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わたしは相田みつを(の書)がなぜ「苦手」なのか……。

 ドキュメンタリーのプロデューサーである友人と会って、短い時間だったが、福祉や水俣、そして福島の現状について意見交換をした。話題がチョムスキーに流れたとき、ふと彼が「アルンダティ・ロイを知っていますか?」と言う。知らなかった。「彼女はコロンビア大学でチョムスキーの学生だった。インドの作家です。彼女のドキュメンタリーを撮ってみたいと思っている……」
 その後、話題はアジアの女性問題になり、女性問題の取り扱いが難しいのは女性のなかに、性被害の問題を無意識に避けたい……という思いがあるからではないかと思う……と個人的な意見を述べた。私自身も従軍慰安婦や、アジアの幼女売買のことを、なんとなく避けたいような妙な感じがある。それはまだ自分が男性に対してロマンチックな幻想をもっているからだと思う……と。彼は……男性なので……自分の想像の範囲を超えることに対して慎重に沈黙した。
 そして、「インドではいま20万人が自殺している。その多くが貧困層の若い女性だ……」と言った。なぜ貧困層の女性が自殺するのか私にも理由は想像できた。貧乏な家に生まれた女の子は、まだ初潮も始まらぬうちから結婚させられたり、売られたり、商品として扱われることがあり、絶望するからだ……。「もちろん、インドの人口を考えれば自殺の比率的には日本とそう変わらないかもしれないが……」と彼は付け加えた。
 仕事場に戻って来てから、私はtwitterに「インドでは20万人が自殺し、その多くが若い女性であることにショックを受けた」と書こうとし、考えた。ショックを受けた……というような、ありきたりな言い方で、あの時に感じた思いを伝えられないと思った。しかし……どう書けばより自分の実感に近いのかわからなかった。こういう凡庸な言い方をすれば、きっと「インドの人口は日本の……倍ですからね」と言う人たちがいるだろう。そのことは想定できる、確かにそうなのだ。だが、伝えたいことはそこではないが……。
 それで「インドでは年間20万人が自殺し、多くは貧困層の若い女性というお話を聞いた。なにか途方もないものの前に立っている気持ちのままかえってきた。」と呟いた……。
 それに対して、私の想定した通りの反応を書き込みをしてきたのは私の古い友人だった。私は彼のことをよく知っているし、彼が非常に問題意識をしっかりもった頭の良い人間であることも知っている。そして「インドで20万人の人間が自殺している」というようなお涙ちょうだいの論調には、ある種のニヒリズムでもって対応してしまいがちな人であることも知っている。確かにそうだ。インドの自殺率は多いが、それは人口も多いのだから……比率で言えば……おしゃる通りである。
 そういうシビアな考え方がひねくれているとは私は思わない。
 ただ、私が……なにか釈然としないのは「インドで20万人が自殺するなんて、ひどいわ!」という、やや感情的でセンチメンタルにも思える意見に対しては、「科学的に比率を考えてみろ」という意見で対応したくなる……という、この両者ともにもう同じ土俵にいるってことなのだ。
 自分がはまっている「反応」のパターンを繰り返しているだけ……という点では同じだろう、それって不毛だろう……ということなのだ。私はそこを抜けたいと思うが、そのためには、なぜそう思うのか……、そう反応してしまうのか、について、一度、立ち止まって考える必要があると思う。
 で、私は実は「相田みつを」の書というのが苦手なのだ。それがちょっとこだわりのあるっぽい和風のお店に飾ってあったり、トイレに貼ってあったりすると「なんだかなあ……」という感じを覚える。げんなりする……というか、見てはいけないものを見たような……というか、妙な心境になる。
 いったいそれはなんだろうか……と考えてみた。インドの自殺率と相田みつをのあいだには、関係などないのだが、私の中では繋がってしまったのだ。
 相田みつをさんの書は、いいと思う。文字もおもしろいし、ユニークじゃないか! じゃあなぜ、私はげんなりするのだ。たぶん「相田みつを」を「良い」とする場合のある意識の方向性が「相田みつを」という作家を超えて一人歩きしており、そこに違和感を覚えるのだ。
「相田みつを」がブランド化されてしまい、もはや素朴に作品と向き合うことができないほど、固定されたイメージをもってしまい、記号化してしまい、よって当然のことながらわかりやすく陳腐化され、消費されている。それによって、いまここで、新に作品と出会うことができなくなってしまった。もういかなる新しい解釈、新しい意味づけも不可能なほどに「相田みつを」はわかりやすくなってしまった……。誰からも了解されてしまった。それが、せつないし、恥ずかしいのである……。どうにもいたたまれない気持ちになってしまうから、だから苦手なのだ……。
 だが、そんな嫌悪感をもつこと自体がすでに、自分の陥っている思考停止とワンパターンへの言い訳に過ぎないのだと思う。相田みつをについて全く何も知らない人が、ある時、ふとこの書の前に立ったとき「いいなあ……」と心を動かされる……。そういうことはあるのだ。
 私は、いかようにも出会っていいのだ。新しい相田みつをに。いまここに立ち上がってくる相田みつをに……。センチメンタルや、甘えではない、相田みつをに。それができないことを人のせい、社会のせいにしてもしょうがない……。意味をことばを、いまここに燦然と立ち上げることができないなら、それは自分の感性の鈍さにほかならない……。

 茨木のりこさんが言っていた。「しぶんの感受性くらいじぶんでまもれ、ばかものよ……」
by flammableskirt | 2012-12-01 13:30