極まらず、円を意識する。
2010年 02月 23日
夜の間の気温はあまり変わらない。温暖の差がないほうが植物には良いのであるが、ふうむ、暖かく感じるのは太陽が出ているせいか。たぶん外の気温は上がっているのかもしれない。
気功の合宿のあとは、しばらくは「もやもや」が消える。
だいたい、仕事をしていると頭ばかり使うせいか、頭のあたりにいつももやもやとした言葉の霞みたいなものが渦巻いている。それが離れない。なんとなく、急いている感じがあり落ち着かないのだが、それがすうっと腹の下のほうに下る。のぼせが取れるような感じだ。
今朝、海岸を歩きながら、久しぶりにホーメイの練習をしてみたら、すごく上手にできる。なるほど、ホーメイというのは上半身の力が抜けて、全身の重心がやや下っている状態だとうまく倍音が出せるのか。新発見である。そういえば、巻上公一さんの姿勢はいつも太極拳の姿勢である。彼は中国武道の達人でもあるのだが、あの声が出るのは、身体に敏感だからなのだな、とあらためて思う。
いい感じでみぞおちのあたりから声が出て、きれない高音が混じって気持ちよかった。なんだかまたひとつコツをつかんだような気がして、しばらくまたホーメイの練習をしてみようと思う。
身体の重心が下っているというか、足元がどっしりと意識できるというか、不思議な感覚だ。気功はほとんど座らない。騎馬立ちという姿勢はあるが、それも「立ち」である。お稽古中は立ちっぱなしである。腰に身体を乗せて大地にしっかり立つ。その姿勢がふだんは意識しない足の裏をとても意識させる。
足に意識が行くだけで、身体の重心は下がり、なにかこう自分が安定する。そうすると、細かなことが気にならなくなり、すごく気分が楽になるのだ。今日もまた、えもいわれぬ幸福感を感じる。足というのがちゃんとついている感じがする。ついこのまえまで、足がなかった。そうだ、私は幽霊みたいにふわふわしていたんだなと思う。いまは足がある。二本の足があり、この足で立っていると、満ち足りる。足りるという言葉に足が使われることを実感できる。なんだか足りているのである。
外に出て講演をしたりするときは、気を発するから、どうしても気は上に上がる。そして外へと向かって出て行く。出ることもまた快感である。問題はバランスなのだ。上がっては下がり、下っては上がる。伸びては縮み、縮んでは伸びる。
先生は言っていた。円を意識しなさい。伸び切ったもの、極まったものは弱い。太極とは極まらない状態。太極の型はすべて伸び切ってしまわない。円を意識して動く。
いつも、出し切って、伸び切って、切れて、のびてしまう私には耳に痛い言葉だ。
ひとつひとつ、ていねいに、時間をかけて、納得していこうと思う。