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尊厳死についての断片的な思考

 福島県川内村から戻った翌日、友人の医師で今年から在宅医療の医院を開業した新城拓也先生と、医学書院の編集者・杉本さんと共に「尊厳死の法制化を認めない市民の会」に出席する。
 「尊厳死の法制化」を求めているのは、日本尊厳死協会というところで、今国会には法律案が2案提出されているのだけれど、その内容や法制化を求める経緯などがよくわからなかったため、勉強も兼ねて出席してみた。新城先生から誘われて軽い気持ちで出かけたのだが、司会の方から指命されて意見を述べる時間をもらった。
 私は「苦しい延命治療にノーと言う」自由を認めることには賛成なのである。ただ、それを「法律」として医療現場で適用する……ということに関しては反対なのだった。
 一人の人間が死んでいく過程は、ほんとうに個別で、その人の人生そのものなのである。だから、誰かと比べてどうとか、あの人がこうだったからこの人も同じとか、そういう他者との比較がまるでできない領域なのであり、同じ死は一つとして存在しないことを痛感しているからだ。個々がそれぞれに違うように死に方もそれぞれに違う。看取る側の人間はその個別性とつきあうことを通して、なぜか「自分も他者も唯一無二という点において同じである」という普遍性のようなものを学んでいく。不思議なことだが、違うから同じ……なのであり、この「違う」ということが痛感できて初めて「人と自分はつながれる」と感じる、それが私の体験だった。そこに「法律」というものが介入してしまうことで、この体験が損なわれるのを危惧する。他者の死は、生きている人間に「生きることの真実」を教えてくれる大事な機会だからだ……。
 終末期の死の問題はもちろん議論されて良い。でも、この法案は唐突であり、この法案がもし通ってしまった場合、医療現場はかえって混乱するだろうと予想する。専門性でもって縦割りになっている今の日本の医療現場には、連携医療というシステムがまだ一般的ではなく、そのため医師も孤立しており、多様な疾患を抱える患者との良い治療関係を作るのが難しい情況だからだ。患者が複数の病気を抱えた場合には、病院を追い出されてしまうことも多い。また、人口に比して病院数の少ない地域も多く、こんな情況で、救急医療体制もガタガタの状態の現場に「複数の医師の判断で治療を止めてもよい」というような法律を持ち込むことは、あまりに時期尚早に思える。この法案の前提となっているのは「患者(家族)と治療者が了解しあえる関係」という環境であるのに、その環境が現場に整っていないケースのほうが多いからだ。
 医療の現場に相互信頼と柔軟性を取り戻してから、尊厳死の問題の議論に入るならわかるが、今のような医療システム崩壊寸前の状態で、尊厳死を法制化しても現場はかえって混乱してしまうだろう。

 集会には、大野更紗さんはじめ、難病の方たちもたくさん参加していた。会場は車イスで溢れ、ふだんの会見とは違う雰囲気で、この問題に切実に思いを寄せているのは、自分の生命維持のために日常的に医療者と関わらなければならない人たちなのだということを痛感した。言葉によって意思疎通ができないような情況になったとき「複数の医師の判断で治療を中止」されてはたまらない、と切実に思っている人たち。その切実さは、私とはまるで違うのだ。以前にHIV患者である友人に聞いたことがある。
「俺たちは、生まれた時から医者の世話になって、医者に命を託して生きてきたから、医者には恋をしているような感情をもっている。その医者を好きにならないとやっていかれない。だから、どんなに理不尽であっても耐えてしまうようなところがあるんだ……」
 恋をしている……と言われて、はっとしたことを覚えている。そうなのか……と。でも、そうだろう。自分の命を人にゆだねてしまわざるえないのだから、依存してもしょうがないではないか。
 でも医師の側は違う。医師にとって患者はいつも「多くのなかの一人」でしかない。そういうものであり、そうであるべきなのだが、だからこそ医師と患者の間には時間をかけた話しあいが必要なのだ。暗黙の了解では恐ろしすぎる。

 老人病棟と呼ばれる場所に、点滴で生かされている生活保護の老齢の患者さんたちを取材したことがある。囲いもない病室にベッドが並べられ、寝たきりの状態で毎日点滴を打たれて生きている。話すこともできない……というよりも、話す気力がないような雰囲気だった。部屋の中はおむつからもれた尿の匂いが充満し、正直「姥棄て山」という言葉が浮かんだ。
「ずっと、このままで死んでいかれるんですか?」
 と、私が聞くと、病院のスタッフは
「この人たちは病院に入院しているだけマシです。自宅で孤独死する人も多いんですからね」
 生活保護を受けていた場合、そのお金が入院費にあてがわれるので、病院は取りっぱぐれがないから受け入れるのだ……という話も聞いた。政府は生活保護の予算を削減する方針だから、これからは自宅で一人で死んでいくご老人が増えるのだろうか……。尊厳死という言葉が空疎に思える。まずは「生きる尊厳」だろう。尊厳ある生の延長に死があればいいだけじゃないか。
 でも、尊厳ある生とは人から与えられるものだろうか。それは……私の裡に自ら築くものではないか……。私のなかの貴さは、他者の貴さと等しい。魂に流れているエネルギーは循環している。

 「日本尊厳死協会」は、前身が「日本安楽死協会」。その設立者は太田典礼という産婦人科医だということを新城先生から伺った。この医師は後に日本社会党から立候補して議員となり優生保護法の制定に尽力した(この時代の優生保護法とは、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する……というもの)。日本が人工中絶大国で、高校生でも中絶できてしまうのは太田典礼のおかげ……と言えるかもしれない。
「太田典礼はおもしろい人物ですよ、田口さん調べてみてくださいよ」
 そう言われて、太田典礼について調べていくうちに、この人が一九六〇年代から七〇年代に、現代の高齢化社会を見越したように老人問題について語っていることに驚いた。
 現代であれば、このような意見を述べることすら難しいだろうけれども、この時代はおおらかだったのだなと思う。
「……ただ長生きしているから、めでたい、うやまえとする敬老会主義には賛成しかねる。 ……ドライないい方をすれば、もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である、と私は思う。」(太田典礼 思想の科学/老人と孤独より)
 晩年に太田典礼は小説を書く。「老人島」という奇妙な小説らしい。私はまだこの小説を読んでいないのでコメントはできない。
 かつて、日本には優生思想(優れた遺伝子を残し、不良な子孫の出生を抑制する)があったことを、久しぶりに思いだした。
 科学技術の進歩とともに遺伝子の解明が進み、病気の原因となる遺伝子が特定されるようになった。海外では受精卵の段階で子どもに親の好みの外見や知力を持たせるデザイナーチャイルドも産まれている。以前にブログで紹介した河原ノリエさんの「いのちのかなしみ 私のカラダの情報は誰のものか」(春秋社)で問われているように、遺伝子を操作できることが、逆に人間が遺伝子に操作され始め、人間がどんどん医療情報化されていることを思い返した。

なにかをコントロールしようとした瞬間から、その対象にコントロールされ始める。そのことを忘れてはならない。支配することは、被支配とおなじこと。それはコインの裏と表で、支配する人間は、支配するという欲望にがっぷりと支配されてしまう。コントロールする人間はコントロールされている人間と鏡で映しあっているのであり、決して自由になれない。およそなにかをコントロールしたい、思い通りにしたいと思った瞬間から、人は「本質的な魂」を見失い、ねじれを起こしていくのだ。それが、どんなに正義のためであっても、エゴは自然にとって異物なのである。

「尊厳死法案」について考えているうちに、人間の「自我肥大」に思い至る。私を中心に置いて他をコントロールし、思い通りにしようとする。現代はエゴの時代であり、エコもエゴであり、反原発もエゴであり、原発もエゴであり、尊厳ある死に方をしようとするのもエゴであり、肉体をコントロールして痩せたり太ったりするのもエゴであり、なにもかもがエゴである。思うようにしたいという欲望はすべてエゴの産物であることは間違いない。それが良い悪いではなく、私を中心にしたものの考え方はすべてエゴである。その前提に立って世界を見てみると、世界の風景が変わる。ただ見るだけなのに、それを嫌がる人が多い。自我は中心にいたいのだ。私もそうだ。でも、自我は中心にいなくてもいいのだ。いなくてもなにも変わらない。自我が解けたとき、やっと、世界は緊張を解いて本来の美しさを現す。

 そして、思いは水俣に還るのである。胎児性水俣病が発見された後も、子どもを産まない……という選択をしなかった水俣病患者の人たちの「コントロールしない」という生き方について思うのである。私が水俣から学んだことは、とてつもなく大きかったことを改めて実感する。世代的には遅れて水俣に分け入った。すでに闘争も終わり「いまどき水俣に来る人はめずらしい」と言われた。でも、ほんしつの魂は消えないものだ。魂から私が受けとったものがある。そのことを精いっぱい伝える時が……、来ているのかもしれない。
by flammableskirt | 2012-08-28 10:06