信仰の不自由さ

トランスパーソナル学会で、鏡リュウジさんがお話したことがとてもおもしろく、自分のことを考えるきっかけになった。

私が、いつも感じるある種の「苦手さ」の正体について理解できた。
昨日、学会の帰り道に、とある男性から声をかけられた。その人も学会に参加しており、私のことを知っていた。彼はとても親切な感じのよい人だったが、いきなり私に「ちょっとお伝えしておきたことがあります……」と言って、自分の霊感で感じたことについて語りだした。
正直、私はこういうのはあまり好きではないのだが、そのときは、鏡さんの話を聞いた後だったし、ちょっと冷静になってもっと自分の気持ちの変化を感じてみようと思い、彼を誘って二人でファーストフード屋に入ってコーヒーを飲んだ。
この方はたぶん、ほんとうにある種の霊感のようなものを持っておられるのだと思う。それはきっとそうなのだろう。ただ、たとえそれが事実であったとしても、この人の価値観に従うことは私の自由を手放すことでもある。私には私の感じてる世界があり、私はその世界のなかで自分の不都合に悩む自由も、苦しむ自由もある。たとえ、それが彼の言うように霊のメッセージを聞き入れていないからであっても、私は私の人生と好きなように向き合い、悩んでいいし、そうしたいのである。
でも、だからといって彼の価値観を否定する必要はないし、せっかく他者の違った価値観を知るチャンスでもあるのだから、それを聞いて、もし、自分にとって役立つ部分があるのなら、その部分だけ貰っておけばいいのだと思った。
ああ、そうか以前に私がこういう場面で妙に感情的になってしまったのは、相手の価値観に自分が乗っ取られてしまうかもしれないと畏れていたからなんだ。乗っ取られて自分の意志を侵害されたり、脅されたりするのが嫌だったから強い拒絶反応が出たのだろう。
でも、人間の人生に事故や病気や災難があるのはあたりまえだし、どのようなことがあったとしても、自分でそれを引き受けるしかない、と、覚悟をくくってしまった今となっては、かつてのように怖くはなかった。ちょっと気味が悪いな、と一瞬感じたりはしたけれど、そんなのは一瞬の感情で、一時間もしたらすっかり忘れてしまっていた。
彼は私の死んだ家族たちのメッセージを伝えてくれた。そして、仏壇の前で私が彼らに伝えるべきこともていねいに教えてくれた。それを信じるかどうかはともかく、ちっとも面倒なことでも、悪いことでもなかった、どちらかといえば、もし霊というものが存在したら、そのように伝えたら喜ぶだろうと思えたことなので、家に帰って素直に従った。でも、それで私の自由が踏みにじられたわけでもなく、霊が怖いからやったというわけでもない。やらない理由もない、というくらいな感じだった。こだわらなくなった。楽である。

でも、彼はどうなのだろう、あのようなきっぱりした霊的な確信をもっていたら、不自由ではないのだろうか。あれではそれ以外の価値観は受入れられないのではないか。でも、それが信仰というものなのかもしれない。統合失調症の人はそれによって生きづらさを抱えるけれども、霊的能力があると確信している人は自己肯定しているので、まったく不自由という認識がないのがおもしろいなあと思った。
 私たちは霊的世界の因果によって、現実を規定されている……、そう考えれば、現実の苦しさの解決策を霊的世界に求めるのは当然だろう。でも、たとえそうであっても、現実世界の苦難は自分が引き受けて生きていかないことには、霊の問題だけで物事を解決しても、同じことの繰り返しなんじゃないだろうか。霊的世界の因果は物語としてユニークで面白いし、人生をドラマチックに演出するにはもってこいの舞台装置なのだが、それはそれ、これはこれ、という自由さを……というか、いいかげんさ、ちゃらんぽらんさを持たないと、かなり脅迫的にも受け取れる。
 私の友人などは、なんでもかんでも受入れて信じてしまう心配性だが、それもまた、ひとつの手だなとも思う。全部おっけいってことは、かなりちゃらんぽらんってことだものなあ。
by flammableskirt | 2008-07-14 12:45

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