ゴーギャンのこと

ゴーギャン展に行って来ました。
私が想像していたより、タヒチのゴーギャンはずっとダークだった。もっと南国の明るい絵だと思い込んでいたのだけれど、印象としては、全体に暗い。タヒチを離れて晩年を送った孤島での絵の方がずっと明るく感じた。しかも、強い孤立感、孤独を感じる。

タヒチはとてもすばらしいステキなところだったけれど、私はそれほどタヒチを好きになったわけじゃなかった。どうしてかな。タヒチはとても淋しい。私にとってはそういう場所だったということだが。そして、ゴーギャンのタヒチもとっても淋しかった。

タヒチはもう観光客のものだし、タヒチに野生なんてあるのかなと思う。この世界の野生はどんどん失われていく。だけど、それは野生が野生であるがゆえにあまりに純粋だからだ。純粋というのはきれいな言葉だけれど、別の言い方をすれば愚かでバカだということにもなる。

理性、論理で、民主的にものごとを解決していこうとする知的な人々に、すべての野生が着いて来れるわけではない。けっきょくのところ、言葉を操る人たちが権力と富みをもち、野生的な人たちを従わせようとしてしまうが、それは、野生があまりにバカだからだとも言える。すぐだまされるし、感情的だ。確かに太古の叡知を持ち合わせているかもしれないが、今日的ではない。そのような愚かな人びとが有益な資源や土地をもっていること自体、理性と論理の人びとはがまんならないのである。

長いことアフリカの支援活動をしている友人と酒を飲んだ。そのとき彼が「アフリカの人たちは、ほんとうに純粋で、パワフルなんです。でも……ほんとうにバカなんです……」と呟いた。その気持ちがわかる。バカとは勉強ができるできないのことではなく、底抜けのシンプルさ……と言ってもいいかもしれない。彼はアフリカ人を決して蔑んでいるわけではない。それは痛いほど伝わってくる。ただ、野生とは、そう簡単に我々が理解できるものじゃない。私たちの見識からすれば、それは「愚か」に見えてしまう性質を多分に含んでいる。

野生を求めてタヒチに行ったゴーギャンが、野生のバカバカしさとどう向き合ったのか。そのプロセスが彼の作品に現われているような気がしてならなかった。最初は野生を崇拝する。圧倒される。でもそれを観察していくうちに、信じられないような野生のマヌケさも見えてくる。近代の優れた作家たちの作品は、野生の崇高さを描いたものが多い。それは、野生のなかに息づく智恵を描き、近代的理性を批判する。
私もそういう野生の智恵に憧れて、ジャーマニズムなど求め歩いた作家であるが、正直、野生に関して言えば、その崇高さよりも、想像を絶するほどの愚かさを見せつけられて絶句することの方が私にインパクトを与える。そして、私は常に自分のなかに湧き上がる、愚かな野生に対する嫌悪を見まいとして、それを無視し続けてきたように思う。ぎょっとすることがあるのだ。なぜそんなことを!!!!と。どうしてそれがわからないのか?それを無垢という言い方で社会は美化するが、無垢というものは取り扱いが本当に難しい。一般的な人間にとっては無垢は簡単に嫌悪と憎悪に結びつくのである。

私は無垢ではないし、無垢になどなりたくない。あんな愚かなものにはなりたくないと思う。でも、自分がこれでいいのか?と思うと、私のなかのなにかが「違う」と言うのだ。

私のものの見方や感じ方は変えることができないが、彼らのものの見方や感じ方と確実に違うことはわかる。でも、私はわたしのものの見方をしたまま、彼らの見方を手に入れることはできない。いったい彼らには世界がどう見えているのか。それを知りたかったが、推測はできるものの、知りえようがない。どうしようもない。どうしようもないことを描いたのが、ゴーギャンなんだ……。そんな気がした。

ゴーギャンの作品にはさまざまなプリミティブなモチーフが持ち込まれているけれども、それはモチーフとして洗練されているが、モチーフを超えたなにかではない。多くの登場人物たちが視線をそらしあい、からみあおうとしないで、孤独に立っている。あの有名な大作の前に立って、なぜか「ああ、ゴーギャンは自分が自分であることを認めたんだなあ」と思った。彼はタヒチ人じゃない。ペルー人でもない。ゴーギャンはゴーギャンである。彼が嫌っていた西欧の近代人、そしてキリスト教徒。彼が手にしているのは理性の果実だ。
by flammableskirt | 2009-09-08 20:41

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