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ネット・情報・人間について・インターネットする?

ネット・情報・人間について
ダイアローグ研究会
モーリー・ロバートソンさんの講義を受けて考えたこと

昨日、明治大学で開催した第三回ダイアローグ研究会において、ゲストのモーリー・ロバートソンさんがネットメディアの可能性についてスピーチをなさいました。モーリーさんが特に強調して話されていたのは、現在、エジプトで進行中の革命についてで、社会革命の引きがねになった要因の一つ、それもかなり大きなウエイトとして、個人がネット上に発信するリアルタイムの情報、またネット上での意見の表明をあげ、ネットの21世紀が始まった観があると語られました。
たぶん会場で聴講していた方のなかには、ネットワークがもたらす未来がバラ色とは限らないし、ネットは善意の表出があると同時の悪意の表出もあると考えていたのではと思います。でも、エジプト、アラブ世界にアメリカが関与しない革命の波がネットによって起こっている……というモーリーさんの分析は、現実のある一面を捉えていると思います。未来がバラ色かどうかはともかく、いまこの世界で現実に起こっていることを「見る」ことは「考える」うえで必要なことだと感じました。

ネットとはないか。それは私がネットワークを始めた20年前から考え続けてきたことです。パソコン通信の時代からネットとは「人間」が作ってきたものです。ネットとはなにかを考える上で「人間とはどういう生きものか」という問いは私のなかに常にありました。ネットは抽象的な仮想空間ですが、20年もネットの世界にいると、仮想空間であったものがもはや仮想とは言い難く、実際に私はネット上のハンドルネームがいまや私の人格をも現す「ランディ」という現実世界のペンネームになってしまっています。

人間は何度も革命を繰り返してきましたが、革命というのは「起こる時には起こる」という、台風のようなものだと感じます。およそ人間が関わる様々な「現象」は天気のように予測不可能。それをなんとか予測しようといろんな学問が生まれましたが、私たちはまだ「人間とはなんぞや?」という問いの答えをもっていません。統計学や、占星術をもってしても人間の未来を予測できませんし、その予測不可能な人間の集合体であるネット社会も予測不可能。であるから、ネットで革命は起きましたが、次に同じ事が同じように起こるという確約はないわけです。歴史は繰り返しますが、それは同じことがもう一度起こるということではないのは自明です。

人間がやっていることなので、ネットワークの既得権益を得ようとしたアメリカの思惑もはずれ、コントロール不可能な「革命」を生み出したりします。それはネットが「人間が関与した現象の渦」だからでしょう。

インターネットは確かにツールです。パソコンもツールです。でも「インターネットする」という動詞で考えてみれば、主体は人間です。ネットワークは動詞なんです。名詞として考えるとネットの本質を見失うような気がします。インターネットはインターネットする人間がいて成立しています。そして人間のやることは、子供だろうと老人だろうと、アジア人だろうと、ヨーロッパ人だろうと、完全予測は不可能なのです。ところが、ネットワークはこうなるとか、ああなると予測可能だと思い込みがちです。でも人間の行動予測なんてできません。もしできれば犯罪も戦争も未然に防げるはずではありませんか。そんなこと不可能ですし、不可能だから私たちはかろうじて自由だともいえます。行動予測が可能だという前提に立ってしまったら「あなたは将来、犯罪者になるから」と言われる可能性が出てきます。それは、かなり恐ろしい社会じゃないでしょうか。

革命とサッカーの試合は同時に情報としてタイムラインを流れていきます。
どちらに興味があるかで、情報価値が変わります。情報を読み取るのは人間です。だからある人にとってはサッカーの試合経過のほうが価値があり、書き込みからリアルな試合場面を想像できますし、ある人にとっては革命で血が沸き立つのです。つまり、人間という主体がいて初めてその情報を読み取り、それを自分に役立てるわけです。読み取る人間が存在しない情報は、記号の羅列になってしまいます。膨大な情報がネット上にはありますが、それをどのように解釈し、そこから何を得るか……という情報の質は、読み手に左右されます。

ネット上には英文情報がたくさんありますが、英語が使えない私はその情報を自分に役立てることが不可能。でも英語を勉強してそこから意味を読み取れるようになれば、多少は情報の質は上がりますが、英語をネイティブに使う人が読み取る情報量から比べたらずいぶんと得るものは少ないかもしれません。これほど人間が関与しているネットワークの世界は、リアルをいくら追いかけても、リアルというものは存在しないのかもしれません。

いまここで、撃たれた戦士の画像がアップされたとします。でも、それは現象のほんの一部分で、そしてその映像が伝達されることで何が起こるのかは、やはり予測不可能でしょう。偶然と必然が引き起こす劇的な状況には興奮がともないます。状況を生きている人たちの外野にいる私は、その劇的状況を「遊ぶ」ことができます。言葉は悪いかもしれませんが、ライブ感覚でミーハーに「世界の劇的状況を遊べる」場がネット上に創造されつつあるのでしょう。
だから「遊ぶ」という意識での参加が重要かもしれないと、私は思います。そこに関与してもなにかができると思うのは幻想だと感じるからです。もし、革命に加担したような気分になったとしてもそれは偶然ではないか……と。なぜなら、予測不可能だから。私たちは世界を変えられません。世界はそんな単純なものじゃない。私の都合で世界が変わるわけがありません。私が変えられるのは、せいぜい私くらいです。

モーリーさんは、モーリーさんの「インターネットをしている」、それをモーリーさんは自分にとってアートだと言いました。それはとてもわかりやすいと思いました。だから、モーリーさんの話は面白い。彼は行動して表現しています。そして私には私の「インターネットする」があるんですが、私はモーリーさんほど自覚的に「インターネットしてる」とは言えません。アートだとも言えません。そこが違います。そして、私はどう「インターネットする」かについて、自分で考え、行動しなければならないんだなということを感じました。

自分が「インターネットしてる」という自覚がないと、けっきょく「インターネット」という得体のしれない「もの=名詞」を「善悪」で語ったり、擬人化したり、あるいは嫌悪したり、称賛したりしてしまいがちだからです。

ただ、一輪の花の写真からなにを感じるかは人それぞれです。革命の情報から世界を知るのは、その人がその情報を解釈できるからであり、それができない人にとっては誤解のもとになったりします。
子供の笑顔の写真から、社会の安定を願う人もいる。誰がどこから何を知るかは、これまた予想不可能。人間は一人ひとり違う経験をして、違う人生を生きている。

さあ、私はどう「インターネットしようか」
by flammableskirt | 2011-01-28 19:21