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Randy Taguchi's News
runday.exblog.jp
湯河原気功太極拳合宿
ほっと湯河原実行委員会
気功太極拳合宿のご案内


2010年2月19日(金)〜21(日)に、私の尊敬する気功太極拳の新渡戸道子先生をお招きして合宿を企画していただきました。
ずっと先生を湯河原にお呼びしたいと思っていましたので、その機会が訪れてとてもうれしいです。
金曜日の夜に湯河原温泉集合なので、東京にお勤めの方でも大丈夫ですよ。
今回は初歩から内気功のトレーニングを行いますので、初心者の方向けです。
どなたでも参加可能です。定員二〇名です。

詳しくは、こちらのホームページをご覧下さい。
ほっと湯河原実行委員会

# by flammableskirt | 2009-11-20 11:51 | イベントのご案内
表現の行き先/ 細江英公 森永純 田口ランディ 公開トーク
連載中の雑誌「風の旅人」主催の公開トーク
細江英公さん、森永純さんという天才写真家二人とごいっしょすることになり緊張しています。
最近復刻された細江さんの「鎌鼬(かまいたち)」を見て震えがきました。
世界的な二人の表現者から、どんな刺激を受けるかいまからぞくぞくします。
この大御所のお二人が顔を合わせる機会など絶対にない、ということは、写真に携わっている方ならわかるはず。どうか凄い機会をお見逃しなく!!!!!

>~表現の行き先~ 細江英公 森永純 田口ランディ 公開トーク

『風の旅人』 公開トーク 開催

<テーマ>表現の行き先

日時/12月13日(日) 13時30分~
場所/永田町 砂防会館 
別館 3F立山会議室(定員100名)
東京都千代田区平河町2-7-4 
砂防会館別館3階


第一部  開場13時。開演13時半~15時 
細江英公 森永純 田口ランディ    進行役 佐伯剛  

第二部  15時半~16時半   
中藤毅彦 有元伸也 他、計画中     進行役 佐伯剛  



入場料 2000円

*入場者には、森永純さんの作品が掲載されている『風の旅人』第34号と第35号の2冊を進呈致します。どうしても他の号を希望の方は、17時の会の終了後(午後5時~)、編集部(徒歩3分)にて、交換致します。

また、細江英公さんの新作が掲載される『風の旅人』第39号(2/1発行)の予約を行っていただいた方は、定価で1200円のところを1000円(送料込)で販売致します。



予約制:申し込みは、shuppan@eurasia.co.jp まで。

「12/13日公開トークに参加希望」と明記の上、住所、氏名、電話番号、メールアドレス、参加人数を記入の上、お送りください。

 定員になりしだい、ホームページ上でお知らせします。



<趣旨>

昨年の金融危機以来、大手メディア各社は軒並み困難な状況にあり、今後、大手メディアに依存する表現活動の可能性は、これまで以上に軽減するのは間違いありません。また、作品の価値を権威づける力の退行と同時に、自主ギャラリーやネットをはじめ表現の場が様々な形で台頭し、デジタルカメラの技術発展もあって、表現におけるプロとアマチュアの垣根も無化されつつあります。

さらに、日本と海外のあいだの距離も急速に狭まり、表現においてもボーダレスな活動が、当たり前になりつつあります。

しかし、世界が一つにつながり、様々な表現が日常的に溢れかえるようになってくると、その洪水のなかに、あらゆるものが埋没してしまいます。誰もが“面白いこと”を求めながら、その”面白さ“が次の瞬間に消費され、記憶として残り続けるものになりにくいのです。

細江英公さんや、森永純さんが40年以上も前に取り組んでいたものは、今見ても、古さをまったく感じさせません。一つのテーマに長い間じっくりと取り組んでいても、人を飽きさせることのない深さを秘めています。

また、日本か海外かに関係なく、真の意味でグローバルな普遍的な魅力を湛えています。

それはいったい何故でしょうか。 

表現は個人的活動でありますが、自分のアンテナだけで、時代を超えて、また国境を超えて、つながっていくことができる。その力は、いったいどこから来るのか。

細江英公さんの写真活動の軌跡は、1959年のVIVO以来、大手メディアに迎合しない写真表現の自立性を目指したものであり、後のヤングポートフォリオでの新人発掘においても、その精神は遺憾なく発揮されており、個人の表現者としても、社会的な牽引者としても、その姿勢は一貫しています。

森永純さんもまた、大手メディアには一切媚びることなく、その為、作品発表の機会が極端に少なくなろうとも、軸のぶれることのない長年の活動によって、次世代の写真表現者達の尊敬を集めています。このお二人が中心になって、1970年代の前半に大手メディアの権力に屈することのない表現発表を行うため、現在では当たり前になっているギャラリーでの個展活動の動きを作り出したことは、メディアがそれを伝えていないこともあって、若手写真家のなかで知らない人も多いでしょう。

お二人に共通していることは、日本の写真業界の因習に閉じこもらず、かといって欧米に媚びたり安易に模倣するわけでもなく、自らの表現を深く掘り下げることで、国際的に通用する普遍性に到達していることです。

グローバルスタンダードという形ばかりの標準化の動きが顕著な時代において、自分の持ち味を一心に磨き、結果として海外の作品に一切見劣りすることなく、個性を発揮しながら欧米文化とも調和が可能であるということを、二人の作品は証明しています。それが海外での高評価につながっており、彼らが獲得している評価は、物珍しさや東洋趣味による日本ブームは別のものです。

また、作家の田口ランディさんは、日本では人気作家の地位を既に築いていますが、近年、イタリア、ルーマニア、中国など、様々な国々での翻訳本が発行されています。
日本の出版マーケットでは、内容を深く掘り下げていけばいくほど販売部数が減ってしまい、瞬間的に楽しめて気軽に消費できるタイプのものを作家に求める傾向があるそうですが、彼女は、そうした現在の日本社会の表現者のポジションにも深い問題意識を持っています。

また、田口ランディさんの作風を、日本の文壇社会では“ポップ文学”として捉える向きもありますが、海外における評価はまったく違い、今日の世界が根本のところで共有する課題に深いところで向き合っているシリアスな純文学作家という位置づけなのです。

文学か写真と表現の方式は異なりますが、細江英公、森永純、田口ランディという3人には、共有するところが多くあります。

依然として大衆メディア時代の慣行が残っている日本社会ですが、その部分を今さら分析しても何も始まりません。これからの表現活動がどのようになっていくかということを、今回のトークでは希望を織り込みながら話し合っていきたいと思います。

# by flammableskirt | 2009-11-20 10:29 | イベントのご案内
「4.48サイコシス」は凄いです!!
 

 池袋のあうるすぽっとにて上演中↑
 劇場ロビー/演出のため開演15分前まで入れない。


4.48サイコシス 作:サラ・ケイン 演出:飴屋法水

昨夜、「4.48 サイコシス」の初演を観た。……観るというよりも、体験した。演劇は鑑賞するものではなく体験するものである。私は確かに劇場で凄い体験をしたが、あの舞台美術、装置、演出、それについて語るとこれからこの演劇を体験する人たちにはなはだ迷惑であろう。まずは予備知識なしで体験してほしい。ショックだから。マジ、がっつんとやられますよ。だからどう凄いか詳しくは言えない。辛い。

 この芝居は「精神の病み」を扱っている。「病み」であって「狂気」ではない。どう違うかといえば、私たちにとって「病み」のほうがずっと怖い。なぜなら「病み」は私にとって了解可能な言語構造で成り立っているからだ。「狂気」は完全にあっち側である。了解不可能である。言語が崩壊している。
病みは違う。延長線上に自分が見える。

 私は面白い演劇を体験すると、観客であることに嫌気がさす。
 そもそも観客とはあらかじめ「語ること」を禁じられた存在であり、私は観客席にいる限りなにもできない。くだらない芝居なら寝ればいいが、面白いものを体験しているのにじっとしていなければいけないなんて、こんな苦痛なことがあるだろうか。何が起こっても「まな板の上の鯉」であり、ひたすらじっと沈黙していなければならないのである。
 この芝居は鏡面構造になっていて、舞台と観客はきわどく対面している。それゆえ舞台のあちら側から一方的に言葉を、それも、かなりシリアスで辛辣で、身に覚えのある言葉を投げつけられ続けるとやはりムカつくのであり、しまいには立ち上がってこちらからも何か叫んでやりたくなり、ムズムズするのである。「ふざけんな!」と、舞台側の人々に言い返したい、ああ、言い返したいな〜と思いながら、でも、ここは劇場だし今は芝居中だし、立ち上がって叫んだらこっちがキチガイになっちまうなあ……と、観客という立場にがんじがらめになって、黙っているのである。ようするに、私は理性でもって、自分を「演劇空間のなかにおける観客」として位置づけ、その構造のなかにおさまろうと必死でがんばっているのであるが、その、真面目な観客である私を、この演出家は最後の最後に「それであんたは満足なのか?」という感じであざ笑うのである。ちくしょうなのである。それなら、やっぱり立ち上がって叫んで、芝居のなかに入って、現実も虚構もぐっちゃぐちゃにしてやればよかった……と、思いながら有楽町線の乗って帰って来た。
 そして家に戻って興奮冷めやらぬので、舞台に流れていた真っ赤な血ようなワインを一本飲んで、今朝は二日酔いなのである。
 十三歳の頃から演劇が好きで、寺山修司に憧れて上京したような女であるからして、面白い芝居を体験するとそこに自分が関与していないことが腹立たしい。なぜ自分は観客なのだろう? どうしてあちら側にいないのだろう? そう思うのである。私こそあちら側にいるべき人間である、と。思春期に同じことを考え演劇にはまったのであるが、人間とは何十年経っても変わらないものだ。いいなーやっぱ演劇だよ。小説なんてつまんねえことやってられるかよ、という気になってしまう。だけど、最初にも言ったように内容について書けない。残念だ。
 めっちゃ怖い、エグい作品だが、私の小説が好きな人はたぶん大好きなはずだ。これを体験しに行かなければそれは今年一番の大失敗であろう。そう思って、私は必死でこれを書いている。なるべく早く書いて、みんなに体験させてやりたいからだ。

■母国語と外国語

 「4.48 サイコシス」の作者は英国人である。原作は英語であり日本語に翻訳された。かなりねちっこい独白、断片的なシーンの積み重ね。しかし、決して難解ではない。難解ではないのは必然があるからだ。このように表現しないと見せられない「病み」というものが、この形式を作らせている。
 役者の多くは外国人で、カタコトの日本語で芝居をする。これが実にいいのだ。というのは、病んだ言葉は標準語では表現できないのである。日本人の役者が心情をこめて標準語で精神の荒廃をモノローグっても、なんか芝居がかってて気持ち悪いのだ。この舞台をすべて日本人が演じたら、さぞかしくどくてうざい舞台だったであろう。しかし、多くを外国人がカタコトで語る、それが実にいい。そこにはリアリティがある。
 なぜ、リアリティがあるのか。不自由だからである。精神の荒廃は言葉の荒廃でもあり、発語の荒廃でもあり、流暢な言葉で人は病まないのである。そして、日本語のなかでもとりわけ標準語は、無機質であればあるほどステキな言語だ。気象情報を読んだり、時報を告げたりする標準語の、なんという美しさ。そもそもそういう言葉なのである。心情を伝えるための言葉ではなく、一般化された情報を広く人に伝えるための言葉である。しかし、そんな言葉を使うしかない私たちの日常こそが、精神的荒廃の一つの原因になっていると私は思う。
 かつて、寺田寅彦という不思議な随筆家が(彼は科学者であり、また実に文章もすばらしかった)、ローマ字表記で何作かの随筆を書いた。なぜわざわざローマ字で? と思うだろうが、それはこの寺田寅彦という人が、音に対して特別な感受性をもっていたからだ。ローマ字で書かれた彼の文章のすばらしさは音読してみればわかる。ローマ字を読むとき、人は少し不自由になりカタコトになる。その不自由さゆえに現われる素朴な心情や陰影というものを、最大限に発揮できる文章を、寺田はローマ字で書いているのである。
 外国人はローマ字で書かれた日本語を読むようにセリフを語る。そこに見える切実さに、なにかほっとする。それゆえこの芝居はとても暗いが落ち込まない(少なくとも私は)。

 山川冬樹はすごかった。彼とは日本ホーメイコンテストで会ったことがある。ずいぶん前だったが、その頃はまだ線の細い美青年だった。久しぶりに観た山川冬樹はものすごい存在感を放っており、精神の病みに興味なんかない、という人は彼を観るためだけに足を運んでも充分満足できるだろう。恐るべき怪優であった。なにしろ声がいい。その倍音のたっぷりこもった低音は人間以外のなにかを思わせる。精霊か、もののけか、そのような霊的なもの。
 劇中でも彼の存在は特異だが、私はこの救いようもないような精神を病んだ人々の集団に、なにか希望のようなものがあるとしたらこの精霊の声だと思う。言語という構造、論理の世界から抜けられず独白しもがき苦しんでいる人間、私たちは言葉で思考するしかないが、言葉以前にも声というものがあり、意味をなさない声には論理を超えた生命の息吹が宿っているのだ。ホーメイを聞くとラクダさえ泪すると聞いたが、言語以前の声の霊的な力はキリスト教以前のユーラシアで広く信仰されていた。
 だから、この恐ろしく病んだ独白の続く芝居に、飴屋さんが倍音をぶつけてきたことはブラボーである。精霊はまだ私たちの血のなかに宿っている。
 この芝居は視覚的に充分刺激的だが、本質は聴く芝居だと思う。音が重要な役割を果たしており、聴覚への刺激のために視覚が利用されている。末梢神経を刺激するような、どちらかといえば不愉快に感じる音が快感である。音は言語以前であり、音による刺激は感覚を直撃する。目で観たものはすぐに意味付けされて現代用語の基礎知識として消化されるけれども、音はそう簡単に言語化などされず、全方位的に脳を刺激しつつ、観客の陰部をくすぐるのである。目は瞼によって閉じることができるが、耳は開きっ放しであり、場全体を感受している。それゆえ、演出家には音に対する極度なまでの感受性が必要であろう。音に対して飴屋法水は申し分なく凄いこだわりを見せた。さすがだ!
この舞台は11月23日までやっています。

4.48 サイコシスに関してはこちら
http://festival-tokyo.jp/program/ameya/
フェスティバル/トキョーに関してはこちら
http://festival-tokyo.jp/






# by flammableskirt | 2009-11-17 13:53
自虐的なダメ出し
短編小説を書き上げる。
全ろうあの聴覚障害者で、言語習得以前から聴力を失い、言語を習得できなかった若者の話。
成人になっても言葉を知らない。言葉というもののない世界で生きている。

ここ数日、小説のために言語ということについて考えていた。
言語のない世界は私の想像を絶するため、この青年の視点に立つのは困難を極め、けっきょく健聴者の視点から小説を書いた。それで書いているうちに、時々頭が真っ白になり、自分が一歩たりとも言語の外に出ることができず、言語というものの偉大さに驚愕した。

そして、言語を使うということ、私の認識世界で思考し判断し、そして表現するということの傲慢さと快感についてわずかに知覚した。わずかなものだ。人間はほんとうに自分のことはわからない。
ましては自分が使っている言語、そして言語パターン、思考の癖、思い込み、繰り返し、などなど、まったく無頓着に生きていることに辛くなった。そしてそんなことに気がつかないほうがよほど幸せだし、気がついたところで自分の認識の外に出ることが難しいのだから、どうせすぐ元の木阿弥に戻ってしまうことに悲しくなった。
以前に安部公房の創作ノートを全集のなかで読んだ時に、安部公房が言語にたいへんな興味を示していたことを知ったが、文章表現者が言語というものにひっかかると、がんじがらめになり、なにもかもが嫌になる。
しかし、この足元をすくわれて、なにもかもが「あまりに保守的だ」と感じることは快感でもある。
それが自分も含めてそうであっても、この自虐的なダメ出しは、やはり快感である。

どう身をよじっても、しょせん自分の認識の外に出れないのであるから、開き直るしかないのだが、それでも開き直れなくて、世界を体験して発見しようと意気込んでしまう。
どこかボタンを掛け違えているのはわかるのだが、その掛け違えに死ぬまでに気づけるだろうか……。





# by flammableskirt | 2009-11-15 18:05
11月27日は高知で講演会
実は初めての四国です。ちょっと感動です。
四国にも私の本は売っているのだろうか、ちょっと不安です(笑)


# by flammableskirt | 2009-11-13 21:56
奇跡のりんご 木村秋則さんの講演会
-「奇跡のりんご」講演会のお知らせ--
「無農薬・無肥料でリンゴが栽培できない」と言われた常識を覆し、自然の力を最大に借りた自然栽培農業を実践した木村秋則さんの講演会が石川県の羽咋市で開催されます。
めったにない機会!お近くの方はぜひ!
私も行きたかったのですが、この日は他のイベントがあり残念です。

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「奇跡のりんご」木村秋則さん講演会

9年間苦しみ、集落や周囲からは馬鹿にされ、赤貧の生活、収入が無く自殺まで図ろうとしたどん底からひらめいた、完全無農薬・無肥料によって害虫やバクテリアに強いりんご栽培に成功した実話を語ってもらいます。2年間も腐らず、乾燥してドライりんごになってしまう不思議なりんごの物語です。
「無農薬・無肥料でリンゴが栽培できない」と言われた常識を覆し、自然の力を最大に借りた自然栽培農業を実践した農家です。
NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」にも取り上げられ、話題となりました。
木村さんの体験は農業から宇宙にまで広がっています。日本の食と自然、農業に一条の光明が差し込む内容です。是非、ご参加下さるか、都合でご参加いただけない場合には是非とも周知下さるようお願い申し上げます。

日時 平成22年2月20日(土) 午後2時開始 (開場午後1時)
場所 石川県羽咋市鶴多町免田25番地 
   宇宙科学博物館-コスモアイル羽咋 大ホール 0767-22-9888
   (無料 駐車場あり 大型バス駐車可能)
主催 木村秋則講演会実行委員会
   (志ある市職員等による有志が集まって自費で行うものです。1500円の有料となりますが税金は使っておりません。皆様の一人一人の志が交通費・謝金・宿泊費・チラシ代となりますので、参加・周知の程宜しくお願い申し上げます。)

入場料 1500円(メールでの受付 akinorikimura.hakui@gmail.com
FAXでの受付 0767-22-9225) 



# by flammableskirt | 2009-11-11 14:34 | イベントのご案内
山に行く
イタリアから戻って、すぐに岩手……と旅が続いた。
出張していると雑務がたまり、家にいる間はなにかを決めたり、変えたり、調整したり……ということばかりが続く。それをこなしているうちにだんだん自分の頭のなかに見えない塵がたまっていき、常に常に常になにかを考えていないといけないような、ひどくせわしない、あぷあぷした状態になる。

呼吸やや早く浅く、ぜいぜいしている感じ。気持ちはせわせわしており、頭はくるくるしている。こんな状態はしょっちゅうである。とても気持ち悪い。以前はこの状態に自分がいることすら気がつかなかったが、最近は認識できる。ああ、なにか気ぜわしい。イライラの一歩手前である。ここにさらに用事が重なると次第にイライラになる。

こんな糞忙しいのに、あえて、新花巻から早池峰神社に周り、一泊してきた。盛岡で神楽公演を行なっていた早池峰神楽保存会の小国さんと合流し、公演の後の神楽衆の車に載せてもらい早池峰の大和坊まで。民宿にお客さんは私一人しかいなかった。ここは携帯電話が通じない。静かだった。ほんとうに静かで、なんの雑音もなく人の気配すらなく、雨のなかを神社の境内まで散歩して、山の方へ少しだけ歩き、霧にけぶる早池峰山を眺め、バスに乗り継いで新花巻まで戻って来た。
たった一晩、早池峰に泊まっただけなのに、神様がいるあの場所はほんとうに静かで清らかで、なにか気持ちがすうっとした。戻って来れば相変わらず、雑務ばかりに一日だったけれど、気持ちが静まり、今日は昼間に気功をして、それから出かけていたために弱っていた植物の手入れもした。

人間の心はとても弱くて、すぐに慌ただしさや忙しさに巻き込まれてしまう。人間の思念は強く、いろんな人が「さあたいへん、さあたいへん」と言うから、自分も「さあ、たいへん」のような気持ちになって、わあわあと大騒ぎに渦のなかに飲み込まれてしまう。でも、やはりほんの少し、山に登れば、そこにはただ自然がゆったりと悠久のなかで息づいている世界があり、その懐に抱かれるようにして私たちは生きているのだ。
山はとても優しかった。
こんなダメダメな私な私に、早池峰はいつも優しい。屋久島もそうだし、白神も、訪ねていけばそこにある山も川も森も、そして人も、なんとあたたかく優しいことか。

いま、この部屋の外の道路では、大きな音をたてて改造バイクの一群が走り去って行った。社会という皿の上で私も、そして人も自分が何者かを確かめようとして、声を上げたり音を出したり、つるんだり、さげすんだり、横目で見たりと気ぜわしい。何者かになるために、声を上げていなければ消えてしまいそうな人の群のなかで、なんとか立ち後れないように、埋もれないように、損しないように、抜け目なく必死である。みんなそういうことに少しずつ疲れているけれど、だあれも「お疲れさま」とは言ってくれないし、ねばならないことをいつしか目的も見失ってやらねばならない。

街の外側には山があり、山の上はしんと静かで、その上の空は無限の宇宙に続いているけれど、山すら目に入らない。

死にそうに忙しい時こそ、一日を自分のために使おうよ。
それで死ぬってことはまずない。


# by flammableskirt | 2009-11-10 21:13
新花巻のるんびにい美術館に行って来ました
るんびにい美術館は日本でもまだ三つしかないアウトサイダーアートの美術館です。今回は講演に行って来ました。テーマは「アウトサイダーアートの世界」でしたが、2時間いろんなお話をしました。聞きに来てくれたみなさん、ありがとう楽しかった。そして、とても残念なことに会場の定員が100人だったため、お問い合わせいただいた方をお断りしなければなりませんでした。ごめんなさい。

ここが「るんびにい美術館」。職員の村井さんと板垣さん。いろいろお世話になりました。


いま開催されているのは「みずのき展」です。みずのきの作品はほんとうに素晴らしいです。背筋がぞくぞくするほどイカしてます。近くに住んでいる方はぜひ展示を観に行ってくださいね。ほんと、いいですよ。


ミュージアムショップ。


私のおすすめは、るんびにいの工房で作られているお菓子やケーキ。おいしいです。このラズベリーキャラメルは絶品です。おみやげにたくさん買いました。ラズベリーがぎゅうっと詰ってます。


るんびに工房に通っている人たちが作っています。あと、チョコレートのケーキがおいしかったなあ。ガトーショコラ、甘さひかえめで大人の味でした。


花巻や盛岡近辺に出かけたら、一度寄ってみてください。小さいな気持ちのいい美術館です。喫茶室もあります。とってもアバンギャルドな珈琲カップで珈琲が飲めます(笑)
http://navi.hanamaki.ne.jp/modules/weblinks/singlelink.php?lid=58&keywords=
# by flammableskirt | 2009-11-10 16:46
内省的でない内省
若い頃、と言っても20代から30代にかけて。
自分は内省的な人間だと確信していた。心理学など聞きかじっていたし、自己啓発セミナーのようなものにも参加していた。自分の内面と向き合うことにかけては人よりも自発的にやっていると思っていた。
しかし、今になって振り返ると、ぜんぜん内省的でない内省をやっていたと思う。
確かに自分の内面に関心は向いていたが、その関心には方向性があった。
「自分探し」とよく呼ばれていた、あの方向性である。本当の自分というものを内面に向かって探求していた。
しかし、内省とは自分探しをやめることであり、自分を探す内省などありえないのである。

このことは、今になれば「あ、そうか」と納得できるが、若い頃はさっぱりわからなかった。
というのは、若い頃というのは「ありのままの自分」というのがそもそも受け入れがたいのである。
ありのままを見るのが嫌だ、というのが、若いということであり、まあ、それはそれでいいのだ。
いまでもありのままを見ているかどうかは、主観でしか過ぎないので、八〇歳になったときに
「あの頃は若かった……」と思うかもしれないが、とにかく、今現在では昔より「ありのまま」に見ることができているように感じる。
この「ありのまま」というのも、若い頃は「あるがまま」と混同していた。
「ありのまま」と「あるがまま」は違うのである。ありのまま、というのはなんかこう、諦めちゃったというか、他人事というか、どういうのかなあ、どっか覚めた感じである。しょせん自分はこんなものだからいたしかたないや……というような境地に近い。五〇年も自分とつきあってくると「相変わらずの自分」を「もう変わりようもないか……」と、どうにかしようとも思わなくなるのである。自分と闘わなくなると、それなりになんとか折り合いをつけていくものである。やだな、とか、めんどくさいな、とか、いろいろ思うが、それはそれとして「相変わらず」であり、「こんな自分」であり、「しょうがない」のである。そして、人生は「やるべきことはやらなければならない」し、「ほっておけばいつかは自分で尻拭い」であるのもわかっており、だから「しかたなくやる」のである。
その「しかたなくやる」という、あまりポジティブでない感じを、ネガティブだと思わなくなった。人間、しかたなくやっているくらいがちょうどいい。あまり熱心なのもはた迷惑であったりするものだ。
「あるがまま」の人は、まあ、それはそれでいいのだが、それを強調され過ぎると「わがまま」に感じる。「わがまま」も、それはそれでいいのだが、度が過ぎる場合は敬遠する。
嫌なものは遠ざけるし、好きなものには寄って行く。しょせん、無理をしてもいつしかそうなる。
あまり内省的でない内省を、長いこと続けてきた。
あまり内省的でない内省をしている人は、実によく他人のためにがんばる。
内省すればするほど人はよけいなことをしなくなるので、あまり内省的な人が増えると資本主義も破綻してしまうだろうから、こんなもんでいいのかもしれない。

# by flammableskirt | 2009-11-05 06:11
The world of Outsider Art.
岩手県花巻市のるんびにぃ美術館で講演を行います。
「るんびにぃ美術館」は開館して二年目の小さなかわいい美術館です。
ここでは主にアウトサイダーアーティストたちの作品が展示されています。
また、美術館の二階にあるアトリエでは、さまざまな障害をもった人たちが創作活動をしています。
その作品の斬新さ、クオリティの高さ、すてきです。見学に行って思わずタペストリーを購入。
来年パリで開催される、アウトサイダーアートジャポン展にも、岩手出身の作家の作品が展示されます。
今回は、「アウトサイダーアートの魅力」について、お話をします。
既成の概念や文化にとらわれない自由な表現の可能性と魅力を作品を通してご紹介します。
お近くにお住まいの方はぜひご参加ください。

11月7日(土)17:00 〜18:00
講演 田口ランディ
テーマ「アウトサイダー・アートの世界観」

会場 るんびにぃ美術館 展示ギャラリー
岩手県花巻市星ケ丘1-21-29
問い合わせ
電話0198-22-5057
入場料500円 定員100名


# by flammableskirt | 2009-11-04 17:33 | イベントのご案内
羽根ペン
イタリアでは「コンセント」「アンテナ」「モザイク」の三冊が翻訳出版されている。
私の三部作がすべて翻訳されているのは、イタリアだけだ。
なぜかといえば、熱烈に作品を好きになってくれた編集者と翻訳者が存在したからである。
熱心な編集者がいければ、たとえベストセラーになったとしても海外では出版できない。

最近、日本でも出版社の契機が悪いせいか翻訳文学の出版も減っている。
しかし、それ以上に日本の文学が世界に紹介される機会は少ない。それは、日本人の作家がまずあまり翻訳に熱心でないことと、日本の出版社が日本文化を海外に出すことに熱心でないからだ。
海外の市場は日本ほど大きくないし、「ダ・ヴィンチコード」くらい売れれば別だが、海外出版で儲かるということはあまりない。それでも、海外で翻訳されれば海外の読者を得ることになる。
イタリアに行って、一番うれしいのは、全く文化の違う国の人たちと本を通じていろんな会話ができることだ。

本が翻訳されていること、また「アンテナ」という小説が映画化されてヴェネチア映画祭にノミネートされたことなどあって、イタリアに行く機会が増えた。この三年間、毎年イタリアのどこかの街の文化祭や文学祭などに招待されて、その度に会うタリアの日本文学を教えている人たち、編集者、ジャーナリストとはすっかり仲良くなった。私の家にも度々、イタリアから友人たちが尋ねて来るようになり、いまや私にとってイタリアは一番身近な海外となった。

彼らといっしょに過ごす時に感じる、親しみ、安心感というものは得難い。どうしてこんなに心安らぐのだろうか……と不思議に思う。そう言ったら、私の本の翻訳者であるジャンルーカは「それはきっと、田口さんがちょっとイタリア人に近くて、私たちがちょっと日本人に近いからだと思います」と笑った。

羽根ペンとインクと紙を買った。そして、ペンの神様にお願いした。いい小説が書けますように。


# by flammableskirt | 2009-11-04 15:00
フィレンツエ
フィレンツエにあるサンタマリア教会の中にある有名な薬局。
ハーブや石鹸、サプリメントなど昔ながらの製法で作られたものがたくさんある。ジャンルーカのイタリア語の生徒だった日本人女性が働いており、案内してもらった。もちろん、オーデコロンや石鹸、特製ポプリなどたくさん購入。ここのポプリはすごいです。香りそのものにとてつもないパワーがあり、これを買うためだけにでもフィレンツエに行ってしまいそう!!!!
# by flammableskirt | 2009-11-04 10:26
チーズとワインと夜
ここは、イタリアのワインの立ち飲み屋さん。おじさんがどんどん不思議なチーズを出してくる。ワイン、最高にうまかった。

みんなで夕食を食べた昔風のレストラン。お肉がおいしい。

チーズとか、ボローニャ地方のパンとか、どれもボノ!

フィッレンツエには馬車が走っていた。ひずめの音が心地よい。

空に青く光っているのは、月です。
# by flammableskirt | 2009-11-03 20:42
Bologna Firenze
イタリア出張から戻りました。
いつもそうだけれど、イタリアの翻訳家や日本文学の研究者のみなさん、スタッフのみんながほんとにすてきな人たちで、勇気づけられる。日本人よりも日本のことが大好きで、日本についてよく知っている。

ボローニャの本屋さんの前で。


イタリアでいつも通訳をしてくれるジョセッペさん。彼の通訳はイタリア一と評判。ほんとうにすごい!通訳されているストレスがない!



フィレンツエの教会。ケーキみたいにきれい。



教会内部の天井画。パイプオルガンが響きわたりトランスしそう。
# by flammableskirt | 2009-11-03 20:32
Who give water for the plants ?
明日から留守にするので、植物の手入れをした。
今年、クレマチスは3回も花をつけた。いまも咲いている。花の数は少ないけれど、よくがんばったなあ。

山野草はこの環境ではなかなか生き残るのが難しい。暑すぎる。観葉植物はかなり元気。やはりここでは山野草は無理か……。手入れをしたが、どんどん弱っている。観葉植物はひたすら元気だ。



◎植物を育てるということ

 20代から30代にかけて、どれほど植物を殺したことか。全く育てられなかった。こんな代殺戮を繰り返している自分が子供を育てられるのだろうか……と真剣に悩んだ。38歳で子供を産んで、40歳で作家デビューした。40代になってから、しだいに植物の世話ができるようになってきた。子供を産んだことと関係するのか、年をとったからなのか定かではない。一年ほど前から、どんどん植物が面白くなって、鉢が増えていった。別に人間が変わったわけではない。生き物に対して注意深くなったのだ。それは、子供に対してもそうだし、家人に対しても、そして自分に対しても……だ。若い頃は自分の体調にも無頓着だった。自分に無頓着な人間が植物を育てられるわけもない。いまは自分の体調にも敏感だが、その延長線で植物にも気が回る。
「なぜ、いまこの子は枯れているのか?」を考えるようになった。基本は水が足りないか水のあげすぎである。人間も似たようなもので、具合が悪いときはたいがいビタミン不足か、食べ過ぎである。植物を育てられない時は自分すら育てられなかった。子供は自分が元気でないととても育てられないので、自分に気を使うようになった。自分がわかれば、植物もわかる。

# by flammableskirt | 2009-10-28 17:23
そして1年ぶりのイタリアはもうすぐ
イタリアの文学祭は盛大なんだよな〜。
これは以前の時の写真。なつかしい。ナポリでみんなで昼ごはん。
左側の真ん中の眼鏡の男性はばななさんの翻訳者として有名なジョルジュ氏です。


けっこう着物が似合うイタリアの古い町並み


イタリア版、コンセント
今回はモザイクのイタリア語版が出ている。
# by flammableskirt | 2009-10-27 17:57
縄文遺跡のスイッチさん
この写真すごく気に入ってるんだよなあ。
# by flammableskirt | 2009-10-27 17:49
人と自分をわきまえること
◎「生なおすのにもってこいの日」バジリコ出版
  のなかに「ビョーキのご家族をもつ皆さまへ」というエッセイが収録されている。
 これは、そのタイトルそのもので、ビョーキの家族がいて困っているという人に向けて、ストレートに書いたエッセイである。そういう悩みをもっている人はこの部分だけでも立ち読みしてください。

 なにが書いてあるかと言えば、家族が精神を患っていても、それは自分の病気ではないのだから、自分のことのように錯覚して悩み苦しむと、逆にビョーキの家族が気の毒である、ということだ。
 人のビョーキは人のもの。自分と家族のビョーキを混同して自分までビョーキになったように苦しむことがよくあるが、それは優しさではない。自分は自分の人生を歩けばいいし、家族のビョーキはあなたのビョーキではない。しかし、それをわきまえられない人が多いのは、家族と自分が分離しがたいからだろう。親子であっても兄弟であっても、他人のビョーキを肩代わりすることは絶対に不可能。それなのに家族のビョーキに悩んだり苦しんだり、恥ずかしがったリ、深刻になったりしすぎると、逆にビョーキの人が恐縮して、具合が悪くなったりするものだ。
# by flammableskirt | 2009-10-27 13:25
誰かがいまも悩み苦しんでいること
ずいぶんとたくさんの本を書いてきたが、すべての人が私の本を読むわけではないのは百も承知。
地方に講演に行くと、家族にひきこもりがいる、鬱病の友人がいる、父親がアル中で働かない、という方とたくさん出逢う。こういう問題は何度でも書いていいのかもしれないと思う。私の家族はすでに皆死に絶え、私のなかでは終わった問題となったが、この話題は何度でも書いていいのかもしれない。なので、これから少しずつ、ブログに書くことにする。もし、あなたの周りに、アルコール依存症、ひきこもり、精神病の家族に悩んでいる人がいたら、教えてあげてください。


◎ひきこもりについて
私の兄はひきこもりであったが、ひきこもりにもいろんなタイプがあり、兄の場合は母親との共依存型のひきこもりだった。兄は「俺がいなくなったら母親はオヤジに殺される」とよく言っていたし、事実、それに近かった。兄がクッションとなって兄に父の関心が向くので、母親が父から暴力をふるわけることは少なかった。兄が死んでほぼ一年半後に母が死んだのは、偶然ではなく、母は父の集中攻撃に耐えられなかったのだと私は思っている。家族という集団は、妙なバランスの取り方をするものだ。だから、誰かがひきこもっているなら、そこにはなにかしら家族の間の微妙なバランスが関わっている場合があり、あながち無益でもなかったりする。


# by flammableskirt | 2009-10-26 17:23
ダライ・ラマ法王の苦悩
チベットの独立、それこそがダライ・ラマ法王の切なる願いだろう。
自分たちの国が独立できない、ということの苦悩。想像しようとしても私の想像力では追いつかない。
対立のない世界を願うダライ・ラマ法王をめぐって、すでに対立が起きている現実。
ところで、ダライ・ラマ法王は「仏教のひとつの頂点」に立っているのか。
仏教の多様性を考えると、それは少しばかり偏った見方にように思えてならない。
「ダライ・ラマ法王14世と日本の学者4人の対話から未来が見える」
このイベントは友人が運営に協力しており、友人からの依頼でブログにアップしている。
しかし、残念なことに私はこの日、イタリアに出張中で傍聴することはできない。
パネリストは皆、とても著名な方々である。有意義な提言がされるだろう。そしてたぶん、想像するにそれぞれの方たちはおおむね、未来のあるべき地球について、それほど努力せずとも合意できる方たちであろう。
だからサブタイトルは仏教と科学の共鳴……なのだろう。
少しばかり、天の邪鬼な見方をしてしまうのだが、なぜ共鳴できる人たちとのみ共鳴するのか。
この世界の問題は対立であり、対立を回避する対話を模索するなら、対立軸にある思想をぶつけてみないと、なにが対立点なのかがわからない。
対立する者同士はなかなか同じテーブルに着いて対話を始めようとはしないし、実際にそのような場が用意されたとしても、相手のあげ足を取ったり攻撃したり、まったく意見を聞く耳をもたぬことが多い。
それは、実に多くの場合そうである。立場が、平和の側であっても、なくても、両者とも対話する前に対立しようとする。
仲良し同士なら誰でも仲良くできるだろう。
そして、仲良し同士はどんどんくっついて自分たちが多数意見であることをアピールしたがる。だが、数で抑え込む解決策はまた次の問題を産む。対話を知るためには、対話を体験するべきなのじゃないか。
対話しようとしても対話すらできない相手と、いかに対話するかが問題だ。
それを知らずして、ダライ・ラマ法王の苦悩を理解することはできないだろう。
平和を声高に叫ぶ人たちのなかには、平和のために攻撃的になる人も多い。それは正義であるからだ。全面に押し出せば自分の攻撃性は正当化されてしまうかもしれない。
そのような人間の弱さを、対話は暴き出す。そして気づかせてくれる。その醜さを。
反対意見のない場を対話と呼ぶべきなのか、いつも悩む。





# by flammableskirt | 2009-10-26 17:07
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