「仏教読書会」では何をしているのですか?
2015年 06月 15日
というご質問をお受けしたので、お答えします。
月に一度の仏教読書会では仏教関連のテキスト(今は『私とは何か』上田閑照)をみんなで輪読しつつ内容を話しあっています。
本をきっかけにしながら仏教の考え方を身につけていくことを主体にしているので、本を分析するというよりも、書かれてあることと現実の自分の心の出来事を重ねて、体験をみなで話し合う感じです。
話し合うと言っても、ゆるい会なので、まったく発言しない人もいますし、それはそれでよいし、その時になにかテーマをもっている人はいっぱいお話をしてしまったりします。
その日、その時、その場所に、共に集まっていること事態が奇跡です。
自分の意志で来ていると同時に、そこに来させられているということもできます。
そのような仏教的なものごとの見方を、繰り返し学んでいます。
今回のテキストでは「私は、私なくして、私である」という、とてもシンプルで、それでいて深い問題を繰り返し論じています。
私は、個人としての私、自我としての私であると同時に、「言葉」で表現されうる世界、を超えたなにか……、の表出である、ということ。
ひと昔前ですと「ワンネス」などと言われたりしていましたね。
言語を超えたところの世界はつながりあっている。あるいは、すべてはひとつのエネルギーである。最近では「ノンデュアリティー」などという考え方も脚光を浴びています。
時代時代で、いろんな表現がされてきましたが、富士山の登り口が違っても頂上は一緒……という感じではないでしょうか。
世界認識の枠を広げて、個人であると同時にもっと大きなものの一部としてのつながりあった自分、を、どう捉えるか。それを、スピリチュアルの言葉ではなく、仏教的な言葉で、今ふうに考えている……ということをやっています。私にとっては仏教の言葉のほうが使い勝手が良いので、仏教の言葉を借りている……というだけなのです。
仏教用語は漢字で書かれているので、漢字文化圏の日本人は「漢字」を見るだけで「感じる」ものがあるのです。
スピリチュアルの用語はカタカナで表記されることが多いので、目新しいけれど字面から何かを感じるということはないですね。感覚としてつかまえにくいので、ふわふわしたまま、わかった気分になって、使ってしまうところがあります。
日本は漢字文化を理解できる数少ない民族なので、漢字のニュアンスを即座に把握できる。漢字のほうが抽象的なことを捉えやすいので、仏教の用語を使ったほうが感覚的に理解しやすいと思っています。
「私とは、個であると同時に、空である」という、世界の二重性のなかで「私」を感じることが、このテキストの主題です。般若心経で言えば、色即是空、空即是色。この八文字を、どう自分の感覚として体感するか……。
瞑想や坐禅ではなく、言葉を通して体感するためには「わからない」「矛盾している」「頭がエラーする」という感覚がとても良いです。「矛盾していて頭が真っ白」「思考停止」という状態を、体験することで、言葉から世界の二重性にちょことっとだけ触れてみるか……という感じで進めています。
たとえ、すべてが「私の心が創り出した物語」であっても、人間として地球に生まれた以上は物語の世界に生きていかざるえないのです。空の悟りを得ても、腹が空では生きていけない、お金がなければ水も飲めないのが、私たちです。
だからと言って、この「物語」の中だけで生きていては、あるとき「なんのために生きてるんだ?」という疑問がわいてきます。悩みも深まるばかり、なので、バランスをとって、物語は物語として楽しみつつ、その外側の言葉を超えた世界についても感じてみよう、ということを思って始めました。
もうすぐ始めてから丸二年になります。気長にやっているとだんだん、模様の中に隠された記号が見分けられるような、そんな感覚が生まれてきます。面白い感覚です。
ご利益は特にありません。少し前向きな気分になったとしても、それはご本人の努力のたまもので、読書会とはなんら関係ありません。
どのようにかなってもらったり、変化してもらったりすることを目的にしていないので、どのようにもしないし、どのようであってもいいという、いいかげんな読書会なので、はりきって来られた方はがっかりなさいます。
第四火曜日7時から、お茶の水で行っています。
10月で一区切りになるので、いまは新しい参加者は積極的に募集はしていません。かといって、来る人は拒まないので、途中から参加される方もいます。