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「4.48サイコシス」は凄いです!!

 
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 池袋のあうるすぽっとにて上演中↑
 劇場ロビー/演出のため開演15分前まで入れない。


4.48サイコシス 作:サラ・ケイン 演出:飴屋法水

昨夜、「4.48 サイコシス」の初演を観た。……観るというよりも、体験した。演劇は鑑賞するものではなく体験するものである。私は確かに劇場で凄い体験をしたが、あの舞台美術、装置、演出、それについて語るとこれからこの演劇を体験する人たちにはなはだ迷惑であろう。まずは予備知識なしで体験してほしい。ショックだから。マジ、がっつんとやられますよ。だからどう凄いか詳しくは言えない。辛い。

 この芝居は「精神の病み」を扱っている。「病み」であって「狂気」ではない。どう違うかといえば、私たちにとって「病み」のほうがずっと怖い。なぜなら「病み」は私にとって了解可能な言語構造で成り立っているからだ。「狂気」は完全にあっち側である。了解不可能である。言語が崩壊している。
病みは違う。延長線上に自分が見える。

 私は面白い演劇を体験すると、観客であることに嫌気がさす。
 そもそも観客とはあらかじめ「語ること」を禁じられた存在であり、私は観客席にいる限りなにもできない。くだらない芝居なら寝ればいいが、面白いものを体験しているのにじっとしていなければいけないなんて、こんな苦痛なことがあるだろうか。何が起こっても「まな板の上の鯉」であり、ひたすらじっと沈黙していなければならないのである。
 この芝居は鏡面構造になっていて、舞台と観客はきわどく対面している。それゆえ舞台のあちら側から一方的に言葉を、それも、かなりシリアスで辛辣で、身に覚えのある言葉を投げつけられ続けるとやはりムカつくのであり、しまいには立ち上がってこちらからも何か叫んでやりたくなり、ムズムズするのである。「ふざけんな!」と、舞台側の人々に言い返したい、ああ、言い返したいな〜と思いながら、でも、ここは劇場だし今は芝居中だし、立ち上がって叫んだらこっちがキチガイになっちまうなあ……と、観客という立場にがんじがらめになって、黙っているのである。ようするに、私は理性でもって、自分を「演劇空間のなかにおける観客」として位置づけ、その構造のなかにおさまろうと必死でがんばっているのであるが、その、真面目な観客である私を、この演出家は最後の最後に「それであんたは満足なのか?」という感じであざ笑うのである。ちくしょうなのである。それなら、やっぱり立ち上がって叫んで、芝居のなかに入って、現実も虚構もぐっちゃぐちゃにしてやればよかった……と、思いながら有楽町線の乗って帰って来た。
 そして家に戻って興奮冷めやらぬので、舞台に流れていた真っ赤な血ようなワインを一本飲んで、今朝は二日酔いなのである。
 十三歳の頃から演劇が好きで、寺山修司に憧れて上京したような女であるからして、面白い芝居を体験するとそこに自分が関与していないことが腹立たしい。なぜ自分は観客なのだろう? どうしてあちら側にいないのだろう? そう思うのである。私こそあちら側にいるべき人間である、と。思春期に同じことを考え演劇にはまったのであるが、人間とは何十年経っても変わらないものだ。いいなーやっぱ演劇だよ。小説なんてつまんねえことやってられるかよ、という気になってしまう。だけど、最初にも言ったように内容について書けない。残念だ。
 めっちゃ怖い、エグい作品だが、私の小説が好きな人はたぶん大好きなはずだ。これを体験しに行かなければそれは今年一番の大失敗であろう。そう思って、私は必死でこれを書いている。なるべく早く書いて、みんなに体験させてやりたいからだ。

■母国語と外国語

 「4.48 サイコシス」の作者は英国人である。原作は英語であり日本語に翻訳された。かなりねちっこい独白、断片的なシーンの積み重ね。しかし、決して難解ではない。難解ではないのは必然があるからだ。このように表現しないと見せられない「病み」というものが、この形式を作らせている。
 役者の多くは外国人で、カタコトの日本語で芝居をする。これが実にいいのだ。というのは、病んだ言葉は標準語では表現できないのである。日本人の役者が心情をこめて標準語で精神の荒廃をモノローグっても、なんか芝居がかってて気持ち悪いのだ。この舞台をすべて日本人が演じたら、さぞかしくどくてうざい舞台だったであろう。しかし、多くを外国人がカタコトで語る、それが実にいい。そこにはリアリティがある。
 なぜ、リアリティがあるのか。不自由だからである。精神の荒廃は言葉の荒廃でもあり、発語の荒廃でもあり、流暢な言葉で人は病まないのである。そして、日本語のなかでもとりわけ標準語は、無機質であればあるほどステキな言語だ。気象情報を読んだり、時報を告げたりする標準語の、なんという美しさ。そもそもそういう言葉なのである。心情を伝えるための言葉ではなく、一般化された情報を広く人に伝えるための言葉である。しかし、そんな言葉を使うしかない私たちの日常こそが、精神的荒廃の一つの原因になっていると私は思う。
 かつて、寺田寅彦という不思議な随筆家が(彼は科学者であり、また実に文章もすばらしかった)、ローマ字表記で何作かの随筆を書いた。なぜわざわざローマ字で? と思うだろうが、それはこの寺田寅彦という人が、音に対して特別な感受性をもっていたからだ。ローマ字で書かれた彼の文章のすばらしさは音読してみればわかる。ローマ字を読むとき、人は少し不自由になりカタコトになる。その不自由さゆえに現われる素朴な心情や陰影というものを、最大限に発揮できる文章を、寺田はローマ字で書いているのである。
 外国人はローマ字で書かれた日本語を読むようにセリフを語る。そこに見える切実さに、なにかほっとする。それゆえこの芝居はとても暗いが落ち込まない(少なくとも私は)。

 山川冬樹はすごかった。彼とは日本ホーメイコンテストで会ったことがある。ずいぶん前だったが、その頃はまだ線の細い美青年だった。久しぶりに観た山川冬樹はものすごい存在感を放っており、精神の病みに興味なんかない、という人は彼を観るためだけに足を運んでも充分満足できるだろう。恐るべき怪優であった。なにしろ声がいい。その倍音のたっぷりこもった低音は人間以外のなにかを思わせる。精霊か、もののけか、そのような霊的なもの。
 劇中でも彼の存在は特異だが、私はこの救いようもないような精神を病んだ人々の集団に、なにか希望のようなものがあるとしたらこの精霊の声だと思う。言語という構造、論理の世界から抜けられず独白しもがき苦しんでいる人間、私たちは言葉で思考するしかないが、言葉以前にも声というものがあり、意味をなさない声には論理を超えた生命の息吹が宿っているのだ。ホーメイを聞くとラクダさえ泪すると聞いたが、言語以前の声の霊的な力はキリスト教以前のユーラシアで広く信仰されていた。
 だから、この恐ろしく病んだ独白の続く芝居に、飴屋さんが倍音をぶつけてきたことはブラボーである。精霊はまだ私たちの血のなかに宿っている。
 この芝居は視覚的に充分刺激的だが、本質は聴く芝居だと思う。音が重要な役割を果たしており、聴覚への刺激のために視覚が利用されている。末梢神経を刺激するような、どちらかといえば不愉快に感じる音が快感である。音は言語以前であり、音による刺激は感覚を直撃する。目で観たものはすぐに意味付けされて現代用語の基礎知識として消化されるけれども、音はそう簡単に言語化などされず、全方位的に脳を刺激しつつ、観客の陰部をくすぐるのである。目は瞼によって閉じることができるが、耳は開きっ放しであり、場全体を感受している。それゆえ、演出家には音に対する極度なまでの感受性が必要であろう。音に対して飴屋法水は申し分なく凄いこだわりを見せた。さすがだ!
この舞台は11月23日までやっています。

4.48 サイコシスに関してはこちら
http://festival-tokyo.jp/program/ameya/
フェスティバル/トキョーに関してはこちら
http://festival-tokyo.jp/
by flammableskirt | 2009-11-17 13:53