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作家 田口ランディの新刊・イベント情報・近況をお知らせします。 


by flammableskirt
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「ヤマケイJOY」2008春号に記事を書いています。

「屋久島 ひかりのあめの森を行く」

c0082534_12282988.jpg昨年、屋久島の永田岳から花山歩道へ、山小屋一泊で登った記録です。
花山歩道は「ジュラ紀の森」と呼ばれるほど、古くて雄大な森。ほんとうにジュラ紀の森と植生が似ているそうです。どこからか恐竜が出てきそうな深い森。すごいでしょ。
田淵睦美さんの写真が、とてもすてきです。

ちなみに今回の特集は「三十歳からの山登り」や「すみれ新聞」(日本中のすみれの名所を紹介)など、とっても楽しい企画だった。ずいぶんと誌面が変って親しみやすくなった気がします。

私の記事は季刊連載です。今年の夏は憧れの霊山、早池峰山に登る予定。
いまから足腰を鍛えないとなあ。
by flammableskirt | 2008-02-28 11:06 | 掲載記事や連載
新刊が、早い書店だと今日あたりから並んでいます。
タイトルは「生きる意味を教えてください-命をめぐる対話」(バジリコ)

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「死ぬってどういうことか、生きてるってどういうことか」
そんな直球勝負の対談集です。
藤原新也、内田樹、鷲田清一、西垣通、竹内整一、玄田有司、森達也、宮台真司、板橋興宗……という、すばらしく個性的な方々に、三年かけてお話を伺いました。
読者の方の、人生を考えるヒントになればいいな、と思っています。
とてもかわいい表紙です。
by flammableskirt | 2008-02-27 12:05 | 新刊のお知らせ

雪の金澤



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仕事で金澤に行って来ました。友人のカメラマンの桝野さんが東山で写真を撮ってくれました。金澤に行く前に、髪を切った。この人生で最も短くした……という感じ。父の四十九日が終って一区切りつけたかったのかもしれない。写真を見て「うわっ。髪が短い!」と改めてショック。

翌日は近江町市場に買い物に。市場のなかでお寿司を食べた。「シラエビちょうだい!」と言ったら、寿司屋のおじさんに「シロエビだよ。日本語は正確に!」と注意を受ける。とほほ……。
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金澤での仕事
北國新聞に掲載された講演要旨
「がんと生きる智恵・小説「キュア」の取材を通して学んだこと」

北國新聞政経懇話会二月例会は二十五日、金沢市の金沢エクセルホテル東急で開かれ、作家の田口ランディ氏が「がんと付き合う知恵〜小説『キュアcure』の取材を通して学んだこと」と題して講演した。肺がんで余命半年といわれ今年一月に死去した父の介護体験を紹介した田口さんは「日本の医療はがん患者にも生きる希望を与える取り組みが必要。治るか治らないかにこだわり過ぎず、どう闘い、どう生きるかという視点がこれから大切だ」と強調した。講演要旨は次の通り。
 日本では、がんが絶望の代名詞になっている。そう思わせる構造があるからだ。昨年六月、骨折で整形外科病院に入院した父を例に指摘したい。入院して肺に影があると分かったため、私が近くの県立がんセンターへ行き写真を見せると、肺がんだろうと言われた。治療を依頼すると、「骨折の治療ができないから」と転院を断られた。

 実は私も知らなかったが、父はアルコール依存症だった。幻覚症状が出始め、退院を通告された。三十以上の病院に当たったが、受け入れ先はなし。ある人の助言を受け、退院した上で救急車で救急病院に入ったが、そこでも退院か、家族が二十四時間付き添うかだと言われた。

 家族でもそれは無理だ。何とかお願いすると、雇った付き添いを病院は認められないが、家族だと申告すれば可能で、そうした。ここで初めて検診を受けることができた。医師から余命半年と言われた。それも、七十八歳、精神的障害もあるし、もういいのでは、といった感じで。

 ショックだった。余命をどう過ごすかを考えた方がいいと言われても、病院は何も相談に乗ってくれない。どうしたらいいのか。何かしらの代替医療の話でもしてもらえば、まだ頑張れる。しかし、科学的根拠がないから言えないのだ。これが不幸を招いている原因の一つになっていることも分かってほしい。

 病院探しを手伝ってくれる協会の存在を知り、相談し精神病院に転院。アルコール依存症と、それによる認知症は幸いにも一週間ほどで治った。この時点で父はまだがんであることを知らない。悩んだ末、私から告げた。二日後、父に会うと、告知は記憶から欠落していた。絶望に等しく意識が拒否したのだ。

 このころ激痛が始まった。実は日本の医療には痛み止めのモルヒネを適切に扱える麻酔科の医師が不足している問題点がある。私は医師を探し、行き着いたホスピスに父を入れた。そこは末期患者に対して緩和処置はするが、それ以外は患者自身がやるのが原則で何もしない。

 食事が取れなくなり、寝た状態が多くなった父は、ある日、「そろそろお迎えが来たようだ」と体を起こし、遺言を私たちに伝えた。末期患者はいろんな機器につながれ、ぜぇぜぇ言っているイメージがあったが、父は何か植物がゆっくり枯れていくような感じだった。

 ホスピスには随分感謝している。最後の最後には必要だろう。しかし、父のように生きようと思う人が入るのはつらすぎる点も否めない。医者側から何かしら希望の持てるような手助けがあってもよいのでないか。

 科学的根拠はないが、米国で、祈る人の多い患者の治癒率が高いという統計がある。免疫力も治るかもしれないと信じれば高まる可能性があり、そんな話一つで、がんとの付き合い方が違うように思う。末期でも余命何年と見放すのでなく、ケアを考える医療を患者や家族は望んでいるはずだ。
by flammableskirt | 2008-02-27 11:31

喪あけの贅沢


父の四十九日が終った。
これでやっと、喪があけた。喪あけの贅沢は供養になるのだと聞いた。
今日は「しゃぶしゃぶ」にした。
ささやかな供養だな……。
by flammableskirt | 2008-02-22 19:39

風の旅人ホームページ

雑誌「風の旅人」のホームページがリニューアルして、とても読みやすくなった。
記事も増えました。

風の旅人

自分のホームページのリニューアルがなかなか進まない……とほほ。
by flammableskirt | 2008-02-20 13:29

ときどき、「スピリチュアルですよね?」という質問を受けます
読み手の方がどのように私の作品を読むか、それを書き手がとやかく言うことはできない。
でも、私個人は「スピリチュアルではない」です。

スリピリチュアルというのは、たとえばオーラの泉に出ている江原さんは三輪さんのような方を言うのだと思います。私は生まれてから一度も霊を見たことがないし、いわゆる、霊的な人たちがするような、スピリチュアルな体験というのはしたことがありません。

「ドリームタイム」をエッセイだと思い、私が特別な体験をしていると思い込んでいる読者の方も多いのですが、あれは小説で、すべてフィクションです。本にも小説だと書いてあるのだけれど、誤解する方が多いのはそれだけリアリティがあるということなのかな。それはそれでうれしいことです。同じように「オカルト」もフィクションです。

見えない世界は存在すると思っています。この世界は人間が知覚し、意識できることだけがすべてではないと思っています。死後も魂は形を変えて存在すると思っています。

でも、この「現世」において、この「三次元空間」において、一番、エネルギーが強いのは生きている人間、生身の生命だと思っている。生きている人間のエネルギーはとてつもない。そう思っています。

正直に言いますと、私は六十年代頃、アメリカからやって来た「ニューエイジムーブメント」というものに影響を受けていますが、いまはあまりニューエイジが好きではありません。なんとなく乗れないのです。同じように「スピリチュアル」にも乗れません。それは私が、おばさんだからかもしれません。

「しゃらくせえ」と思うのです。

地べたはいずって生きている人間が一番強い、という泥くさいものの考え方が、私のなかの根底にあるからかもしれない。私が育った茨城や栃木の田舎の親戚のおじおばたちは、土着で、なにかえたいの知れないパワーをもっていました。そういうものがあまりにどろどろしていて、子どもの頃は怖かったから、都会に出てもっとおしゃれなものを目指してきたけれど、だんだん年をとるにしたがって、自分の原体験の方に惹かれていくのです。そして、外国語を駆使して語られる精神世界を「うさんくさい」と感じてしまうのです。

二十代の頃に好きだった作家は、深沢七郎と石牟礼道子でした。
いま、この二人の作家を読んでいる若い読者なんているのでしょうか? この人たちの作品はすごいです。でも、これが、スピリチュアルの神髄だ、と私には思えるほどの霊的な力をもっています。ここでは、生きている人間が主役です。
霊や、前世が生きている人間に与える影響など、ほとんどないと、思っています。主役はいつも生きている人間です。それが生きているってことです。
生きている人間の、圧倒的な霊的パワーを描いているのが、深沢七郎と石牟礼道子だと思っていました。それはいまも変りません。

ただ、私にはこの二人のような土着性をもちあわせていないので、どこかで自分の表現はうすっぺらいな、と感じていました。だけど、それはもちあわせているとかいないとか、ではないのかもしれない……と、このごろは考え方を変えつつあります。
これは、私のなかにあらかじめあるものではないか。深い沼の底に降りていけば、きっと、あの人たちと同じような恐ろしいものを引っぱり上げることが可能なのではないか。

ただ降りていけばいい。死ぬまで降りていけばいい。
どこまで降りられるか。
興味があるのは、自分がどこまで降りられるか、そういうことになってきました。
深い深い深い、沼の底まで、たどりつきたい。
そしてそこに眠っている、得たいの知れない、人間性にたどり着きたい。
by flammableskirt | 2008-02-19 11:12

算数の勉強

小学五年生の子どもといっしょに、算数の勉強をしている。
学校で「割合」の授業が始まったのだそうだ。子どもはこの「割合」がわからない。
この数学的抽象概念がわからない。
百分率と少数と分数の関係がわからない。
応用問題になると、なにがなにやらわからない。算数の教科書を見てみた。
うーむ、この教科書では確かにわからないかもしれない。

分数の計算も、少数の計算もできる。
だが「割合」というのは、基準にするものによって変化する「概念」なのだってことがわからないようだ。説明していると私までこんがらがってくる。

「これがわからないと、バーゲンで買い物ができない!」
「え〜?」
「定価29000円のコートが20%引きになっている。いくらだ?」
「一冊五百円の文庫本の印税は10%だ、1万3000冊売れると、母さんはいくら儲かる?」

割合は実生活にもっとも必要な「算数」だと思うわたしは、必死で教えるが、私自身は誰に教わったわけでもなく……というか、学校で勉強した記憶はまったく残っていなけれど、原価計算など、社会に出ると「割合」の知識がどうしても必要だったので、恥をかきながら覚えた。だから、いまやらなくても必要ならそのうちわかるようになるか……とも思うのだが、勉強していると面白いのでいっしょに家庭学習をしている。

高度な応用問題になると、パズルのようだ。私にもわからん。なにしろ数学苦手だった。
へー、こうやって割合を調べて、未知なる長さを導き出すのか……、などなど、こんな年になって感心しつつ、算数を勉強しているのである。ふだん、まったく使わない頭の回路で、とことん錆びついていて、マジで五年生の問題が解けず、夜中まで二人で悩むことも。

子どもは翌日なると、ゆうべの勉強はきれいさっぱり頭から抜けている。うらやましいほどだ。どうもまだ回路がつながらないらしい。あるとき、つながったら、私など簡単に追い越されてしまうんだろうが、つながらないうちは、わからないことはわからない。なぜ、わからないのかと言われてもつながっていないのだからどうしようもないのだろう。本人も、頭ではわかっていても(記憶していても)納得できず、悔し泣きしたりする。ほんとうに、わからないようだ(笑)

脳って面白いなあ……と、子どもを見ていてよく思う。
いつ、つながるのかな。ぱちんとつながった瞬間が見たくて、つい、毎日勉強を見てしまう。

「あ、そうか!」
と、子どもが言うときは、頭に電気がともったのが見えるようで笑える。
「なんでわかんなかったんだ〜、じーん!」
と、わかったことで感動していて、人間って、わかるって快感なんだなあと思う。
なんて好奇心の強い、不思議な生き物なんだろう。
by flammableskirt | 2008-02-15 13:48

サボテン

このサボテンは、三年前にスーパーで買った。
電磁波を吸収するサボテン……と書いてあったので買ってみた。
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電磁波を吸収しているかどうかわからないが、あんがいと元気に成長して、三倍くらいの大きさになっている。なんどなく、形が「イエーイ」と言っているようでかわいい。
ようやく年をとって、植物を枯らさなくなってきた……。
長生きはするものだ。
by flammableskirt | 2008-02-13 17:42
父の葬儀を終えても、なかなか休みがとれず、貧乏性なのでつい働いてしまう。
疲れがたまっていて、目がかすむようになった。老眼もある。
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屋久島に行きたいな、と思う。
緑色だけの森のなかでぼんやりしたいなあ。
急に視力がよくなった気分になるんだ。
湿った森の水蒸気のなかで深呼吸してみたいな。
そんなことを考える。
春になったら、屋久島に行こう。

写真は、友人の写真家田淵睦美さんから、もらったもの。
去年、いっしょに行った屋久島の写真。
by flammableskirt | 2008-02-12 14:44

罪と罰と許し

わけあって、最近、遠藤周作さんの本を読み返している。
ここ数日で、五冊ほど読んだが、なかでも印象に残ったのがこの二冊。
そして、この本のテーマは、先日紹介した森達也さんの「死刑」ともつながっている気がした。
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「イエスの生涯」は評伝であり、「死海のほとり」は長編小説だが、この二冊は対をなしている。同じ主題の変奏曲というのか……、こういう書き方もあるのだなと興味深く読んだ。
遠藤周作さんは、キリスト教徒であったけれど、日本人としてキリスト教をどう理解するかを、ご自身の生涯のテーマとして描いた方ではないだろうか。たんなる読者である私が、口はばったいことを知ったかぶりで語るのは、とても気がひける。どうか、これは一読者のたわ言として読んでもらいたい。
遠藤周作さんが描く「イエス・キリスト像」は、菩薩のようだ。それゆえ、この二冊を読んで最初に思い出したのは、法然がひらいた「本願念仏」の思想であり、イエスと阿弥陀仏の姿がぼんやりと重なった。

私は阿満利麿先生の勉強会で、少しずつ法然について勉強しているところなのだが、どうしても「阿弥陀仏の名を呼べば誰でも浄土に行ける」という、本願念仏の思想が腑に落ちない。そもそも阿弥陀仏とはどういう存在なのかがイメージできない。頭では理解できるが、心で納得できない。そのようなジレンマを感じていた。しかし、遠藤周作さんの「イエスの生涯」を読むと、もしかしたら阿弥陀仏とは、ここに描かれているような存在ではなかったか……と、あるリアリティをもって感じることができたのだ。物語を作る作家の筆力というのは、やはり鬼気迫るものがあるし、いったい、いかなる理由で、遠藤周作という人は、これほどの救済を求めていたのか、その人となりにも興味をひかれるに至った。

「死刑」という制度と向き合うとき、私のなかにはいつも「許していいのか」「許せない」という思いが立ち上がる。身勝手な理由で無差別に人間を殺すような凶悪殺人など、いかなる理由をもってしても容認できぬし、許し難い。それはもう、ごく一般的なあたりまえの人間の心情である。だが、あらゆる人間の罪を哀しみ、共に罪を背負うという「超越的な存在」を、物語としてリアルに想定されたとき、自分のなかのなにかが壊れ、別の感情がわきあがってくるのを、感じずにはおれない。なぜだろうか……。この読書体験は。不思議なのだ。たかだか小説なのに、私を根底からひっくり返す力をもっている。たぶん、いまの私の問題意識と作品のテーマが共鳴しているから、このようなことが起こるのだろう。

なので、この三冊をセットで読んだ、という事実は、私にとって偶然とは思えず、なにか必然を感じる。本がテーマによって引き合ってしまったのだろう。
by flammableskirt | 2008-02-10 12:43