やっぱ、愛だよね。


このあいだ、あるイベントでとてもよいお話を聞いた。
「3.11のとき、私は喫茶店でナポリタンを食べていた。ウエイトレスは不機嫌で感じが悪かったし、だるい感じの若いカップルがパフェを食べていた。他にもいろんな客がいた。でも、地震が起きた瞬間、その場に不思議な連帯意識が生まれ、ウエイトレスは具合の悪い人を気遣い、だるい感じの男女もしゃきっとして他者のために働いた。みなが、他者のために懸命になる瞬間を目撃して、ああ、それぞれのなかにこういう可能性があるんだ……と幸せな気持ちになった」
 かなり言葉を省略し、脚色してしまっているけれど、おおむねこんな感じのお話だった。突然の大地震、その時、その場にいた、一見やる気のないダラダラした感じを受けた若いカップルが「大丈夫ですか?」と年配者を気づかっていたという。
 そのお話を聞きながら、情景が目に浮かんだ。
 かなりの揺れ、非日常的出来事が起こったとき、一瞬「自分」というものが削げ落ちるのかもしれない。何万年ものあいだ人間は集団で狩りをして暮らしてきて、とても弱かった。外敵から身を守るためには「集団で生き残る」ことが必要で、だから全体のために動く……という行動形式は本当は私たちのなかに眠っているはずだ。
 でも……と思う。危機が去ってからはどうなんだろう。しばらく安定が続き身の危険が遠のけば、けっきょくは資本主義社会の中で育った自我が幅をきかせて、まずは自分のこと、余裕があれば他人のこと……、という風になっていくのではないか。我が身を振り返れば「損をしない程度に他人には親切」というのが私の日常的な生活姿勢である。自分が不利益を被るのは憤慨なのである。ケーキを分けたら小さいのがあたった……というくらいなら余裕をかましていられる。そもそも甘いものが苦手だ。だが、もっと大きな不利益だったら「くそっ!」と思う。
 地球規模の環境汚染、原子力の問題……。人類というかなりデカい規模で人間に迫ってきた「危険」は、無視できない深刻さになっている。だとすれば、人間は大昔の人たちのように「共同で生き残る」という知恵を発揮しなければならない。でも、あまりに規模のでかい危機だし、地球という規模の人類的な共同など、人類史上経験もなく、まったく新しいチャレンジであり、そのためにインターネットは発達したのか……これは必然なのかとも思う。
 一瞬の危機に対応するためなら先祖返りもできるけれど、これが日常的にずっと……となったらどうだろうか。生活としての非暴力、生活としての節約、生活としての分かち合い。それを、自分の文化として受け入れ育て、あたりまえのこととして自然になるよう身につけるための努力。
 どこからともなく「人のものは俺のもの」という人々が現われて、なにもかも略奪していったら、ぼう然とそれを見て「それでも私は戦わない」と言うことができるんだろうか。
 そうならないために、かつて明治維新が起こり、西洋の列強と肩を並べようとした私たちの祖先。思えば、農業の衰退、中央に権力が集まる社会、みな明治維新に端を発する。それが良い悪いではなく歴史的必然だった……。いま、私の生きているこのいまこの瞬間にも歴史的必然として世界は動いている。そのただ中にあって、私ができることは、自分の攻撃的な性格や損得勘定の悪い癖をていねいに変えていく以外にあるんだろうか……。それをすれば損をすることがわかっていても、私自身をまず変える。ということができるんだろうか。
 デモに行かない私が、できる革命……。しかし、それは誰にもわからないし、誰も褒めてもくれない……。そんなとき、神様を信じたくなる。私を変えるために……、私といつも共にあり見ていてくれる人が必要になる。「やっぱ、愛だよね」と励ましてくれるなにかの支えが……ほしくなる。ここ数年、私がブッダという人に強く惹かれているのも、そのせいかもしれない。


 
by flammableskirt | 2012-07-03 09:00

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