「転校生」飴屋法水 東京芸術劇場
2009年 03月 28日
3月27日金 池袋の東京芸術劇場にて、
飴屋法水演出・平田オリザ作「転校生」を観てきました。
以下にその感想。
21人の女子高校生たちが、舞台で繰り広げる日常会話は圧巻だった。
なにげない少女たちの会話のなかに、生命の不可逆性、なぜ人は生まれるのか、なぜ私は私なのか。私とは何者で他者とは何者か、そんな疑問がたくさん詰っていた。深い哲学的なテーマを扱いながら、セリフは少女たちの日常言語に終始し、なにかが起きそうでいてなにも起きないがごとき……という、静かな展開のなかで印象的なラストを迎えていく。
まさに平田オリザさんの演劇世界だ。さらに飴屋さんの演出は、一見平易な日常のなかに潜む生命の生々しさや、エグさをさらりとえぐり出していた。まさにさらりと……という感じ。ごれでもか……という過剰な演出ではなく、末梢神経を刺激するノイズのように皮膚の下にすべりこんでくる違和を、上演の間中、気持ちよく感じた。私にとってこういう違和は、不快であると同時に快感なのだった。いや、不快感こそ快感であると言ってもいい。なぜかと言えば、不快は慣れて麻痺した感覚を呼び覚ますからだ。快感の先にはいつも腐った死の匂いがする。生きるとは不快であることだ。違和こそ意識のエネルギー源である。
オーデションで選ばれたという21人の少女たちは、すでに舞台の役柄と一体化しており、現実と非現実は彼女たちによってとても曖昧にされている。ここがどこで、あなたが誰で、いまがいつで、ということはすべて曖昧模糊としており、それが強烈なリアリティをもっていることから、私たちは「現実とは曖昧なのだ」ということに初めて気がつく。おしなべて虚構の世界のほうが「はっきりしている」のであり、だから安心ともいえるのだが、限りなく現実に近いような女子高校生たちが女子高校生を演じる……というのは、演じているのか現実なのかが不明瞭になり、明確なようで曖昧という不思議な領域を作り出してしまう。
それはまるで、舞台の上で私が「田口ランディ」を演じているようなものだ。私は田口ランディなのに、私が田口ランディを演じているとすれば、演じている私は誰で、演じられている私は誰かわからなくなる。
だけど、考えてみれば私はふだんから「田口ランディ」を演じているようなものであり、現実とは「演じられた私」によって作られているのだ。と、書いているうちにだんだん訳がわからなくなってきた。
あえて、本当の女子高校生に女子高校生を演じさせるというのは、枠組みを強くするためではなく、脆くするためだったのだ……と感じた。
それにしても、不思議な舞台だった。最後に転校生が「私、明日もこの学校に来れるかしら?」とつぶやいたとき、きゅんときた。なぜ自分が泣いているのか意味不明だが、妙に悲しくて、うるっとしたのだ。泣くほどのドラマティックな展開などなにもないのだが、妙なものだなと思った。
昔、子どもを失ったラクダが、ホーミーを聞いて涙を流した……という話を聞いたことがあった。なぜ、悲しむラクダがホーミーで泣くのかわからないが、私の涙もラクダに近いような気がした。ドラマで泣くのとは別の部分を刺激されている。そういう芝居なのだった。私という存在は私という意識では把握できない。その輪郭に触れようとするとき、とても悲しくせつないのはなぜだろう。
また、このお芝居を高校生たちが演じたということに、素直に感激する。
中学の頃から演劇好きだった私にとって、演劇は自分の人生に最も影響を与えた芸術だ。自分は「演じる」ことによって他者になれるという確信は、この窮屈な世界で生きるどれほどの助けになったろうと思う。何があっても発狂もせずに生きてきたのは、私が私を演じるという、曖昧さのなかで自分を捉えてきたからだ。確たる存在としての自分なんてない、ということを、演劇を通して感じていたからだと思う。
少女たちが、演じ、語ったことは、彼女たちの精神のなかに深く根ざすだろう。生への問い、死への問い、人間存在の不条理、それらを軽くあしらうセリフの数々は、彼女たちに現実として体験されているのであり、それはたぶん一生の宝物となるだろう。私であることを曖昧にとらえられたら、大丈夫なんだ。その曖昧さこそが世リアルなのだから。リアルへの回路を手に入れれば、世界が体験すべき神秘であることがわかる。
彼女たちはいい人生を送る。自分らしく。そう思えた。思えることが私にとっては希望だった。大人にできることはたくさんある。まずは、関わることだ。そう思ったら勇気が出てきた。
緻密で静謐な舞台空間のなかに、少女たちのエネルギーが炸裂しており、なんだか化学実験のようだと思った。デジタルなようでいて、アナログで、無秩序なようでいて秩序があり、静かであるのに激しい。悪ふざけのようでいて真面目で、悲しいようで楽しい。いろんな要素が反応しながら、チカチカ点滅している。飴屋さんにも、平田さんにも、人間を超越したような視点があり、それが交差して、とても遥かで透明感のある作品になっていた。優しくて力のある舞台だった。
演劇っていいなあ。「ユートピア」も観たかったな……。