田口ランディ Official Blog runday.exblog.jp

作家 田口ランディの新刊・イベント情報・近況をお知らせします。 


by flammableskirt
プロフィールを見る
画像一覧

<   2008年 12月 ( 14 )   > この月の画像一覧

年末雑感

今日も朝からほんとうに素晴らしいお天気で、家の二階の窓から初島の向こうの大島までよく見えました。我が家は湯河原の海岸から歩いて2分くらいのやや高台にあります。夜は潮騒の音が聞こえます。今朝は空気がきれいなので、モモと海岸を散歩したら、近所のおじいさんが岩についたハバノリをとっていました。乾燥させて餅にまくとおいしいんですって。海は凪いでいて、空は真っ青で浜千鳥が遊んでいました。
 海岸から千歳川という清流の河口に出て、そこから私の仕事場のマンションはでは歩いて5分くらいです。マンションは海に近いですが、私の部屋からは山しか見えません。でも山も青々としてとてもきれいでした。このマンションは去年まで父が住んでいたのです。今年リフォームして、床に吉野の檜を敷きました。生木なので真っ白でやわらかくてとても気持ちいいんです。ほんのり檜の匂いがします。植物に水をあげながら窓の外を眺めていたら、近所の公園で子どもたちがたこあげをしていました。スポーツカイトっていうのかな、きらきら光ってUFOみたいだった。

人間ってのは、記憶でできてるのかなあ、と思うときがあります。私は私の記憶の集大成としてここにある。でも、覚えている記憶なんてほんのわずかで、たぶん私を構成しているのは日々の取るに足らない出来事、私が忘れてしまって思い出すことも意識することもない記憶、そういうものでほんとうは成り立っているんじゃないかと思う。私はどんな日々を積み重ねて、記憶を作ってきたかな、って思う。それを振り返るとき、子どもが生まれたことにほんとうに感謝してしまう。モモが生まれてからの人生は、かけがえのないような小さなこんぺいとうみたいなきらきらした記憶の積み重ねだった。あの子が私の人生の質そのものを変えてしまって、私の中味もそれによって少しずつ変っていったと思う。親や兄からの暴力とか、そういうものも含めて全部、私のなかの暴力をモモが浄化してしまったように思う。人間はみんな赤ちゃんとして生まれてくるけど、生まれてくるという、そのことだけですでにものすごい働きをしているんだって、感じた。私が小説を書いて自分の人生の一番暗くて怖い部分と向きあうことができたのも、モモがいてくれたからだ。でも、そのモモも、もうすぐ離れて行ってしまうんだよね。だんだん大人になってる。ちょっと淋しいです。

私の人生の多くの時間はほんとうにくだらなくて、時間をティッシュのように浪費して、鼻をかんだり、うんちをふいたり、そういうただもう淋しさを紛らわす汚物処理だけに使ってきた。でもまあ、案外人生とはそういうものかもしれないと最近思う。人はほんとうに多くの時間を自分の感情処理のために使う。でもそういう膨大なティッシュの消費によって、わかったことがあったのかもしれない。適切な感情処理の仕方というもの……。相手を苦しめる妄想や、相手を愛する妄想、あるいは愛される妄想、そういう妄想をいくら積み重ねても妄想の強度が増すだけで、現実にななんの役に立たないことや、怒りによって時間が止められてしまうことなど。

今日はマクドナルドのバイトの数が足りなくて、カウンターのレジは一つしか稼働していなくて、たいして混んでもいないのにレジは長蛇の列で、一人のバイトの女子が、くるくるコマネズミのように動き回っていた。そのコマネズミをじっと立って眺めていたら、なんだかレジに入って働きたくなった。混んでいるファミレスでもそうだ。自分で働きたくなる。てきぱきと客をさばいて、みんながニコニコする顏を見たいという欲望にかられる。これはなんだろうか、若い頃、サービス業をやりすぎたせいか。

マクドから「スマイル〇円」が消えていた。私が若い頃には本気で笑顔の練習をしているバイトがいっぱいいて、笑顔コンテストなんてのもあったらしい。笑顔はもうウリじゃないんだな、安さがウリなんだ。バイトの子の目は吊り上がっていたし、いまは「ポテトはいかがですか?」などとよけいな事は言わない。作り笑いより、無愛想なほうがほっとするのはなぜかな。あんなアメリカ的なウソに、みんな騙されていたわけじゃないと思うぞ。なんか変だと思いながらまあ、こんなのもありか……と珍しがっていただけなんじゃないかな。
ミエミエのわざとらしいものが、こそげ落ちて行く。それはそれで気持ちいい。私はいまの時代をそれほど嫌いじゃない。ハリボテだったものは、みんな崩れていく。
一度、更地にならないと、次に何が生まれるかわからないものだし。
by flammableskirt | 2008-12-27 19:53

赤玉

友人のダイスケ君が絵を送ってくれたので、それを撮影していたら、
不思議な赤玉が写った。こんなの絵には描かれていないんだけど、
なにかなあ。特に他の光源もなかったのだけどな。
c0082534_1457142.jpg


なぜか、太陽の塔といっしょ。
後ろが窓なので逆光でつぶれちゃったけど
部屋の雰囲気と合ってるよ。
ダイちゃん、ありがとう。

c0082534_1457277.jpg

by flammableskirt | 2008-12-24 14:57

クリスマス

すばらしい晴天になった。
いつもの窓から見える風景が、外国のように見える。
それくらい空気が澄んでいるんだ。
なぜか、ラダックを思い出した。ラダックの空気だ。今日はそんな日。

20代、30代の頃、クリスマスに予定がないとほんとうに悲しかった。
そして淋しかった。自分が取り残されたような気がした。
みんなが幸せで自分だけ不幸な気がした。
だからクリスマスは友達と騒いでいなければいけなかった。
この日は誰かに必要とされていないと自分に価値がない気がした。

だけど、いまは違う。ぜんぜん平気だ。
こみあう店や街などに興味もない。プレゼントも欲しくない。
そういうことではなく、もっと別のことに関心があり心を寄せている。
ああ、こういうこともあるんだ。生きてみなければわらない。
クリスマスを一人で過すことになんの淋しさも悲しさもない。
すがすがしく、空を見て、きれいな空気だと思っている。
そして懐かしくラダックを思い出している。
ああ、よかった淋しさで死ななくてよかった。あれは一時的なものだったんだ。
あの狂気のような人恋しさや、むなしさは永遠じゃなかったんだ。
もう誰にも合わせなくていいんだ。
私は私でいいんだ。そんなことは本には書いてあったが、実感できるなんて、
想像もできないほど淋しかった私が、
他人がどう生きようが関係なくここに安心して堂々と存在できるなんて、
すごいことだと思う。20代の自分から見たら奇跡だ。
世の中がクリスマスだろうとなんだろうと、関係なく、
そんなこととは関係なく会いたいときに会う友達がいて、いつもそばにいる家族がいる。そういうことをまったく信じられなかったけれど、
現実に、私が人生で獲得してきた信頼と安心が、
いまこの空間に満ちていて、私は落ち着いているぞ。クリスマスなのに予定もなく、
ぼんやりしているこの時間にほっとしている。
まったく信じられないことだ。
あんなに、クリスマスが大好きで、はしゃいでいて、淋しくて、誰よりもクリスマスを楽しく過さないと人生に意味がないとまで、焦り、そわそわし、不安で、混乱していた私が、平然となんでもないように今日を過しているのだ。
この姿を20代の私に見せてやりたい、プレゼントをものほしそうに見つめていたあの自分に。誰でもいいから男とデートしたいと思っていた自分に。他人の幸せばかりうらやましがっていた若き自分に。
うーん、すごいことだ。
年をとると、ほんとうにどうでもよくなるんだ。他人にことは。

今日、一人で、予定もなくものすごく淋しい人にメリークリスマス。
どんなに人といっしょにいても淋しくてむなしかった。かつて、若いころ。なにをやっても満たされなかった。どんなに騒いでも、なんだか、淋しかった。取り残されたように辛くて。
いまも淋しくはあるが、人のことはどうでもいい。人の幸せと比べて不幸になんかならない。
おばさんになるとほんとうに気楽だ……。
by flammableskirt | 2008-12-24 11:45

明日の神話

けっきょく、渋谷のマークシティに展示された岡本太郎の「明日の神話」を見たのは、先月の半ばだった。広島市の市民運動グループも「明日の神話を広島に!」と運動していたけれど、設置場所が見つからなかったのか。

「明日の神話」は、どこか雰囲気がレトロというか、私には円谷プロの怪獣映画を彷彿させるなにかがある。これはけなしているわけではなく、円谷プロの怪獣映画が私は大好きである。だからそれを彷彿される岡本太郎の明日の神話も好きなのである。子どもの頃みたウルトラQという番組では、怪獣は必ずしも完全な悪者ではなかった。どこか、悲しい存在として描かれていた。都市を破壊する怪獣も、彼ら自身がなにかの犠牲になり被害を受けた者として描かれていた。岡本太郎の寓話的な世界では、原爆の火はそれほど怖くない。抽象化されて、強烈な赤でもって描かれ、中央の人間らしき存在は肉体が炸裂しているが、やっぱり怖くない。なんだかユーモラスですらある。
原爆という、日本においてかなりタブーで、ユーモアを許されないシビアな題材を、岡本太郎はメキシコという土地でこっそり描き、遊んだんだろうか。大阪万博で、太陽の塔を作り人類の進歩と調和を笑ったように……。
by flammableskirt | 2008-12-21 13:52

冬至

朝風呂に入りに温泉に行ったら(湯河原は温泉街)、冬至でゆず湯だった。
そうか、今日は冬至なのか……と、ゆずの香りのお風呂につかりながら思った。

私が死ぬときは冬がいい。
できれば冬に死にたい。冬は自分の季節だと思う。
白い冬の陽のさす朝に、湯気がもうもうとたつ朝風呂に入りたい。
そしてさっぱりして死にたい。
冬の朝風呂というのは、ほんとうにいいものだ。
そのためだけに湯河原に住んでいると言ってもいい。
大きな湯船に燦々と朝の光がさし込んでいる朝風呂は、もう現世におけるあの世である。
白い蒸気がたつ湯船は命の寝床だ。
ぬくぬくしたお湯につかって、水面が朝陽を照り返し天上で綾になって揺れているのを見るのが大好きだ。お湯に濡れた石の感触が大好きだ。風呂場にさし込む朝陽を見ただけで、泣けてくる。湯気と光の産着に包まれて生まれ変わった気分になる。
冬の朝風呂、……ああ、たまらん。
おまけにゆず湯である。
湯河原に住んでいてほんとうによかった。

あまりに温かいので、千歳川べりを散歩した。
いま、鴨や白鷺やセキレイなど、鳥がたくさんいて楽しい。
竹やぶのなかで鳥たちがぎゃあぎゃあ騒いでいる。
なぜ竹やぶのなかの鳥は騒いでいるのだ、竹やぶで何をしているのだ。
竹やぶの側を通るといつも気になる。
冬至が来たということは、今日は一番夜が長く、そして明日からは少しずつ夜が短くなっていくということか。
私は冬至の頃が一番好きなのだが、ということは私は夜が好きなのだろうか。
そうかもしれない。なぜなら、この季節が一番、朝が美しく昼が優しいからだ。
そして明日から、夜は一歩ずつ退いて、春分の日に昼と夜は同じ長さになる。
ああ、なんていい天気だろうか。
あたたかく、でも空気は冷たくすっきりとして、冬の優しさそのものだ。
冬の優しさも、冬の残虐で冷酷な厳しさもどちらも好きだ。
by flammableskirt | 2008-12-21 13:09

歪みと、不完全さ。

 明治大学生田校舎に初めて行く。
 菅啓次郎さんの企画で、作家の宮内勝典さんの講義がありそれを聴講しに行った。
宮内さんの著作は、私が作家になるずっと前から読んでおり、いわゆるファンというものである。作家になってよかったのは単なるファンに過ぎなかった自分が、どこか関係者みたいな顏をして作家の方と会えることだ。ものすごく役得だと思う。

 その日は思いもかけない出会いがたくさんあり、役得の上にさらにラッキーという良いことづくめの一日で、菅さんにほんとうに感謝である。以前から本を読んで知っていた文化人類学者でシャーマニズムの研究をしている蛭川さんとも話しができた。5年ぶりくらいに精神科医の宮地さんとも会って、近況のやりとりをした。

 この日、写真家の佐藤文則さんの「ダンシング・ヴードゥー」という写真展が、図書館内のギャラリーで開催されていた。偶然なのだが、前夜にいま私がはまっているラース・フォン・トリアーの「キングダム」という映画を観ていたら、ヴードゥー教とハイチのことが出てきて、登場人物の一人である女医が、「これからは自然療法だ」と力説し、脳神経外科医に「ハイチに行きましょう」と誘うのだ。なんでハイチなんだろう……と思っていたが、なるほどこういうことか……と、写真を観ながら思った。映画ではそのあと、麻酔アレルギーの患者が、催眠術にかけられて脳外科手術を受ける、というシーンが出てくる。やけに不気味な映画だったが、その翌日に明治大で「ダンシング・ヴードゥー」を観るわけなのだ。
 ちなみに、「ヒーローズ」にも怪しいハイチ人が登場する。ハイチ人というのは欧米人にとってよほど得たいの知れない存在のようだ。
 佐藤さんに話しを聞いたところ、ヴードゥー教は、アフリカのコンゴ川流域の土着信仰で、奴隷として連れて来られた黒人がカトリックに改宗を迫られるのだが、彼らは故郷の宗教をカトリックにトレースして復活させてしまう。それがヴードゥー教らしい。いちおうキリスト教の体裁をとっていながらあまりに異質なのでキリスト教文化圏の人たちには脅威なのかもしれない。
 ホワイトでもなく、ブラックでもなく、イエローの私にはホワイトもブラックも怖い。どちらもファナティックに感じて、うんざりする。黄色なんていういいかげんな肌の色で草を食っている私はそのぶん、白も黒も相対化しやすいのかもしれない。
 ブラックはホワイトを冗談のように取り込む力があるが、ホワイトはブラックを拒絶する。
 トリアーはヨーロッパの陰湿さを嘲笑い、アメリカの民主主義をこきおろしているけれど、黒人問題を扱った「マンダレイ」では、完全にコケている。彼はブラックを相対化できていないんだ、と感じた。人間は完璧な作品を作ることはできない。なにかに焦点を当てればなにかを削ぎ落とすことになる。完璧なのは自然だけで、人間が作るものは常に不完全だ。だとしたら不完全であることを怖れてはダメだ。こんなに不完全なのにどうして完全でないことを恥じてしまうんだろう。
 とてつもない不完全さ、それがトリアーであり、だから鬼才と呼ばれるのかもしれない。

 精神科医、中井久夫さんの「兆候 記憶 外傷」を読み直す。この本の巻末の原稿は「アジアの一精神科医からみたヨーロッパの魔女狩り」というタイトルで、ヴードゥー教について考えていたらなぜか思い出した。中井さんの洞察は個性的で、この人は天才だと思う。ピュイセギュールについて調べてみたが謎だ……。

 宮内さんが取り組もうとしている全く逆方向から、同じ水脈を探しているような不思議な気持ちになった。私が掘り始めているのはヨーロッパの暗い森、占星術やオカルト以前の巨木信仰、そして黒い天使。
 不完全で歪んでいていい。そのかわり一点突破だ。なんだかそんな勇気がわいてきた。私が探しているものは一貫している。それでいいんだ。他者ではなく自分に対して誠実であること。
宮内さんと会って、そう自分に答えを出した。
by flammableskirt | 2008-12-21 11:49

パピヨン発売

朝から大掃除の準備をする。
いよいよ年末モードである。廃品回収業のK商店さんに見積もりに来てもらう。
とにかく捨てるものが多い。二五年も家庭生活をしていると、ゴミがたまるんだよ。
人が死んだり、子どもが生まれたり、そのたびに物を買い替える。
まだ我が家には代々……という歴史のこもった物は存在しない。
戦争が私たちの世代間ギャップを作った。親世代と私では共有できるセンスが少なすぎる。
だけど、娘と私の間には戦争がなく、私の文化を娘も共有しているゆえ、
私から娘に贈るものはけっこうある。私の物が娘の物になりえる。
だからお友達親子世代などと呼ばれてしまうのだろうけど、私と娘はサザエさんもピンクレディもユーミンも共有しているのだからしょうがない。文化に断絶がなく繋がっている。
それがかえって不気味、ということもできるが……。
私の子どもの頃には、大人の文化と子どもの文化ははっきり棲み分けられていた。
いまはそれが入れ子状態になっていて、よくわからないかもしれない。

昨日から「パピヨン」が書店に並んだ。
……というメールを担当者の陸田さんから受けとった。
そうか、書店に並んだのか。ますます本屋に行くのが恐ろしい。置いていないと落ち込むし。
子どもの頃は本屋が大好きだったのに、いまは苦手な場所だ。
まず自分の本を探してしまう。その根性がさもしい気がしてますます落ち込む。
「パピヨン」はエリザベス・キューブラー・ロスが見つけた蝶の絵を、
ポーランドの捕虜収容所まで探しに行くところから始まる。
しかし、蝶の絵はなかった。見つからない。
がっくりして戻って来ると、父親が大けがをして入院しており、さらに末期がんが発覚。
看取りの先駆者を取材しているうちに、自分が看取るはめになる。
エリザベス・キューブラー・ロスに操られているように、さまざまなシンクロが起こり、
それをリアルタイムで書いたという妙な本である。
一貫して、蝶が現われる。最初から最後まで。
いわば蝶の謎探しだ。
自分の親との関係が、どうもうまくいっていない。
親のことが嫌い。
親のめんどうをみたくない。
年とった親と疎遠になっている。
あんな親、看取りたくない。
そういう人には特に読んでもらいたいな、と思う。
by flammableskirt | 2008-12-19 10:05

私は昆虫である

ゆうべは、風の旅人の忘年会で池袋に行っていた。
いつも思うのだが、武道の達人の前田さんは、視線や姿勢がゆるがない。
ゆるがないというだけで迫力がある。
ふつうの人は飲んでいると腰が定まらなくなり、上半身がしゃべるたびにふらふらする。
ところが前田さんはぴくりとも揺らがないのだ。視点も、視線も。
知識とか、論理とか、そういう問題ではなくて、
体が揺れない前田さんはそれだけで美しいし、迫力がある。
前田さんは、土台のしっかりした家という感じがする。
その土台の上にかなり個性的な家を建てている。
上がり口がどこかわからない妙な家だが、とにかく土台がいいのだ。
いいなあ……と思う。

私はしゃべっているとき視線もあちこち揺れるし、
ぜんぜん腰が定まらない。気がつくと揺れている。
運動もしていないし、腹筋も背筋も落ちてしまったのであたりまえなのだが、
体に筋を通している人を間近で見ると、自分がとてもふにゃにゃした人間に感じて恥ずかしい。
そもそも自分には土台というものがない。寄る辺ない……というのが常に自分が感じていることだし、自分をたとえるとクラゲとかナマコという感じだ。流れが変るとそっちにもっていかれてしまう。これはいまだに私のコンプレックスである。
私は目の前を通過するものに食いついて行く、カエルみたいな人間であり、
火に寄っていく蛾みたいでもある。
自分を動物にすらイメージできない。自己イメージはいつも海洋生物か昆虫である。
自分は人間離れしているなあ……と思う。
感情移入も植物や、昆虫にしやすい。
だから次の本も「蝿男」や「スッポン」というタイトルが続く。
なぜなんだろうか?
せめて、動物になりたいが、私にとって動物は人間以上に揺らがなく、
それこそ崇高で、とても近寄り難い。
私は虫けらなのだ。根性が虫けらである。卑下しているのではなく素直にそう感じる。

海でつかまえた蟹を水槽で飼っていたことがある。
ある晩、蟹はなにを思ったか水槽をよじ登って外に出ることにしたらしい。
水槽を昇り始めたのだが、もちろんつるつるすべって落ちる。それを延々と繰り返し始めた。最初は面白がって見ていたが飽きてしまった。
夜半になっても、蟹が水槽をのぼって、落ちるガサガサした音が聞こえる。
三時になっても、四時になっても、五時になっても聞こえる。
蟹が一晩中、水槽を昇っていた。朝になっても、昼になってもやっている。
私はだんだん怖くなった。蟹はなんて執念深いのだと思い、いやこれは執念なんてものではなくて、これは……蟹の本性だと思った。ほんとうに怖くて海に返してしまった。
越前海岸に蟹を食べに行ったとき、
巨大な水槽に蟹がうじゃうじゃいた。あの蟹のことを思い出して、
「蟹ってのは業が深い生き物だ……」と呟いたら、それを聞いていた蟹民宿のおばさんが、
「そうよ。よく知ってるわね、蟹ってのはほんとうに、怖いよ」
「やっぱり?」
「こいつら、なんとか這い上がろうとするんだけどね、ときどき相手がじゃまになると、相手の足をはさみでぎゅっと挟むのよ。そのまま何日もじっと挟んでいてね、挟まれた方も何日も相手の頭の上を押さえ込んでいてね、なんかぞっとするのよ。沈黙の闘いって感じよ」
しかし、私はこの蟹の本性が自分にあると感じる。
昆虫とか、蟹とか、蝿とか見ると、これが自分だと思う。
動物占いじゃなくて、昆虫占いとか作って欲しいと思う。
人間の本性はゼッタイに、昆虫に近い、蟹とかザリガニとか、そっちに近い。
私はそう確信している。少なくとも私はそうだ。
by flammableskirt | 2008-12-17 11:05

パピヨン

やっと、新刊「パピヨン」の見本が届いた。
ああ、写メではこの装丁の美しさが伝えられなくて本当に残念。
とてもとてもきれいな装丁なんです。
真っ黒に玉虫色の箔押しで字体がかっこいいんですよ。
本屋で見かけたら思わず手に取りたくなる装丁です。
そして、カバーをはじたときのピンクがきいてます。

c0082534_1833242.jpg

c0082534_1833238.jpg


ただいま予約受付始まっています。
by flammableskirt | 2008-12-14 18:03

講演会も終わり

今日は一日、野性時代に掲載する短編を書いて過ごしました。
小説を書くのはやはり楽しいです。

そろそろ長編の構想もまとまってきたので、年末から書き始めようと思う。
昨日はたくさんの方が来てくれてとてもうれしかった。
本を買ってくれた方もたくさんいてうれしかった。
書店で自分の本が売れるところを見たことがないので素直にうれしい。
昨日、いただいたお花を飾り、お菓子を娘と分けて食べました。
ありがとうございました。
c0082534_17515372.jpg

by flammableskirt | 2008-12-14 17:51