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作家 田口ランディの新刊・イベント情報・近況をお知らせします。 


by flammableskirt
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ちまちましたこと

ようやく、盆栽の紅葉の新芽が出てきた。
過酷な環境で生きているから(小さい鉢)、芽吹きも遅いのかな。盆栽の新芽が出そろってきて、ほっとしている。
みんな生きているのかなあ……と、心配だったのだった。植物を育て初めてやっと一年になる。きっかけは去年の六月に宇都宮に行き、手塚さんという盆栽アートの作家の方とお会いしたことだ。あまりに植物がかわいらしく育っているので自分でもやってみたくなったのだ。一年たって、ようやく根が育って、いくつかの苗を盆栽にしてみたが、自分の美意識のために植物をこねくりまわしているようで、罪悪感を感じてきた。去年ばさばさ枝を落としてしまった木を見ると申し訳なくなってきた。植物の側に寄りそうようにして、育てていくのが盆栽なんだろう。手塚さんから買ったスギゴケなど、私の根性が反映してかずいぶんひねくれた風体になってきた。マンションで苔を育てるのはなかなか難しい。
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こういう盆栽などという、ものすごくチマチマした世界というのが案外と好きである。実は裁縫だとか、料理も好きである。その料理も余っているものをてきとうに料理する、という、ちまちました料理である。わざわざ食材を揃えて……ということではなく、ありものでそれなりのものが出来たときがうれしい。
このチマチマ感覚というのは、女の人には多いんじゃないかと思う。天下国家とはまったく別の場所でチマチマ暮らすことの喜びというのかなあ。
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ランががんばってずっと咲いている。このランもこんなに大きく育って花をつけるとは思っていなかった。おととし、父の闘病中に疲れていた私をいたわって夫が買って来てくれたものだ。ランがたくさん花をつけたのを見ると、人の生き死にと花の、世界の裏側の関係についてなにか予感めいたものを感じてしまう。

伸びすぎたクレマチスの葉とつるを、いったんぜんぶ刈り込んでみた。
クレマチスはまた成長して花をつけると聞いたからだ。さすがに刈るときに申し訳なくて「ごめんね、でもさ、こんなばさばさじゃ暑苦しいだろうし、辛いでしょう。だからさ、いったんきれいにするから、もう一度がんばって伸びておいでよ、いいね」と言い聞かせながら切った。バカみたいだなあ……と思いつつ、花というよりも自分に言い聞かせていたのかもしれない。とにかく、クレマチスは爆発していたのだ。そして葉が傷んでいたのだ。
丸坊主になったクレマチス。大丈夫だよね、夏はこれからだもの。
by flammableskirt | 2009-04-30 10:55

世界にイエスという


きれいなものには、誰でもイエスと言えるけれど、
汚いもの、穢れたもの、悲惨なものを肯定するのは難しいことだ。
私は、メキシコで幻覚きのこを食べたときに、
ものすごく汚いトイレが、汚いトイレのまま、燦然と光り輝いている……という、
不思議な体験をした。
きれいとか、汚いとかではなく、世界がイエスという、
そういうことはあるのだと思う。
ただ、ふつうの意識状態ではあの境地には到れない。
特別な時だ。
たとえば人が死ぬとき。
死んだ父の遺体はひからびたミイラみたいだった。
でも、メキシコの汚いトイレのように燦然と光り輝いていた。
こういうことは、人生にほんとたまにある。
それを体験できただけでも、生まれてきてよかったと思える。
by flammableskirt | 2009-04-29 16:04

KAZEさんの写真

外が雨で、一休みしてほっとお茶をいれて、久しぶりに友人のKAZEさんのブログを見た。

4月19日 家族

というタイトルの文章と、そこに添えられていた写真。
ちっちゃな女の子が生まれたての赤ちゃんにチューしている。
ああ、なんかすごくいいなあ。ほっとするなあ。
こういう春の冷たい雨の日に、この写真をぬくぬくと見ることができる幸せ。
そういう幸せはあるのだ。この写真によってもたらされた休息。
その後に続く、おじいちゃんとおばあちゃんの姿にも、
ほんのささいな、ふとした瞬間に凝縮されている全世界への存在肯定、そういうものを感じる。
もし、明日突然地震があったり、戦争が起ったり、ミサイルが落ちてきたりしたら、
みんなこんな一瞬を一番懐かしく思い出すんだろう。そう思うよ。
KAZEさんは、自分の写真のことあれこれと思い悩んでいるようだけど、
どうしてかなあ。KAZEさんの写真はいつも世界を全面肯定しているよ。
世界にyesと言っている。そういう写真だ。
それはきっと、KAZEさんにしか撮れないと思うんだけどな。
私はそう思う。
もし、無人島に一枚だけもっていっていいよ、と言われたら、
誰だって家族の写真をもっていく。
もし、自分の家族の写真はダメ、って言われたら、
このチューの写真を持っていきたい。
by flammableskirt | 2009-04-25 13:12

元気が出ること

担当編集の丹羽さんが「よしもとばななさんが、日記で『蝿男』の感想を書いてくれていますよ。すばらしい感想ですよ」と教えてくれた。出張がちであまりネットにアクセスしていなかったので、すぐに飛んで行った。それはもう、なんというか……、泣けてくるようなすごい感想だったのだが、あまりこんなことを大げさに書いてもばななさんは迷惑かもしれない。
『蝿男』という短編集は、私にとってはエポックな作品で、真面目になりすぎるところをどうやって開き直るか、というような試行錯誤から生まれた。それが成功しているのかどうかはさっぱりわからない。読者が決めることなのだが、読者の感想というのを聞く機会もほとんどなく、それが作家という仕事なのだろうけれど、ただ悶々としながら作品を書き続けている。なにかこう、そこはかとなく不安で、結局こんなものを書いても誰も喜びはしないし、なにも感じてなんかくれないのじゃないか……という、妙な虚無感と抱き合わせで生きている。でも、その虚無よりも好奇心が勝るから、こうして作家を続けていられるんだなあと思う。あるとき虚無が勝ったら、もう書けないだろうな、と思う。
小説を読んで、感想を言ってもらえるのはありがたい。
ほんとうに暖かい声援で、彼女の器のデカさをあらためて思い知る。
3月10日の日記です。
ほとんどどんな書評からも相手にされていないこの作品に、目を向けてくれたことに感謝。
どこかにいるかもしれない、この本を必要とする人に、届きますように。



by flammableskirt | 2009-04-25 10:29

べてるの家と武田さん

新潟で「浦河べてるの家」のみんなと久しぶりに合流。
潔さんも、下野くんも、佐々木さんもみんな元気そうだった。特に下野くんは、へるにあの手術をしてから引けていた腰が前に出たとか(笑)今回は、「降りてゆく行き方」の初公開で、主演の武田鉄矢さんも新潟入りしていた。
「べてるの家を最初に知ったのは、ランディさんの本からですよ」というこで、うれしかった。
勢ぞろいの記念撮影。先輩作家の横川さんや、編集者の白石さんとも久しぶりの再会。
なつかしい顔と語り合い、ほんとうに楽しい二日間だった。
翌日、私の朗読会に飛び入り参加した下野くんの歌は、ほんとにすばらしかった。
向谷地さんも、川村先生もお元気でなにより。
なんだか親戚と会った気分。みんなありがとう。また浦河に行くからね。
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by flammableskirt | 2009-04-22 18:10

考えるということ

和歌山県の毒物カレー混入殺人事件で、最高裁が上告を棄却。
罪を問われていた林真須美さんの死刑が確定したことになる。

冤罪ではないか、という声が上がるなかで、状況証拠の積み重ねによって死刑が確定したこの事件は、日本の裁判の歴史に大きな波紋を残した事件だと思う。厳罰化がすすむなか、死刑制度はこれからどうなっていくのか、報道を見たときなにかまた足下がぐらりと揺らいだような気分がした。

自分に正直に感情を露骨に表現すれば、私は、マスコミ報道によって林真須美さんのイメージをしっかりと脳に定着させられており、個人感情として彼女を好きではない。彼女の無礼な態度や、ふてくされた顔、むくんだ顔、そのようなものを繰り返し十年も見せられてきたのである。私が見た報道のなかで、彼女に好意的な映像は一つもなかった。よって、私は林真須美さんが嫌いになったのである。うまく条件付けをされたのである。

「田口ランディの顔が嫌い」と、まったく面識のないどこの誰かわからない人のブログに書いてあったのを読んだ時はショックだった。そういうことはままあるので、他人のブログはなるべく読むまいと思うようになった。うっかり自分のことが書かれていると本当に辛いからだ。私の顔が嫌いな人がいて、そう言葉にしている。その人はあきらかに私に悪感情をもっているのである。無根拠に。

そしてそれと同じように、私も林真須美さんが嫌いである。顔が嫌いである。私の顔を嫌ったどこかの誰かと。あるいは私の本を読んで「田口ランディの性格が嫌い」「考え方が嫌い」と言う人たちと同じように。だから人とはそういうものであるのだと思う。私が会ったこともない林真須美さんを好きじゃないんだから。

そして、感情は感情としていかんともしがたいが、それはそれ、これはこれと言える理性を鍛えたいと思う。人間はどんどんさまざまな情報から侵されており、いやおうもなく見てしまう映像に左右され、それに心動かされるのはどうしようもないし、それが悪くもなければ良くもない。そういうものである。感情はあるが、その感情とは別に、物事を考える癖をつけたいと思う。

物事を考える癖とは、つまり、考えるべき対象に自分が近づく癖である。考えるためには対象と関わらなければならない。だから、和歌山毒物カレー事件を考えようと思ったら、この事件について自分から近づいて、そこに入っていこうとしなければならないし、林真須美被告について考えようと思ったら、私が彼女に近づいていくしかないんだ。それが、考えるという行為なのである。

動機も証拠も、ほんとうに私を納得させる判決であるのかと言えば、そうではない。動機も証拠も決定的なものではないのに、なぜ上告は棄却されたのだろうか。混入されたヒ素に関しては自宅から検出されたものとの蓋然性が高い……であり、動機に関しては解明されず……であり、目撃証言は確実ではない。それでも上告が棄却されたのはなぜなんだろう。私にはよくわからない。棄却した裁判官の茄子弘平氏は「国民からみて、わかりやすく、使いやすい裁判」の実現が願い、http://www.courts.go.jp/saikosai/about/saibankan/nasu.htmlとコメントしている。
なるほど、確かに今回の裁判は国民から見て、わかりやすく、使いやすいかもしれない。大多数の期待通りに林真須美という女性は死刑確定になった。この場合は国民のなかに当事者は含まれるのだろうか。

明日、町内会の寄り合いで、お茶のなかにヒ素が混入され人が死んだとして、そこに出席していた私も容疑者になるのだと仮定したとき、ぞっとする。私を嫌いな人は確かにいる。そして、たぶんマスコミは有名人を真っ先にいたぶるだろうし、自分が同じ立場にならないとは限らない。いやな連想だが、妄想が仕事だから妄想するのである。

ヒ素は、最初に食中毒と誤解され、適切な救急対応ができていなかった。確実な致死量ではなかったことを思えば、いたずらも考えられるが、その場合、医療対応の遅れが死者の数を増やした(かもしれない)ということは考慮されないものだろうか。死者の数=極刑という考え方は間違っていないか。

考えの範囲が狭すぎるような気がする。いまさら……なのだが、死刑が確定したことがショックだ。もう手遅れだとは思わないで、自分なりにもう一度、考えてみようと思う。
by flammableskirt | 2009-04-21 16:37

明日から巡業に出ます


明日17日はいよいよ四谷での朗読会です。
イベントの多い春先の金曜日なのに満員御礼となりました。
申し込んでくださったみなさん、ありがとうございます。
明日お会いするのを楽しみにしています。

18日は、新潟に向かいます。
午後2時から県民会館でべてるの家の方たちと「降りてゆく生き方」のイベントに出演します。
新潟のみなさん、よかったら試写会においでください。
私もどんな映画になったのか楽しみです。

19日は新潟クロスバルホールにて午後2時より、こわれ者の祭典のみなさんといっしょに、「死刑制度について考える朗読会」を行います。
テーマはめっちゃ固いですが、内容はほにゃららです。べてるの家の方々も飛び入り参加します。
「こういう考え方もあったのか〜!」というような、稀に見る「死刑制度アプローチ」にご期待ください。
こんなはちゃめちゃな催し物が実現してしまう新潟って、すごいと思います……。
だいたい、月乃光司さんがあんなに活動できる新潟ってどんなとこ?
ちなみに前回、新潟に行ったときに知り合った新潟水俣病の渡辺参治さんが参加してくれます。
すでに生き仏のような参治さんの歌は、なんかすごいんです。
そして、統合失調症の下野さんの歌も、とってもすごいんです。
死刑に、水俣に、べてるの家……と、てんこ盛り「社会派チック」ですが、まったくそういう真面目さっていうか、固さっていうか、ないイベントなのでご安心ください。(安心していいのか?)
これを企画した月乃さんがアルコール依存症なんですから、世の中捨てたもんじゃありません。
この脅威の逸材のみなさまに、私は太刀打ちできるのだろうか。不安です。

さらにイベント終了後、新潟の紀伊国屋書店でサイン会をします。
書店でのサイン会は広島に続いて二回目です。緊張します。
毎度、紀伊国屋さんにはお世話になります。
  
20日に東京で所用を済ませて、湯河原に帰宅します。
しばし巡業の日々になりますが、旅先で出会ったみなさま、どうかよろしくお願いします。

  らん

  

  
by flammableskirt | 2009-04-16 15:43

芽吹き、葉桜

春になって、越冬した盆栽たちも芽吹きが始まりました。
ウメモドキも新芽を出しています。これは去年の夏に無印良品のバーゲンで300円で買ったのだった。秋にちっちゃな赤い実をつけてかわいかった。ぽちっと赤いのはその実です。目を出すかと思って苔の中に入れておいたのだが……。もとは鉢植えだったものを、冬の間に土と苔を足して苔玉にしてみました。
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固い殻が開いて、ブナの新芽が顔を出しました。生きててよかった。八幡平のブナなので育つかなあと心配していたのです。ブナの新芽はこんな産毛につつまれています。赤ちゃんのようです。その新芽を護るために赤い皮をかぶっています。卵みたい。10年経ってもあまり育たないブナの苔玉。これからどうなるかなあ。とにかく年を越してよかった。
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このランはおととしの春に夫が買ってくれたもの。去年は咲かなかった。一年手入れをしていたら、今年は見事に蕾をつけました。やった〜。かわいいです。おもいきって鉢を捨てて、苔玉用のスギの皮を巻いてラン玉にしてみました。
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仕事場の外の桜は昨日の雨ですっかり散って、葉桜です。山も新緑でもこもこしてきました。一年で一番美しい季節がやってきます。この季節になると日本人、いや、地球人でよかった……と思う。
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おととしの春のいまごろは、一日3キロくらい歩いていたのになあ……。また歩こうと思うのだが、去年は父が死んだ後の虚脱状態で過し、今年はやたらと仕事が忙しい。去年のいまごろはなにをしていたのかと思ってブログを読んだらやっぱりぼーっとしている。そして、沖縄に取材旅行に行っていた。そうだ、沖縄の伊是名島に行ったのだった。あの島はすばらしかった。とても楽しい旅だった。あれから一年しか経っていないのか……。
ブログ日記ってのは、あの頃なにしてたのかな……にすぐ戻れるところがいいなあ。
by flammableskirt | 2009-04-15 10:08

盛り上がる新潟

 週末は「こわれ者の祭典」の月乃光司さんとの朗読会で新潟に行くのだが、偶然にも18日に映画「降りてゆく生き方」の試写会で、べてるの家の面々が新潟に来ることになった。そんなわけで急きょ、新潟で合流し、お互いのイベントに相互乗り入れすることになったのだった。

私は18日の試写会のトークショーにゲスト出演することになった。県民会館であります。
翌日は、べてるの家の下野さんが、朗読会に飛び入りで歌ってくれることになった。
というわけで新潟は盛り上がってきたのだった。

さらに19日の午後5時から、つまりイベント終了後、新潟の紀伊国屋書店でサイン会をすることになった。
私のサインなどほしい人がいるかどうかわからないが、せっかく新潟まで行くのだからぜひ本を売りたいというスケベ根性でサイン会をお願いしたのだ。なぜかというとイベント会場での物販行為が禁止されているから。
書店の人は「人が集まらなかったら作家さんに申し訳ない」と恐縮していた。
ときどき、「人が集まらねーじゃねえか」と怒る作家の人がいるということは編集者から聞く。
確かにサイン会で、閑散としたところに座っているとものすごく淋しいかもしれない(笑)
でも、なんかそういうのもドサ回りの演歌歌手っぽくて、落ちぶれ感がすてきかも……と思う。
いわゆる自虐ネタでエッセイを書いているので、どんなみじめで辛いことがあっても、それはそれでメシの種になるところが作家は素晴らしい。天職だと思う。
by flammableskirt | 2009-04-14 15:45

 そもそも感情的な人間なので、感情に支配されがちだ。自分では自覚できないが、感情的に発言する人を見ると、ああ、あれは自分だと思う。あれは自分なのに、やはり違和を覚える。なぜ自分には違和を感じず、他人には感じるのか。身勝手だと思う。
 ものすごく悲惨な写真を示されて「この現実を見てください、ここから目をそむけないでください」と言われることがある。たとえば、広島・長崎の被爆者の写真。取材を通してたくさん見てきたが、被爆者の写真の衝撃は圧倒的であり、このような現実を前にして人を無力にさせる。こんなひどいことをしたのだから、原爆は悪なのだ、戦争は悪なのだ、二度としてはいけないのだ。ということになるのだが、揺るぎなき正義でもってそれを主張されるとき、その人の顔に顕れる嘆きと怒りこそ、私は恐ろしいと感じる。そして、多くの場面で私もああいう顔をしているのだろうな、と思うのである。

 マサじいは、にこにこ笑いながら言った。
「ほら、私は放射能を浴びてもこんなにピンピンしていますからね。原爆なんてものは、私一人殺せないんですから、情けないものですよ」
 爆心地から一キロの地点で被爆したが命をとりとめ、その後、原爆症にはならなかった。
 いまは亡きマサじいの言動は、原爆の悲惨を感情的に訴える人たちにとっては、たいへんに迷惑だったようだ。「そういう発言は原爆の被害がたいしたこともなかったように聞こえる。慎むべきだ」と言われたそうだ。それでも彼はあちこちに海外旅行に出かけ「私はヒバクシャです。原爆を浴びました。でもほら、こんなに元気ですよ。世界一元気なヒバクシャです」と公言し、そんな彼に人々は握手を求めた。
 「マサじいは、原爆をどう思っているの?」
 妙な質問であるが、他にうまく聞く言葉がなかった。
 「原爆ですか、あれは人の思い、念が作ったものです。原爆を作りたくて作りたくてたまらない人たちがいて、そして作ったのです。そのような人たちはたくさんいて、何世代にもわたって、一瞬にして世界を変えてしまうような強いものを望んだのです。だから、原爆ができたのです。そう簡単には消せません。あれは人の思いが形になったものだからです」
 「私はやはり、原爆で死んでいった人たちを見ると辛い。死者のために怒りをもたないといけないような気持ちになる。無念をはらしてあげなければ申し訳ないような気持ちになる」
 「それはいけませんね。ランディさん、人間は死んだらとても楽になるんです。どんな存在でもそうなんです。ほんとうですよ。死ぬほど楽なことはないんです。だってもう苦しむべき肉体がない、想念をもとうにも脳がないんですからね。でも、そう言うと怒られますね。この世界の常識では、死ぬのは悪いことなんです。死ぬのは悲しくて辛いことなんです。しかし、人間は必ず死にますでしょう。そして死んだあとのことなんて誰もわからないはずなんです。だけど、死んだら楽になるということになれば、みんな死にたがるから、そういうことを言ってはダメだと言われます。生きていることは死ぬことより価値があると思いたいんです」
 「でも、そうでないと生きている意味がなくなってしまう」
 「人は必ず死にますでしょう」
 「そうだね」
 「必ず死ぬのに生きているのは意味がないことですか?」
 「いいえ……。でも、死ぬことがすばらしいというのは、言ってはいけないことだと思う。それを言ったらきっと、たくさんの人が怒りだします。ふざけたことを言うな。遺族の気持ちを考えろ……と。特に悲惨に亡くなられた方々を悼む人はそう言うと思う」
 「ランディさん。死体にお化粧するのは、死体が安らかに見えるためです。でも、どんな死体もほっておけば腐ってうじがわいて変形します」
 「知っています。私の兄は腐爛死体で発見されました。葬儀の間中、腐った匂いがしていました。死体を見たいと言っても、見てはいけないと言われて見ることができませんでした」
 「どんな安らかな死に方をした人でも、腐爛死体になればみじめなものです。それを見せられれば人間の感情は揺らぎます。でも、死体とは腐るものです。それが自然であります。死体は抜け殻です。そこにはもうとっくにあなたのお兄さんはいませんでした」
 「その通りです」
 「私は死ぬのは怖くありません。楽しみなんです。早くこの身体から自由になりたいです」
 「せっかく生き残ったのに、死にたいと思うの?」
 「死にたいわけではないです。ランディさんは老いたくないけれど老いるでしょう。早く老いたいとは、思わないでしょう。でも、老いていくのがだんだん楽しみになりませんか? 私はそうでした。老いというものも悪くないんです。なにより、見えなかったものが見えてくる。わからなかったことが納得できる。年を経るとね」
 「確かにそうです」
 「だったら、あなたにもいつかわかるでしょう。そのうち死ぬのが楽しみになってくるんですよ」
 「そうでしょうか? それと老いることとは別のような気がしますが……」
 「いや、そうなります。あなたはきっとそうなる。怖れが消えていきます」
 「ありえないと思う。私は怖いです。たとえば、もしいま、突然に誰かが現われて私に銃を突きつけて、私を撃ったら。その恐怖は……。もし、誰かが私の子どもを撃ったら……、考えただけで気が狂いそうです。恐ろしいです」
 「それも一瞬の感情です。それも過ぎ去るんですよ。怖いと思うのも、銃をつきつけられて、死ぬまでのほんの一瞬です。あっという間です。それは、子どもが注射を打つのが怖くて、打つ前から大泣きしているようなものです」
 「そうかもしれませんが、怖いものは怖いですよ」
 「その怖れがね、人類に原爆を作らせるんです」
 「それって、飛躍のしすぎでは?」
 「どうしてですか、人間は怖れを乗り越えなくてはいけません。怖れという感情は、いま、ここにない危険や痛みを、まるで体験しているかのように想起させてくるんです。でも、いま、ここに銃はないし、誰も死にません。痛くもありません。恐怖の先取りが戦争を起こし、そして原爆を作らせているんです」
 「そうだとしても、怖いという感情が起ってしまうものを、どうしようもないではないですか。怖いものは怖いのです。消せと言われても消せません」
 「消せなんて言ってませんよ。そんなことする必要ないんです。ただ、怖いなあ、怖いなあ、と見ていなさいと言っているんですよ。ああ、自分は怖いんだなあと。自分はいったいどうしてこんあに怖いんだろう、なにを怖がっているんだろう……と」
 「私が怖れているのは、人間です。恐怖や怒りを感じている人間が一番怖いです。その人たちは自分の怖れのためになにをするかわからない。そういう人が、虐殺したり、拷問したりするんです。それは自分の怖れのためです。自分が怖いから他人を犠牲にします。そのような人間が一番怖いです」
 「だったら、できることは一つしかないんです。あなたが自分の恐怖を克服することです。あなたにできるのは、あなたの恐怖を消すことだけなんです」
 「無理ですよ、そんな……」
 「どうしてですか?」
 「私は、臆病ですから。残虐なことを考えただけで、卒倒しそうです。だから、きっと私もいざとなったらこの恐怖のために、人を殺すと思います。ガンガン、銃を撃ちまくって、皆殺ししちゃうと思いますよ」
 「戦争ですね」
 「戦争です。そうなりたくはないけれど、怖いですから。でもそれは私のせいではありません。そうしないと殺されるという状況があるから、その恐怖のためにそうなるんです」
 「まわりの人すべてが、殺されることを恐怖する状況ですね」
 「そうです」
 「恐怖の連鎖です」
 「そうかもしれません」
 「だからね、その集大成が、原爆なんですよ……」
 
 私はよく、この問答を思い出すのだが、いったい人間は恐怖を克服などできるのだろうか。いまだによくわからない。そもそも、なぜこんなに怖れという感情に執着しているのだろうか。人はいつも本当になにかを怖れている。それゆえありのままに生きられなかったり、素直になれなかったりする。しかし、なにを怖れているかというと、それは自分の心が作りあげている漠とした未来への不安、なにかしら立ち上がってくる雰囲気のようなものであり、実体はなかったりするのだ。そして、実体がないから、たぶんよけいに怖いのだと思う。
 
by flammableskirt | 2009-04-14 09:16