父の魂

今日は父の日だという。
父の存在は偉大だったといまは思う。人格障害、酒乱、アルコール依存症。
人生の九〇%の時間、私は父が好きではなかった。かといって憎いんでいたともいえない。
憎しみという感情が私にはよくわからない。ずいぶんとひどいことをされたこともあるが、憎しみと怒りの区別がつかない。怒りを感じることはある。だが、憎しみとはなんだろう。父を憎んだことはなかったように思う。それよりも、怒り、悲しかった。あまりにも理不尽だったからだ。

2008年の父の死は私にとって大きな転機だった。
いや、父の死というよりも父の死ぬまでの過程に寄り添ったこと。父との和解というべきか。
ガンで倒れた父は飲酒が不可能となり、激しい禁断症状の末にシラフの状態にもどった。そのときはもう末期ガン患者として余命宣告をされていた。ほんの三ヶ月の間だが、私は何十年かぶりに酒を抜いた父と暮らすことになったのだが、そのとき初めて父の隠されてきた本質、父の魂と触れ合った気がする。
不思議な時間だった。数々の奇妙な偶然が連鎖し、父と私がようやく同じ夢のなかで目を覚ました。
それは「死」という夢だったのだが、それでも父に見えている世界が私にも見えた最初で最後の体験だった。
それまで私は父がなにを思い、何を考え、どんな現実に生きているのか想像もできなかったのだ。

その体験を書いた本が「パピヨン」(角川学芸出版)である。
この本は、身近な人間の死に立ちあおうとする多くの人に読まれるようになった。
大ヒットするようなテーマの本ではなないが、父が私に残してくれた最期の作品だ。
いま読み返すと、もうあの当時の心情をずいぶん忘れてしまっていることに気づく。
書き残しておいて本当によかったと思う。たぶん、今では書けない。あの時だから書けたのだ。
多くの不思議なエピソードも現実的なものではなかったので夢のなかの出来事のように忘れていく。
でも、書いておいたから、思い出すことができる。

父が死んだとき、父の夢を見た。
父は自分の10本の指を切り落として私に指し出した。
指をくれるというのだ。指、全部を私に与える、そういう夢だった。恐ろしかった。
だが、目が覚めてから不思議な力を得たような気がした。
そもそも私が小説を書いているということは、これは父から受け継いだ資質にほかならない。
粘着質なほどのきまじめさ、始めたら止めることのできない集中力、あまりにも過剰なエネルギーをもっていたゆえ父はとても生き難かった。私は薄められたが同じものをもっている。

父が死んでから、私はしばらく放心と自由を味わった。
私の実家の家族全員が他界した。いろいろあったがすべてが終って一人になった。
晴れ晴れとした気分とともに、なにか不思議な密度の高い悲しみが下腹のあたりに錘のように残った。
その錘が私のバランスになった。この悲しみはほどよく私を安定させ、ふわふわ浮いていた魂をしっかりと固定させてくれた。このような「悲しみ方」があるのだと知った。

もう家族の問題は書きたくなくなった。興味が失せてしまった。
自分が書きたいことはなんだろう……と、しばらくぼんやりして、それから方向を見いだした。
そして書き上げたのが「マアジナル」だった。この作品は自分の本当の趣味の作品だ。それまでの作品が私の内蔵にたまった怒りと悲しみと懺悔だったとすれば、そいうものから解き放たれて、初めてのびのびと、家族の影響をいっさい受けずに書いた新しい作品である。だから、心から楽しかった。ほんとうに楽しかった。
といって、もちろん興味や関心はデビュー当時から変わっていないのだが……。

私が父と和解できたのは、私が作品を通して、自分のなかの腐敗しきった家族への思いをすべて吐き出し表現してきたからだと思う。自分をさらけ出し自分をありのままに表現し、それをものすごくたくさんの読者の方々が受け入れて共感してくれたからだと思う。そのようにして私は、自分のあまりにも恥ずかしく隠ぺいしたかった不気味な感情やコンプレックスや怒りを他人に見せ、それを受け入れてもらうことでようやく、マイナスと感じていた自分の家族や心の問題に価値と意味を見いだし、自分の生き様を肯定できるようになった。

そして「こういうダメな自分」でもしょうがないと思うに至り、ようやく今度は、人生の意味や価値を逆に手放すことができるようになった。この回りくどい回路を通していまようやく、表現という無限の地平に出たように思える。書くことは楽しい。これまでも楽しかったが、ほんとうに楽しい。世界は無限のテーマに満ちている。
私には父の指がある。これまでの倍の力で書けるだろう。

父の日に、このように父の魂を偉大に感じる日が来るなんて、十代の自分には想像もできなかった。
あの頃の自分に、今の自分を見せてあげたいと思う。
大丈夫だ、あなたはいつかあの父の魂を受け継ぐ日が来るよ……と。
by flammableskirt | 2011-06-19 12:20

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