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アール・ブリュットと福祉

アール・ブリュットと福祉

福祉という領域が西欧のアール・ブリュットという概念を日本に持ち込んできたことはとても興味深いです。福祉の対象となるのはなにかしらの障害をもった人たち。お世話をする健常者とうまくコミュニケーションがとれない人たちです。

相手の行動がわからない。わかりたいと思うから、悩みが生まれてきます。福祉の現場では「なぜこんなことをするんだろう?」と、相手を、理解しようとする営みが常に続けられています。
さっぱりわからない他者の行動を「なにかしらの表現」として受け止めるために、新しい切り口が必要になります。その切り口のひとつが「アール・ブリュット」だったことは想像できます。

アール・ブリュット作品の魅力は「伝えようとしていない」ことです。健常者の表現はどうしてもなにかしら伝えようという作為を帯びてしまいます。伝えるにしても伝えないにしても作為が出てきてしまいます。それが良い悪いではなく、意識が働くので自然のこととしてそうなります。

意識はとても強く自己主張してきますが、たぶん、いまのようなコミュニケーションの形はせいぜい100年くらい前に生まれたもので、江戸時代までコミュニケーションの方法はかなり違ったものだったと思います。
遡って平安時代、奈良時代、弥生、縄文時代、もっと前、人は人とだけでなく、動物や虫や植物などともコミュニケーションをしていたのでしょう。その名残は世界の少数民族の文化のなかに残っています。
縄文土器が弥生土器と違い、色濃く生の息吹を発するように、アール・ブリュット作品も「生命」のさまざまな断片を垣間見せてくれる。民族的記憶、傷、カンブリア紀の海の生物のようであったり、人間の神経系のようであった、植物の胞子のようでもあり、土中のバクテリア、葉緑素、サンゴ礁、森、苔、カビ、動物、爬虫類……。森羅万象。
互いに喰らいあい協調していく地球の自然界の、命のつながりのなかで生物が出会い、位相を越えてコミュニケーションは成立しています。その無限ほどの生きものの声を、感じとる感性を人間は持っていたと思います。ミミズの声を聞き、亡霊を見て、風の色を読んだでしょう。

福祉の現場には、障害をもつゆえに健常者とは違うコミュニケーション能力をもつ人たちがいて、福祉に携わる方たちはその人たちを理解するためにたいへんな苦労をしてこられたと思います。どうしてウンチをなすりつけるのだろうとか、同じ場所から動かないのだろう、なにを見て、なにを思っているのだろう。意味のわからない行動に混乱したり、絶望したりしながら、それでも、理解したい、わかりあいたい、わかりあえる、という願望と希望。

アール・ブリュットは、障害者の問題行動に「表現」という新しい解釈を与えました。繰り返される無駄な行動が実はその人の自己表現であり、なおかつオリジナルな芸術的行為であるという発見は、福祉現場にいる方たちに驚きと感動を与えたと思います。

「創造している」「表現している」という意識が生まれた時に、それまでコミュニケーション不能だった相手との回路が開きます。相手を敬いお互いを尊敬しあう心がうまれたとき、劇的な変化や奇跡は起きます。そういうことがたぶん全国各地の施設で起きたのではないでしょうか。言い換えれば、日本におけるアール・ブリュットという現象は芸術革命ではなく、コミュニケーション革命だったのです。

私たちは同じ人間、障害があるなしに関わらず同じ命。それを頭でわかっていても、言葉が通じないと、どうしても相手を見下すような心が育ってしまいます。それはどんな人でももっている弱さだと思います。だから、毎日、相手と出会い直し、新たに発見し、驚き、畏敬を感じ、友愛を育み、笑いあうことを、続けていく。転んでも、つまずいても、また一から出会い直していく。福祉の現場とは、そういう場なのではないかと想像します。

そういう、人と人とのコミュニケーションが試される場においてアール・ブリュットが必要とされたのは、とても必然的なことだと感じます。アール・ブリュットは相手を理解するための一つのツールでした。「もしかしてこの行為はすごく創造的なのかも?」という驚きをもって、他者を再発見するために、すべての人に平等に与えられたツールでした。

でも、ツールを使うことにも慣れてしまったら感動は消えていきます。何度でも出会い直し、何度でも、繰り返し繰り返し、発見を続け、驚き続けるという、びっくり力を鍛えていくしかないんです。
わかったつもりになっても、けっしてわかりえない。他者は神秘の存在です。同じように自分だって神秘なのです。自分だってなにをしでかすかわからないような存在なのです。たぶん、福祉の現場にはこの「わからない、びっくり!」があふれ返っていて、びっくりするための、新しいツールを常に探し続けていないと、相手のわからなさにマンネリ化して、わからないことに慣れてしまうんだと思います。考えてみると厳しくて恐ろしい現場です。

問題行動と呼ばれていたものが「表現だった」と理解され、回りが受け入れれば、もう表現する必要がなくなります。だからアール・ブリュットの作家さんはいきなり創作を止めてしまうことがあります。表現衝動とは「理解されないことの深さ」と比例して強いです。人はみな人生の謎を抱えています。神秘を知っています。でも「なぜ?」という問いの深さは人によって違います。宗教的な問いを抱えている人は深く深くその問いの答えを探しているので、他者には理解不能な行動に出たりします。福祉の現場には、理解されてこなかった体験を抱えた方が多くいらしゃり、それゆえにその表現も多様なのかもしれません。

なかには人間とのコミュニケーションを閉ざしてしまう人もいるかもしれないけれど、それもまたその人のコミュニケーションの有り様なのだ、としないと、見えない世界と交感しているような方と、共に在ることすら難しいのかもしれないです。一人ひとり違う存在だから、その違いと向きあうとき、じぶんの違う部分にも光が当たっている。そういう内面への意識の向けかたをしていくなかで、もはや、アール・ブリュットは、あってもなくてもいいものになっていくでしょう。むしろ、アール・ブリュットを必要としたのは、社会のほうなのだと思います。
by flammableskirt | 2017-09-11 20:24