タマネギの皮をむく

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NHKで放送された「無縁社会」が過剰演出ではないか?
という記事を読んだ。ネットを「現実逃避の場」と決めつけている……と。

テレビや雑誌の取材を受けていて「最初からシナリオがあるんだな」と思うことはままある。しょうがないとも思う。自分も書く仕事をしている。自分の考えで相手を切り取っている。そうしか書けないからだ。だから、自分もどう切り取られても文句を言う立場にない。

私は30冊以上の本を出版しているが、その一冊を読んで「田口ランディは……」と私を切り捨てる読者もいる。すべてを読んでくれとは言わない。表現の方法は違っても底通しているトーンがありそれが私だ。だから、一冊を読んで「こういう奴か」と思うならそれでいい。そう思う。自分も同じだからだ。一冊読んで気が合わなければ、なかなか同じ作家の別の本に手を出さない。そういうもんだろう。

昔は「決めつけないで欲しい」と思った。「決めつけられるのがイヤだ」と。そこに必死で抵抗していた時期があった。抵抗するというのはしんどいことだ。このごろ抵抗しないのだが、抵抗しなくなって、わかったのは抵抗している時、私はすごく弱っていたなということだ。

抵抗というのは弱いほどするんだな。自分の場合である。他人は知らない。私はそうだった。抵抗するればするほどしんどくなる。抵抗ってのは攻撃ではない。抵抗っていうのは、かなり受け身である。自分から打って出ない。出れない。相手に押されぎみの状態だ。

自分が表現できるようになると、つまり、開き直ったり、どうでもいいと諦めて、無駄な抵抗よりも自分が好きなように自分を展開させることに興味が向くと、関心は他人ではなく自分の方に移行する。自己愛が強くなる。自己愛というのは悪いイメージをもたれがちだが、自己愛こそ愛の根拠じゃないのか。

破滅型でわがままな人を自己愛の強い人の代表みたいに考えるのは妙なことだ。そういう自己愛は自分のことを思っていないのだから、自己愛とは言えない。身勝手に見える人ほど自分の都合では生きていない。自分の都合はあんがいと他人とのいいバランスの空間にぶらぶらぶら下がっているものだ。

あるべきシナリオはわかりやすく「弱者」と「悪人」をはっきりさせればおおかた成立する。弱者が被害者権力をもったり、悪人が時として善人になったり、というのはひっくり返しただけだから、これもわかりやすい。昔のレコードのA面とB面程度の違いしかない。

物事はすべて空間的、時間的なひろがりをもち、幾つもの系がからみあっている。それを立体的かつ歴史的に見ていくことでようやく全体の「相」のようなものが見えてくる。それが一番面白い。きっと多くの現場の人たちも、そのような「相」をすくいとりたいという野望をもっていると思う。

組織が提示する時間的、予算的な制約によって断念せざる得ないことも多いのだろう。「会議」という場でたくさんの企画が潰れ、路線を変更させられ平べったい薄っぺらいものになっていかざる得ないことも承知している。

世界にかかった洗脳が、ゆっくりと、いや急速に溶け始めているのは確かだが、なにかが間違いだったとしても、ではなにが正しいのかがわからない……というのが現状だろう。善も悪もない。主観というものは存在しない。カントからニーチェへ。物事の本質というものはない。だからこそ、今ここの生命を生きる超人となる……。

このごろなぜかニーチェの言葉が甦る。だが、私はニーチェが好きではない。どうしてかな。ニーチェよりもカントに共感を覚える。ニーチェの思想の跳躍が苦手なのだ。人間はそう簡単に飛べないものさ。……と私は思っている。
でも、ニーチェが目指した孤高の超人像に魅かれるのも事実。

ああでもない、こうでもない。
考えてタマネギの皮をむく。人間はそれぞれに嬉々として自分のタマネギの皮をむき続けるサルなのか。楽しければオタクなサルでもいいのか。
そんなことを考えつつ、今夜の夕食のカレーのタマネギをむいていると、遠近感がわからなくなり、夢の世界に入ってしまう。
そして、けっきょく疲れて眠りにつき、また朝が始まる。
その繰り返しだ。

もうどうでもいい、すべては日常に押し流されていく。それぞれの日常だ。無数のそしてたった一つの日常。
悪くはない。なにがあっても。
それなりに、きらきら、かわいいなと思う。
by flammableskirt | 2011-02-18 15:24

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