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ゆっくりは怖くない……気功太極拳からの学び


思えば、新渡戸道子先生との出会いは「縁」そのもの。
早池峰神楽の取材で訪れた早池峰神社。その社務所で雑魚寝をしていたときに、寝袋にくるまって隣で寝ていたのが新渡戸先生だった。翌朝、同室の者がそれぞれの素性を語り、新渡戸先生が気功を教えていることを知る。軽い気持ちで「教えてください」と言い、その場で即席の気功教室が始まった。

ほんの二、三十分だったと思う。先生の誘導で気功の型、六段をみんなで習った。

気功の先生にはそれまでも何人にもお会いしていた。でも、新渡戸先生の教え方は誰とも違い、とてもわかりやすく、明解で、しかも流暢だった。すっと身体に言葉が入ってくる。私が出会った先生はほとんどが男性だったため、女性である新渡戸先生ならではの「女の身体への理解」も新鮮だった。ひと目ボレに近い。それからは追っかけのように、お教室や合宿に参加した。

先生は東京を離れて栗駒高原で生活しているため、お稽古を受けることが難しい。それで、栗駒まで出向いて行って、集中講義を受けたい……などと手紙を書いたりした。いまにして思えば、ずいぶんと不躾だった。だが、私は「習い事は気合い」という強い思い込みがあり、気持ちが盛り上がった時に一気に習得しないとモノにできない、と信じていた。だから気功も基礎だけを集中的に学びたいと思ったのだ。

そういう考え方事態がおよそ気功とはかけ離れたものであることを知るのに、およそ一年が必要だった。繰り返し先生の稽古を受けているうちに、どうも自分は間違っていた、気功というのはそんなふうに一気に習得するような類いのものではないようだ、と気づくのである。

気功太極拳の型はいたってシンプルであるけれど、それを家で日々、続けていくことはとても難しい。なぜ難しいのかを、おおざっぱに説明すれば、それは「ゆっくりすぎる」のである。

私の生活は、家に居るときはパソコンに向かって一日中文章を書いている。頭しか使わない。頭のなかが言葉でいっぱいになりチカチカしてくる。そのような状態の時の息抜きはインターネットで、twitterなど見ると、またそこにあふれ返る膨大なつぶやきを読み、頭のなかに電飾のような文字がチカチカ点滅する。血液は頭に集中し、手先足先は冷たくなり、肩が凝り、そして呼吸は浅くなる。そのような状態で一日を過ごす。

たまに、仕事に外に出れば、そこでは分刻みのスケジュールとなり、何十人、何百人の人と会うこともままあり、大きな声でしゃべり、あいさつをし、笑い、握手をし、また、頭の良いたくさんの人たちと対談、あるいは会談などし、やはり頭がフル稼働し、言葉が点滅し続ける。

そのような生活をしていると、気分はどんどん急いていき、口調も早口になり、頭の回転と同時に心臓の鼓動も早くなり、興奮気味の状態で夜を迎え、興奮冷めやらぬゆえに、酒を飲んでしまうのであった。こんな心身の状態の時に、気功はできない。どうしてもできない。やろうとして、立禅の姿勢をとってはみるものの、立ったまま黙って一分もいられない。ましてや、太極拳独特のあのゆったりとした、いわゆる鈍い動きは、とても耐えられないのである。ゆったりとした動きに心も身体もどうしても乗れない。苛々する。めんどくさくなる。かったるい。できない。流れを生むことができない。

そんなわけで、最後の合宿に参加してから4ヶ月も経つのに、私はまったく日常生活に太極拳を取り入れることすらできず、日々を送ってしまった。それで、考えたのが「自分が合宿を企画する」ということであった。定期的に自分が稽古を企画して先生をお呼びしよう。そして、いっしょに太極拳を続ける仲間を見つけようと思ったのである。

まずは、10年で内功八段錦をマスターする、という目標を立てた。10年あれば8つの型を習得できるだろう、と思った。一年に一つ、型を覚える。それなら出来るのではないか。短期で飽きっぽい自分が、このような目標を掲げたこと事態がすごい変化である。これも、先生と出会ったおかげなのだろう。気功を続けるうちに1年かけてやっと、私は自分の飽きっぽさと向きあう覚悟ができたようである。

ブログで募集したら、20人の仲間が集まった。それで、先週末に最初の合宿を行なったのである。挨拶の時に「私は10年かけて内気功八段錦を習得するつもりです。10年つきあっていっしょにやってください」と言ったら、多くの人が「おつきあいしましょう」と言ってくれた。ありがたいことである。これから10年、生きていれば年に一回か二回、顔を合わせていっしょに気功をすることになる。それだけのつきあいだが、それが10年続けばきっとお互いに学ぶことがたくさんあるだろう。その人の人生がどのように変化していくのかも知るだろう。緩いおつきあいかもしれないが、同じ師に学ぶことで、深い絆が結ばれるように思える。

そんな私に、先生はある言葉を贈ってくれた。
「ゆっくりは、怖くない。ゆっくりであることを怖れることはなにもないんです。遅いことは、怖くない。怖いのは、止まってしまうことです。止まらずに、動いていれば、ゆっくりは少しも怖くはありません。でも、もし止まってしまったら、それで終りなんです」

私はこの人生で、同じような意味の言葉を何十回、何百回と聞いてきた。だが、それらの言葉が私を感動させることは一度たりともなかった。「のんびりいこうよ。あせらずに」それは、言い古されたフレーズではないか。
でも、先生が「ゆっくりは、怖くない」と、怖いという言葉を使ったことが新鮮であった。先生は中国語で引用されたのである。

そのとき、初めて私は、自分がゆっくりであることを怖れていたことに気がついたのである。なぜ、ゆっくりできないかと言えば、まさに、私は怖かったのである。なにが? なにかが。ゆっくりであることで失うものが、怖かったのである。でも、いったい何を怖れていたのだろうか? 不安や怖れというものがいかに根拠のないものかは、長年の経験からわかっている。だが、根拠がないからこそ、怖いのである。根拠があれば、それはそんなに怖くない。漠然とした不安であるから、逃れ難いのだ。

ゆっくりは、怖くない。怖いのは、止まってしまうこと。

その言葉を、あまりにも深く納得してしまい、自分自身が驚いた。なぜ私はこのような単純なことが、簡単なわかりきったことが、ちゃんと腑に落ちなかったのだろうか!と。そうだ、ゆっくりは怖くないのだ。ゆっくりであることに脅えたり、不安がったりする必要はなにもないのだ。ゆっくりでも、動いていれば、大丈夫なのだ。

たぶん、それは太極拳の動きを実際に経験し、その難しさを知ったことで、得られた言葉の納得なのかもしれない。言葉は虚であるが、経験が伴えば、虚は実となる。言葉が実態となり、リアリティをもってありありと感じられることを、納得と言うのであろう。このように、言葉がリアリティを帯びる経験を、これまで何度もしているが、でもその度に感動する。頭だけでわかっているつもりになっていた言葉が、実態あるものとして、ある触感をともなったものとして、身体に想起される体験は、ほんとうに素晴らしい。そのとき、初めて言葉の力というものを身をもって知るのである。

今年、新年早々に得られたこの、心身を伴った納得、これはまさにこの一年を生きるうえでのギフトであると思った。このように世界はいつも気前よく、ほんとうに信じられない偶然をもってして、人に必要なものはすべて与えてくれる。その奇跡を思うと、生きているということはまさに、これを体験するためのプロセスなのだと感じる。もちろん、このような思いもまた、日々の暮しのあれこれのなかに紛れ、消えて、忘れられていくのだが、それは、この素晴らしい体験をもう一度味わうためのプロセスなのだろう。忘れなければ、同じ体験は得られない。忘れるから、また思い出すのだ。この体験に留まり止まってしまえば、それでもう終りなのである。動き続けていれば、よいのである。

新渡戸先生は「みなさんが稽古を続けている限り、私は来ますよ」と言っていた。それはほんとうにすばらしい太極の生きた教えであり、それを仲間たちと共有できたことはまたとない喜びです。一人ではなく、みんなと分かち合えたことがうれしかった。

また、先生は「内気功は、自分がやらなければ誰も変わりにやってくれる人はいない。内気功は自分がやるしかない養生法であり、これは人間の自立心を養うものです」と言っていた。
まさにその通りであり、自分が自分のために自分でやり続ける、ということほど、自立心を養うものはないだろう。いろんな人の臨終を見てきたが、まさに死は最後に人間の自立心を養う試練であると感じる。およそ人間の人生に起こるすべての出来事、特にトラブルは、その人本人が自分の人生がどれほど理不尽で不公平であろうと、自分の人生に起こることをすべて自分で引き受けるという自立心を養うための修練であると思える。死はその最後のプロセスであり、死はそれを教えるものである。
 死と師が同じ音なのには、意味があるのだと思った。自立あるいは自律を教えるということに関して共通している。

じりつとは、自分のことが自分でできる……というような具体的なこととは少し違う。それについて書くとまた長くなるので、またの機会にするとして、でも、自立心を養うということは、何才になっても、必要なことだと感じる。私は自立していると思い込みがちだけれども、もちろん、自立しているときもあるが、そうでないときもあるのが人間というものなのだ。完全自立など不可能であるけれども、その不可能であることも含めて、諦めていることもまた自立なのであろう。

とても素晴らしい体験の三日間でした。温泉も最高だったし、お食事もおいしかった。お天気にも恵まれて、梅見物も楽しかった。新しい仲間がたくさんできて、身体のこと、心のこと、有意義な会話ができたこと、なにもかも、かけがえのない人生の宝物です。 

先生、そして、来てくれたみなさんに心から感謝です。

追伸
今日は、お稽古をしました(笑)
by flammableskirt | 2010-02-22 17:22