夜、寝ながら口ずさんでみたら、まるで頭の中で鳴っているかのごとく、鮮明に、プロの人が唄っているあのメロディが再現されたのである。「うわっ、聴こえる!」と思ってびっくりした。音は正確だった。音の記憶というのはこういうものか……と、初めての体験に感動した。

もちろん、音の記憶をもっているが、それを意識したことがなかったのだ。自分がアカペラを唄おうなどと真剣に努力しない限り、音楽の記憶というのは情緒的で曖昧で、その音のひとつひとつに注意などしない。でも、今回は音を再現する必要があるので、その部分に意識的だったのだと思う。

へーー。と思った。人間っていうのはいろんな能力があるもんだなと。そして、少なくとも私の記憶に残るのは、どこかの誰かが、強い情熱とイメージをもって、それを表現しようとしたものであるのだなと、深く深く実感したのだった。

なにかしらの「思い」が、洗練されて表現となったものは鮮明に記憶に残る。そして鮮明であれば、再現が可能だ。私がトレースしたものはもちろん同じものにはならないけれど、誰かがこめた「思い」を私は受けとっているし、私がさらにそこに「思い」をこめれば、きっとそれも誰かにつなげることが可能かもしれない……。

そういうものが、ほんとうはこの世界をすみずみまで満たしていて、だから私たちはなにかを信じて、なにかを好きになって、なにかから力を得て、生きていられるのかなあ……なんて、思ったのだった。
by flammableskirt | 2010-09-09 09:31

台風

台風が来ると聞いて、雨が降る!とほっとする。
それから家の前の山を見て「こんなに雨が降らなくても山の木はぜんぜん平気なんだなあ」と思う。
青々と水々しい。すごいなあ。
by flammableskirt | 2010-09-08 09:12
どういうわけか今朝起きたら右肩が痛くてつらい。たぶん、これが世に言う五〇肩という奴なのだろう。見事に五〇で痛くなったのには驚いた。友人たちがいうには、とにかくいつのまにか治るのだそうである。
思い当たるのは、ここのところ、夜ずっと寝ながら本を読むこと。本を顔の前に持ち上げて支えている。あのせいではないか。というのも、この夏、眼鏡をかえたのである。ふだんは裸眼なのだが、本を読むときだけ眼鏡をかける。乱視が進んだためにレンズを替えたところ、ものすごく本を読むのが楽になってやたらと本が早く読めるにようになった。なんだ、眼鏡が合わなくて疲れて読めなかったのか、バカだなあ。早く替えれば良かったと思った。

ゆっくり温められたお湯で死んでしまう蛙といっしょで、じわじわ乱視が悪化していることに気づかなかったのである。自分の具合が悪いことがわからない。情けないが事実である。人間は自分のことが一番見えにくい。だからこそ嫌なことを率直に言ってくれる友人は大切なんだ。自分に違和を突きつけてくる相手が大事だ……と思い、なるべく私自身もそうであろうと思っているのだが、かなり失敗も多い。

昨日もある学会に行って、出会った発表者の方と昼飯を食べていた。そこにもう一人、同席している方の友人らしいやや年配の女性がやってきてテーブルに座った。私の真ん前だった。彼女が挨拶をした時に、歯になにかニラの葉のようなものがくっついているような気がした。でも眼鏡をかけていなかったのでよく見えない。食事時だし、食べたものが歯にはさまっているのかもしれないと気になり、どうしても口元に目が行ってしまう。なにかがはさまっている。言うべきかどうか……。考えて、私は小さな手鏡を取りだして前の席の女性に渡した。彼女はびっくりして「あ、なにかついていますか?」と言う。そして、自分の口を確認したのだが、そのまま手鏡を私に返してきた。その時に、私はそれがどうやら歯にはさまった食べ物ではない……ということに気がついたのである。だったらなんなのか、もちろん聞かずに席を立った。

で、五十肩だが、本がすらすら読めるのでうれしくて、毎晩、寝る前に本を何冊も枕元に積んで、一、二時間も読書していた。そうしたら、今朝、手が上がらなくなっていたのだ。なぜ、私はいつも度を越してしまうのだろうか。こんなことを続けていたら乱視だってさらに進むかもしれないというのに。
しかし、本がすらすら読めて楽しくてたまらなくて、Amazonで毎日注文してしまい、夕ご飯を食べたらお茶と本をもってベットに入り、それをだらだら読むことの幸せなこと……。

寝たままで本が読めるブックスタンドがあるらしい。その購入を考えている。だが、それだと寝返りして身体の位置を変えられないのではないか。そうなると今度は腰や首が悪くなりそうだ……。
by flammableskirt | 2010-09-06 11:31
9月に入ったら、てっぽう水が流れ落ちるように9月の雑務が押し寄せてきて、机の周りは水浸し状態。びしょぬれになったままの洋服を着てあたふたしている感じだ。大事な手紙とか、本とか、書類とか濁流に流されて「あれ?」と気がつくと、すでに締め切り間近。夏休みが終って社会が一斉に動き出したように感じる。

なんだか気分がそわそわしているので、今日は少し多めに時間をとって太極拳の稽古をしてみた。慌ただしい時ほど気分はゆっくりと……だ。そうでありたいと思うなら、そうであるように行動すること。

今週末は、東海大学で発達障害に関する学会でお話をする。来週末はトランスパーソナル学会だ。秋ってのは学会が多いのだなあ。学者じゃないのだが……。その翌週末は水俣明治大学展で講義、その翌週は青森縄文イベント、その翌週は北海道に講演……、そしたらもう10月じゃないか。9月は早い。うかうかしていられない。気を引き締めて一日を自分に刻み込むように過ごさなくてはと思う。かけがえのない2010年の9月。二度とない9月だ……。

最近読んで面白かった本(仕事で読み返して改めて……)。

「戦争論理学 あの原爆投下を考える62問 」 三浦俊彦   二見書房
論理思考の演習テキストである。この硬質な戦争犯罪への多元的なアプローチは私にとってものすごく新鮮だった。どうしても情に流されやすい「原爆投下」という歴史的事実のクリティカル・シンキング。
私が一番苦手とすることだ。

「沈黙と爆発 ドキュメント水俣事件」 後藤孝典    集英社
9月18日の水俣・明治大学展での講義のテキストです。
ここに印されている橋本彦七、初代水俣市市長についての講義をします。
橋本氏は水俣市の市長にして、水俣病の原因物質である有機水銀を排出する製造工程を発明した科学者でもありました。チッソの工場を退職して水俣市長に。しかし、彼が市長として在任している間に水俣病が発生。
この劇的な運命を生きた橋本氏の人生における人間としての葛藤をいっしょに考えてみたいと思っています。
読み物としても、非常に面白い。
by flammableskirt | 2010-09-02 15:32
今朝、こんなうれしいメールが届きました。
このブログを読んで、レチャットの記事を転載してくださったみなさん、ありがとうございました。
山元さんが、お友達のためにレチャットを存続させたいという思いをもたれたこともすてきですが、私はなにより山元さんが企業に対して「レチャットを存続しろ〜!」と強く主張するのではなく、何度も繰り返し「開発して、この製品を販売してくださった方々に感謝している、ほんとうにすばらしい製品だし、もっと必要な方たちがいるはず」という、製品を扱っている方たちへの感謝の思いでいっぱい、と、レチャットに関わる人たちすべてに感謝の気持ちをもって発言されていることがすばらしいと感じました。その姿に学びました。
私は、なにかを主張するとき、誰かを傷つけてしまうことが多いです。
でも、たいせつなのは、みんなの気持ちが一つになっていくことだよなあと思います。
もしかしたら、このことをきっかけに、製品を開発する人たちはもっとよいものを作ろうと思うかもしれない。
そういう、人の心の輪を作っていける山元さんに拍手です。



田口ランディ様

山元加津子さんから、パナソニックさんが存続決定されましたとご連絡ありました。署名はまだ会社に届けていませんが署名活動のうねりを知られての決定です。一人の踏み出す勇気が、動きを大きく転換させる
ことを実感させていただきました。近くを回られた方、祭りの会場で街頭署名された方とさまざまです。
集めて頂いた署名は山元さんまでお送りいただきたいとのことでした。
ブログの載せて頂き有難うございました。

レッツチャット開発者のお話が載っていました。ご参考まで。
http://panasonic.co.jp/ism/fukushikiki/letschat/index.html
by flammableskirt | 2010-09-01 09:31