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音楽について

音楽を好きか、と訊かれれば「好きでも嫌いでもない」と正直に言おう。音楽に思入れもなく、詳しいわけでもない。かといって興味や関心はある。いわゆる「マニア」でも「専門家」でも「愛好家」ですらない。だが、興味もあれば関心もある。そういう私の関心は、いったいどんな興味と関心なのか。

「湯河原現代音楽祭」を終えて、多くの人の感想は「現代音楽はわからない」だった。わかる必要はないと思うのだが、たぶんこの感想は「楽しめなかった」ということなんだろう。音楽という一つのパターン、一つの記憶をなぞることの楽しみを期待していたとしたら、非連続的で、即興的な演奏には「馴染めない」と感じるのだろう。
私自身がそうであったのだけれど、現代音楽も現代アートもさっぱり苦手だった。多くの人と同じように「さっぱりわからない」と思っていた長い時間、退屈で不可解なものに苛立ちを感じていた。時には憎悪すら。

追体験や、反復というのは安心する。「見たことのある絵」「見たことのある風景」「聞いたことのある旋律」「体験したリズム」、過去の記憶をなんらかの形で思い出させてくれるものには安心して心を許せる。それを反復することで飽きないのは、知っていることへの優越感かもしれない。でも、まったく新しいものの前に立ったときは、とまどう。困惑する。それを楽しむこともできなくなる。辟易して眠くなる。

かろうじて現代音楽に免疫ができてきたのは、アルタイの歌手ボロット・バイルシェフや、ヴェトナムの盲人歌手のキム・シンと出会い、彼らの音楽に触れたことが大きい。アジアのトラディショナルな音楽は、西洋音階に慣れてしまった私の耳には相当に退屈で眠かった。初めて、キム・シンの音楽を聴いた時には、この不安定で下手くそな歌と月琴の演奏のどこが素晴らしいのか全くわからなかった。そのことを、友人の巻上公一さんに言うと「それはあなたの耳が西洋音階で洗脳されているからだ。キム・シンに会うなら、その耳をアジアの音が聞こえるように訓練すべき」と言われ、出発前の一週間、イヤホンでヴェトナムの民族音楽を聞き続けたのである。苦痛だった。うんざりするほど退屈で好きになれない。それでも意地になって聴き続け、いよいよ出発という頃に、耳が慣れたのであろうか、一本調子の単調で低俗な音楽に聞こえていたヴェトナムの民謡や竹の楽器、そして月琴の音色が、なんとなく心地よく感じてきたのである。
さて、実際にキム・シンさんに会って、彼の唄を生で聞かせてもらったのであるが、この声のあまりのか細さに恐れ入った。彼の唄は身体を寄せて耳をそばだててやっと聞こえるほどの声で歌われる。もちろん、マイクを使えば拡大できるだろうけれど、基本、生声なのだそうだ。一つの音から一つの音へと移動する時に、その音から音への間に無数の音が混じる。それが気持ち悪かったのだが、慣れてくるとそれを聞きたくなる。その微細な音の変化を味わうためには「自分から音に入って行く」という主体性が必要になる。
ふだん私が接している音楽は、充分な音量で鳴り響いているため、こちらから聞こうと思わなくても音がどんどんなだれ込んでくる。そのような音の洪水に慣れてしまっている耳には、聞き取らなければならない小さな音は疲れる。しかし、聞き取ろうとしなければ聞こえない音があることを知った。人間の感覚は使わなければ鈍化するのだ。音も、こちらから聴こうとしなければ聴くという感覚器官はどんどん鈍ってしまうのだろう。
キム・シンさんとの出会いがあったからか、ボロット・バイルシェフの咽歌は、最初から「すごい音楽」として身体が声の火玉を受け止めた。それでわざわざボロットの故郷であるアルタイの音楽祭まで行ってしまう。シベリアの原野はあまりにも広かった。だが、そこには音が溢れていた。聞こえない音だ。それをどう呼べばいいのか私にはわからないが、確かに音が存在する。風なのか、大気の振動なのか、地響きなのか、岩の割れる音なのか、木々のざわめきなのかわからないが、人工物が何一つない延々と続く平原は音で満ちあふれていた。だけど、そこには私たちが都会で認識している「音」というものは一つもなかった。あの平原の音を聴けば、ボロットの音楽がどこからやって来たのかがわかる。

トラディショナルな音楽は、現代音楽の対極にありそうだが、実はそうでもないんじゃないか。鈴木理恵子さんのヴァイオリンの演奏からして、聞こえるか聞こえないか、という微細な弦の音色が際立っていた。あの音を聴こうとするとき、私はなにをしているんだろう。目をつぶり音に意識を集中し、音を探している。音を探す、つまり音を招き入れるために自分自身の振動も変化させているように思う。共鳴によって身体は音を招くのだもの、私そのものが変容を体験する。探り当て招き入れた音以外の音が聞こえなくなる。そのような状態になった時に、音は脳というバーチャルなスクリーンのなかに三次元の立体のように立ち上がってくる。それが聴くということの楽しみではないか。

高橋悠治さんのピアノもそうだった。まずはぼんやりと右手が奏でている主旋律から入っていく。指は予定調和なリズムも音階も刻まない。それでもテーマがあり、その右手の指とからむ左手の指の動きを追う。音を追うというよりも動きを追っているような感じだ。私の場合、ピアノ曲を聴くときは目を閉じて、鍵盤の上を動く指の動きをイメージしている。それがどう重なり合い、どう追いかけっこを繰り返すかを聴きながら映像化している。そうしているうちに、音が立体として立ち上がってくる。この、立体化するまでの集中が重要だ。これは弾き手の力量もあるが、聴き手の側の力技でもあるような気がする。音を立体にして立ち上げると音は空間のなかで運動を始める。
もはや音楽を聴いているのではなく、体験であるのでこの状態に入ってしまえば退屈することはなくなる。ピアノというのは右手と左手が別のことをしている。それを意識することなく聴いていると全く面白くないのだ。ただ情緒的な追体験をするだけで終わってしまい、追体験がしにくい現代音楽の未知の曲など、退屈なだけになってしまう。

しかし、なんだろう、あのカルロス・ジョビンは。あれがボサノバなのか?だが確かにジョビンだった。数年前に坂本龍一さんのコンサートでカルロス・ジョビンを聴いたときは、その叙情的なうっとりするような旋律に安心して身をまかせていればよく、「いわゆる音楽を聴いた」のであった。いつものように。何千回も繰り返したきたあの「音楽を聴く」ということだった。でも、高橋悠治さんのカルロス・ジョビンは、ぜんぜん違った。なんて挑戦的なんだ。そして、ボサノバがこう弾かれる……という事実に唖然となった。曲の解釈の冒険であり、間違いなくジョビンであるが、その形式や演奏方法はこんなにも多様なのか……と。自分が文学という領域でいかに解釈もなく凡庸に自分の知っていることだけをやり続けてきたのか、ということに気がついてしまい、身の毛がよだつほど情けなく、恥ずかしく、落ち込んでしまった。私の落ち込みというのは、そういうことである。だけども、私がカルロス・ジョビンを知らなくて、それから、音楽に自分から入って行くという習慣もなく、ただ、ぼんやりとあの席に座っていたとしたら、たぶん、私はこの演奏を「なんて退屈な理解不能な音楽だろう」と思い、寝ていたんだろう。そう思うと、生きているということはすごいと思う。日々、積み重ねていることは、確かに新しい扉を開き続ける。私はまだなに一つ知らない。世界が私の認識力によって規定されるなら、私は脳の三パーセントしか使わずに死に、私を取り巻く日常世界の97パーセントは未知のままで終わるんだろう。
by flammableskirt | 2009-06-26 16:02