人間の弱みを知ること

 今朝の新聞で、「広島市が単独でオリンピック招致に……」という記事を発見。たまたまだけれど「なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか」(河出書房新社)を読み返していたところだったので、オッと思った。
 たとえば、オリンピックの聖火リレーの火に「原爆の火」を使うなんてことが……と真っ先に思い浮かんだ。いや、まさかそれはないだろう。
 日本は戦後の復興をかけて東京オリンピックを開催した。北京も先進国への仲間入りをかけて……。オリンピックというのはなんだろうか。「いま勢いがありまっせ!」という自己主張のように私には感じられる。もちろん他にもいろんな政治的な意味があるんだろう。シドニー五輪でアボリジニの人たちが踊ったように、次に日本で開催されるときはアイヌの人たちが踊るのだろうか。それはそれできっと意味があるのだ。そう思う。だが、なんだか乗れない。乗り切れない。お尻が半分はみだして落ち着かない。
 今年、長崎の原爆資料館に行って四時間かけて展示を見てきた。ボランティアのガイドの方がていねいに案内してくださった。展示の最後、マンハッタン計画以降、世界が保有する核兵器の数の増加を年代を追って表示する年表があり、それを黒人女性の見学者が熱心に見てメモを取っていた。彼女はその展示によほど感銘を受けたらしく、仲間らしい別の白人女性と男性をわざわざ呼んできて「見て。この資料は実に興味深い、すごいわ」と言って、展示に顔をすりつけるように書き写していたのである。
 原爆の威力を表現した館内の展示は多い。被爆した人たちの写真、爆心地の荒れ野の風景。でも、そこではなく、延々とひたすら国ごとの核実験の回数が羅列された年表に、その黒人女性が釘付けになった意味が私にはわかる。
 私も同じ気持ちだったからだ。ずっと、あの恐ろしい展示を見てきて、さあもう終りますよという明るい場所に出る。やっと平和な現代に戻りました。そこに年表がある。そして、核実験が過去から現在に至るまでどれほどの回数を繰り返されてきたのかを知り、唖然ぼう然とするのである。
 こんなに?!と。
 それを見たとき、私には死ぬまでオナニーをやめられない猿がイメージされた。ああ。それが我々なんだと思った。この、我々は人間ではなく、まだ猿である……という、奇妙な実感はこの年表を見たときに初めて想起された。それまで、どんなに傷ついた人々、核兵器に破壊された大地を写真で見ていても、そこに「人間」の営みが感じられてしまったのだ。ところが、最後に来て、近代的な建物の原爆資料館で、1940年代に誕生した核兵器が、ひたすらひたすら増殖し、その実験を飽きることなく繰り返している現実をただ明記しただけの年表を見たら、なにかが砕けたのである。
 数字というものは時として妙な力をもつ。感情抜き。そこに現実がある。これはなるべくして増加している必然であるという予感。その必然が行き着く先も見える。どうするか、この増加曲線がカーブを描くのか、途切れるのか。
 核の問題を語る上で重要なのは、落とされた側の言い分ではない。落とした側の言い分なのである。加害者はなにをもって正義としたか?である。落とされる方はただ落とされるのみである。落とす側の理屈に屈するしかない。「力」を行使する側の論理になんらかの正当性があるのであれば、それを変えることは難しい。感情論では解決できない。そういうレベルではないところに核の問題はとうの昔に来ていることを、最後の最後にこの年表が突きつけてくる。国益、つまり経済的見知から考えて核の行使にはまったくメリットがない、ということであれば誰が予算をつぎ込むか。核実験にはメリットがあると考えているから行われるのである。
 そして、これは先日、明治大学の水俣展において「自分が公的な立場に立ったなら、水俣病患者ではなく工場の社員や市民生活を守ろうとするのではないか」と答えた人が全体の半数以上存在したことと無関係ではない。私たちにとって優先されるべきことは、多くの場合は所属している集団、組織の利益である。
 その意味において、日本が原爆の被害者であり続けるという感覚はどこかで()で括らなければならないだろう。それはそれとして、人間は時として他者の生命よりも「所属集団の利益のために行動する」ことが正しいと感じ、そうしたいと願ってしまう、きわめて社会的な存在であるという理解。
 原発に関してもしかり。私だけは違うという安易な発想は棄てるべきである。所属集団への忠誠や利益供与のために行動したいと感じる個人を悪とせず、そういう傾向のある『人間という種』が、重大な決断をする場合の手順や方法論を、世界がいっしょに模索していく時期に来ている。 
 広島へのオリンピック招致が、世界の人たちの心に核兵器への関心を呼び戻し、核廃絶に貢献することはすばらしい。それに対してなんの文句もない。私が危惧するのは、広島という現実の悲惨さゆえに多くの人が「被害者感情」に、よりシンパシーをもつことだ。私たちは「加害者の問題」を自分の問題として扱っていかない限り、核をなくすことはできない。人間の性質や、行動に対する理解、それによって生じる弱さの共有と克服こそ、議論されなければならない問題だと思っている。
by flammableskirt | 2010-09-28 12:01

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