ゴドーを待ちながら

急に暖かくなって、しかも、今日は三月になってしまいました。
月が替わる時に感じる「必死で走っているのに出遅れた感」はなんだろうなあ……と思います。
死ぬまでこんな感じなんだろうか、死期が迫ってくるときも、あーがんばったけど、なにかに遅れをとった気分だなあ……と思うのだろうか。この「あー、なんか遅れている」っていう感じの気分の根拠はどこにあるのだろうか?
やるべきことをやっていないで、たとえば確定申告の書類の一部がまだ手元にないとか、そういうせいなのか?
わからないなあ……とにかく、私の気分は、季節にいつも急かされていて「あ、ちょっと待ってよ今行くから、あーーー!」なのだった。

昨日は東京ノーヴィ・レパートリーシアターの「ゴドーを待ちながら」の千秋楽を観劇し、打ち上げに参加させていただいた。
「ゴドーを待ちながら」は、サミュエル・ベケットのあまりにも有名な戯曲だけれども、知的な遊戯として演じられてしまうことが多かった。今回の舞台は、演出家アニシモフ氏の今日的な解釈と役者の力量がすばらしく、結末になにかしらうっすらと光が差してくる思いがして、美しい舞台だった。ベケットに対して敬意のある、戯曲に忠実な舞台であり、だからこそ演じるのが困難で、だからこそベケットの世界観を観客に届けられるのだと思った……。
ベケットは、いつの時代にも前衛であり続けるところがかっこいいな……。やはり、すごいのだ。以前にはわからなかったが「ゴドーを待ちながら」の主題は普遍的であり、普遍的なテーマは古くならないのだった……。
そういうものに触れると、私のなかには「やる気」と「挫折感」が同時に立ち上がってくる。だいたい常に私の中には二つの相反する感情が同時に存在し、その時その時の微妙な傾斜で心という玉がころころと移動しているのである。
この傾斜は、春になるとなぜか「挫折感」の方向に角度を増すため、心はゆるやかに確実に憂鬱になるのだった。この憂鬱は、人恋しさとワンセットになっており、理由もないのに……というか、さまざまな、表面的な理由によって朝からちょっと淋しい気分になっている。

単なる傾斜であるから、時々刻々と移り変わっているのだけれど、月の変わり目は「出遅れた感」がいなめないので、理由もなく心は自分を責めるほうへと傾斜して、ころころと不安定に転がっている。あー、めんどくさいなと思うのだった。

坐禅などというのは、この傾斜を平らにするためのものなのだろうな。多少の傾斜は「言葉」を排除することで、身体感覚に転じていく。気分ではなく「身体の感じ」として受け止めることによって、この傾斜のころころは消えていく。消えていくとわかっているのだが、消えてしまうとなんだか物足りない気もして、あえて傾斜のなかでころころしているのは「趣味」であり、この「趣味」を「わびさび」という日本人的な美意識まで高めてしまえば、春の朝に感じる孤独も、俳句やら短歌に結晶するんだろうな。

しかし、古典の教養もなく、歌心もないので、そういう境地にもなれず、なんだかうだうだしているのだった。

こういう朝は、豆を挽いて珈琲をいれると、あのひきたての香りが少し傾斜を「幸せ」の方に戻してくれるのだが、ゆうべちょっと打ち上げで飲みすぎてしまって、胃がもたついているので、珈琲を飲む気になれない。

だいたい、久しぶりに飲んだりするから、よけいに翌朝どよんとしてしまうんだ。そこにもってきて、やっぱりベケットはすごいのである。ベケットは観念的だと思っていたが実は違うのだなあ。やはりベケットは自分の血肉になるまで人間存在とはなにかを考えた人だったんだろう。そういう時、きっとベケットは憂鬱な気分になっていたに違いない。

私も、来ないゴドーを、待っているんだよな……と思う。
だから、月が替わると、ああ、やっぱりとうとう来なかったと思うんだろう。
そして、また待ち始める。
なにかがやってくるのを。
by flammableskirt | 2014-03-01 10:50

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